2013年10月17日(木)
「なんだそれ。ただの直感かよ」
仁は軽く肩をすくめた。どこか自嘲含みの声で言う。
「しかも大外れだ。俺には大それた夢とか野望なんてないぜ」
「でも、正義感の強い人なのは間違いないわ。たぶん」
根拠のないことを言っているにもかかわらず、綾花はやたらと自信満々に胸を張った。腰に手を当ててぐっと身を乗り出した綾花のつぶらな瞳に至近距離から見つめられて、仁は一瞬たじろいでしまう。
「逆に、どうしてエージェントになりたくないの?」
そんなまっすぐな問いに、仁はしばし逡巡してから答える。
「実は、こっちも直感なんだ」
「直感?」
「この世界と表裏一体の人工の世界――ARCANAを初めて見たとき、胸の奥が妙にざわついたんだよ。いつか、必ずおとずれる未来に、何かが……俺なんかがどれだけあがいても、どうにもならない何かが起こるような気がするんだ」
いつの間にかふるえていた右腕を強く握り、乱れそうになる呼吸を落ち着ける。何を怖れているのか、何から逃げようとしているのか。彼自身にもわかっていない。ただ黒いもやのような漠然とした不安が胸の奥でうずまいているのだ。
「たしかに電脳空間にはいろいろと問題があるわ。まだ解明されていないイレギュラーな現象も続いてる。もしかしたら、いつかは私達の手に負えない何かが起こるかもしれない」
「怖くないのか?」
「怖いわよ。でも、何もしなければ大変なことになるとわかってて、それでも何もしないなんて……そのほうがもっと怖い」
よく通る声で綾花は断言した。迷いのない眼差しから目を逸らすと、仁はPDAをLEDの明かりに照らした。表面にはいくつもの細かな傷がある。
「恐怖を自覚した上での正義。なるほど、そういう考え方もあるのか」
「考え直してくれた?」
期待するようなきらきらした目で綾花は訊いた。仁は軽く肩をすくめて、綾花にPDAを手渡した。
「もうすこし保留にさせてくれ。ただ――興味はわいてきた」
「そ。なら、とりあえずは満足ね」
にっこりと笑みを浮かべてそれを受け取ると、綾花はくるりと踵を返した。
「よーっし。今日のお仕事はここまで! ここからはオフの時間よっ」
袖をまくり肩をくるくる回して、ふたたびキッチンへと臨む。
食材を手に取って、鼻歌を再開させる綾花。その背中を眺める仁のこめかみを、つう、っと冷たい汗が流れ落ちた。
「……おい。スカウトの件には返事をしただろ。そろそろ帰ってくれると嬉しいんだが」
「なに言ってるのよ。お夕飯を作っていくのはスカウトとは別件よ? あなたってほっとくといっつも外食とかレトルトとかばっかりだし」
「俺の食生活なんざあんたに関係ないだろ」
「あるわよ。未来のエージェントが不摂生な生活をしていて、ほっとけるわけないでしょ」
「食費、自腹だろ?」
「大丈夫、エージェントへの必要経費としてASTに請求してあるから。心配しないで」
「ぐ……い、いや、その。なんというかだな」
仁は胸の内でひそかに思う。彼が綾花の訪問を嫌がっていたのもまた、スカウトとは関係のない話なのだと。
「かんたんなシチューでいい?」
「本当にかんたんなシチューならそれでいいんだが……その肉、豚レバーだよな?」
「え。そうだけど」
それがどうしたの、とでも言いたげに綾花は怪訝そうに眉をひそめた。愕然とする仁の目の前で、綾花はつぎつぎと信じられないものをキッチンにならべていく。ツナ缶、春菊、長ネギ、納豆、そして洋梨。
「いちおう確認させてもらうが、シチューを作るんだよな?」
「ええ。クリームレバーシチュー健康スペシャルよ。大学の栄養学科の友達にアドバイスしてもらって、体にいいものをたっぷり詰めてみたの」
「たしかに体には良さそうだが……」
「でもちょっと口当たり強そうだから、ラ・フランスで中和してみようと思って」
「増やす方向じゃなくて減らす方向で解決してほしいんだが……」
