2013年12月26日(木)
「勝負……?」
怪訝そうに首をかしげる綾花に向けて、仁はそのコインをひっくり返して、両方の面を見せながら説明した。
「ここにコインがある。こっちの船のマークが表で、何も描かれてないほうが裏だ」
「そうね」
「よく見てろよ――」
ピン、と涼やかな音が響いた。仁の弾いたコインが宙をくるくると回転している。落ちてきたコインを左手の甲で受け止めると、その上から右手をかぶせて、コインを隠してしまう。そして、その重ねた手を綾花の目の高さに掲げてみせた。
「表と裏、どっちだと思う?」
「なんだ。よくあるコイントスのゲームね。いいわ、それなら当然――オモテよ!」
「残念。不正解だ」
綾花が鋭く回答した直後に、間髪いれずに仁は言った。しかしまだ仁はその手を開いてはいない。
「えっ。この状態じゃ仁にも手の中は見えないはずじゃ……」
困惑する綾花の目の前で仁が右手を持ち上げた。左手の甲に乗っていたコインはたしかにイラストの描かれていない面が上になっている。
「うそ……どうして見るよりも先にわかったの?」
「条件がフェアだと思ってるあたりが綾花のいいところでもあって、〝見えてない〟ところでもある」
にやりと勝ち気な笑みを浮かべて仁はそのコインを裏返した。
「あっ……両面裏のコイン!」
「そういうことだ。もともと両表と両裏のコインを一枚ずつ右手の中に隠し持ってて、綾花が答えたあとに不正解のほうを左手に残したんだ。簡単なトリックだが、意外とわからないもんだろう?」
「ううっ。悔しい……そんなのずるいわ」
「誤解しないでほしいが、実際の勝負事でイカサマを使ったことはないぞ。勝敗を運と直感と決断にゆだねるところがギャンブルの面白いところだからな。こんな手品じゃ熱くなれない」
綾花が頬をふくらませていじけていると、仁はコインをポケットにしまいながら付け加えた。それから出来の悪い後輩を言い含めるような顔になる。
「だが現実でもこういう汚いことを平気でやってくる奴らがいる。一人や二人じゃないんだ。それが人間の本質なんじゃないかってぐらいに、たくさんの人間が、これをやる。綾花もすこしは人を疑うことを覚えたほうがいい」
諭すように言われて綾花は胸がつかれるような思いだった。小さいころから、綾花は父親に連れられて大人のパーティーによく参加していた。そういう場で多くの成功者、有名人に出会って、その瞳を見てきた。卑怯な手段で立場を向上させてきた人物たちではなく、混ざり気のない純粋なスター。彼らの多くを見てきたことで自分は“成功する者”“常に前を見る者”を見極める目を養うことができたと自負している。
しかし、それは人の正の側面しか見てこなかったともいえる。成功者たちはすでに誰かを陥れたり卑怯な真似をしなくてもいいほどに熟練し、余裕がある。だが、そうでない人間は。そう、エージェントが取り締まり、撃退すべきサイバー犯罪者は言わば負の側面を強く持った者たちなのだ。
過去に何があったのか、仁はいっさい語らない。
しかし彼はきっと負の気配に浸ってきたのではないだろうか。正の気配に浸ってきた綾花にとって仁の価値観は未知であり、これから学ばなければならないことであり、欠け落ちていた何かを埋めるピースでもあった。
裏面という概念を持たない両表のコインのように。
「――とまあ、いじわるを言ったが、ころっと騙されちまう純粋培養のお嬢様が悪人の気持ちに迫るには一年や二年の経験じゃ無理だ」
「い、いえ! 私は今からでも頑張って――えっ」
勢い込んで顔をあげた綾花の顔の前に仁は指を立てた。
「だからエージェントは一人じゃない……だろ? 一人で全部を解決できる人間なんていやしない。綾花は馬鹿正直にまっすぐでいい。裏側のドロドロしたところは俺に任せろ」
「仁……」
呆けたようにつぶやくと、ふいに仁の表情がキンスケに向けたものと同じようにやわらかくなった。仁の手があごの下を軽くさすってくる。体の奥が震えるような妙なくすぐったさと気恥ずかしさに綾花の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「な……な……?」
「ん? どうした。顔が赤いぞ」
顎を撫でる手はそのままに顔を覗き込んでくる。よけいに緊張が加速して綾花は声を裏返らせた。
「な……な……なにを?」
「ああ、これか。いやなんていうか、つい手が勝手にな――なんていうか犬みたいなところあるよな、綾花」
「………………………………へ?」
柔和な笑顔のまま放たれたその発言に綾花の表情がぴきりと凍りついた。
「いや、悪い意味じゃないぞ」
「ど、どう受け取ったら良い意味になるのよっ」
悲鳴のような声で綾花が抗議すると、仁は困ったように頬を掻いた。
「犬と同じで妙に安心感があるというか……ああ、こいつは裏切ったりとか、変な策謀を巡らせたりとか、できないんだろうなって」
「……微妙に馬鹿にされているような気もするのだけど」
「たぶん気のせいだ」
「ふうん……そっか」
綾花は不満げに唇をとがらせた。釈然としない気持ちも残っているが、しつこく追及したところでいつものように軽くかわされてしまいそうだ。とはいえ、仁と話したことでまたひとつ気づきがあったのも事実。やっぱり最初に電脳空間で見かけたときに、彼が自分やASTにとって必要な存在になりそうだと直感したのは、間違いではなかったのだろう。
負けていられない、と思う。もっともっと頑張らなければ、と思う。
「なんだかあなたにおくれをとっているみたいで悔しいわ」
手をぎゅっと握りしめて、気合いを入れ直す。そしてくるりと仁に背中を向けると、その腕を思いきり天へと突き上げた。
「いくわよ仁! ARCANAを荒らす悪い奴を成敗するのよ!」
すると背中から仁の呆れたような声がする。
「今日はただのパトロールだろ」
「毎日が本気なの! 一日たりとも消化試合なんて存在しないわっ」
振り返って、自分でもびっくりするくらいの明るい声で断言する。
「……まっ。そういうのも悪くないか」
仁は普段と同じ冷静な表情に戻りやれやれと首を振りながらも、綾花に合わせるように控えめに腕を天にのばした。
こうして二人は電脳空間へと足を踏み出した。
プログラムカードシステムを用いて異能の技を行使し、世界の秩序を守る――エージェントたちの戦いの舞台へと。
Illustration:Production I.G
(C)SEGA
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