「ふふっ。どんなものになるか楽しみにしてて。私のオリジナルレシピだから、きっと他では食べられないスペシャルな一品になるわよ」
仁のつっこみをさらりと流して、綾花はやたらと上機嫌で材料を開封しはじめた。彼女の指にいくつもの絆創膏が貼られているのを見て、仁は、喉元まで上がりかけていた拒絶の言葉をぐっと飲みこんだ。
(大切にされてきた根っからのお嬢様――料理なんて得意なわけがねえってのに)
ソファに座りなおして、おもいきり天井を仰ぐ。光がぼんやりとかすんで、デジタル画像のノイズのよう。
(誰かのためにここまでやれるもんなんだな……そういや、あの日もそうだったか)
あの日。
ふと気がつくと、知っているようで知らない景色が、なんの前触れもなくそこにあった。都内の街並みに似ているが、二一〇三年現在に比べると、どこか古臭い雰囲気があった。
たしかに地面に立っているはずなのに、虚空を踏むかのような奇妙な感覚。気味の悪さを感じながらも仁はあてどもなくその場所をさまよっていた。逃げなければいけない。ここは危険だ。直感はそう訴えていたが、どこへ逃げればいいのかも、どうすれば逃げられるのかも、あのときはわからなかった。
そのとき、視線の先でいきなり半透明の多角形が浮かび上がった。周回する光の軌跡に合わせ、その図形はぐるりぐるりと回転している。やがてポリゴンが解けるとともに描き出された魔法陣が地面に吸い込まれるように消えていった。
直後。ばらばらに砕け散ったポリゴンが収束し、何かの姿が再構築されていく。あまりにも異常な光景を前に仁は息をのんだ。見上げるばかりの大きさを誇る、現実には存在し得ない怪物が突如として目の前に現れたのだ。怪物は太い四肢で地を強く踏みしめ、荒い鼻息をもらし、獰猛な昏い瞳を向けてくる。
逃げなければ、と思った。だが、逃げられるわけがないとも直感していた。
強靭な牙の生えそろった口が大きく開かれ、凄まじい勢いで迫ってくる。仁は立ち尽くしたまま、強く目をとじる。
しかし――予想していた衝撃も、痛みもなかった。
ゆっくりと目を開けると、そこには怪物が咆哮とともに倒れていく姿があった。体がノイズのようにぶれて、鮮やかな光が砕けるように巨体のシルエットが消えていく。
そして。そこに毅然と立ち尽くしていた少女――御巫綾花は、仁のほうを振り返ると、たったいま怪物と対面していたとは思えないほどの快活な笑みを浮かべてみせたのだ。
「待たせたわね。危ないところだったけど、私が来たからにはもう大丈夫よ!」
「待たせたわね」
記憶の中のものと同じ声、同じ台詞に、仁は現実に引き戻された。綾花はあの日と同じような、まっすぐに物事に向かっていく強さを秘めた目をしている。
「これは、自信作よ」
満面に笑みをたたえて綾花は“それ”が盛られた皿を仁の前に差しだした。言われなければシチューだとわからないような、名状しがたいものがそこにはあった。
「あ……ああ……」
ひきつった笑みを浮かべながら、仁は皿とスプーンを受け取る。
そして、
「……あのときは不覚にもカッコいい女だと思ったもんだが……まさかこんな弱点があったなんてな……」
「何か言った?」
「まっすぐであんたらしい料理だって言ったんだよ」
「ふふっ。そう言ってもらえると嬉しいわ。立派なエージェントとしてしっかり活躍できるように、これからも栄養たっぷりの料理をどんどん作ってあげるからね」
あとで一般的なレシピを検索して、教えてやろう。
と、ひそかに誓いを立てながら仁はその“シチューのような何か”を口に運ぶ。
それはとてもひどい味だったが、口内に広がっていく温かみだけは悪くないと感じられて。自分でも意識しないうちに、仁は、くすり、と笑みをこぼしていた。
Illustration:Production I.G
(C)SEGA
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