連環の計はホントにあった? 龐統が赤壁にいた理由とは? 【三国志 英傑群像出張版#4-2】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



龐統(ほうとう)伝説

 龐統は諸葛亮(孔明)と並び称される優秀な人物で、あだ名は「鳳雛(ほうすう:鳳凰の雛という意味)」。龐統の亡くなった場所は「落鳳坡(らくほうは:鳳凰が落ちた場所を意味)」という地名になっています。

 以前、三国志の巨大ジオラマを作った時、落鳳坡で龐統が矢に当たって絶命寸前のシーンを作りました。その際、鳳凰が落ちているものを後ろにそえて貰いました。その落鳳坡へ、私は何の因果か三顧(三回)どころか、もう四度もその地に伺いました。

 地名に関する民間伝承というのは多いものの話題的に面白味がなく紹介しずらいのですが、今回はあえて紹介させてください。

 「落鳳坡」のある場所は「白馬村」、あの龐統が亡くなったときの劉備と交換した馬の色ではありませんか。

 現地でそれを見たとき、たまたまなのか伝説からついた地名なのか疑問に思っていました。そんな時、こんな民間伝承をみつけました。

白馬のお墓

 劉備と龐統が西蜀に進軍した時、龐統は劉備の白馬が目立ちすぎてすぐにバレてしまうと思い安全のため劉備と馬を交換した。

 敵の張任(ちょうじん)らは、劉備軍が攻め入るべき道の両側で待ち伏せており、劉備が白馬に乗っているに違いないと思っていた。

 白馬に乗る人物を見つけると彼は指示して白馬の龐統に矢を放った。龐統は進むことも退くこともできず、矢を射られて死んでしまった。龐統が亡くなった場所は、彼のあだ名「鳳雛」にちなんで「落鳳坡」と呼ばれるようになった。

 また白馬は矢傷を負って包囲網を抜け出し、「白馬村」で崩れ落ち死んだ。その後、劉備は龐統と白馬のためにこの地に石碑をつくり供養した。

 演義では劉備から馬の交換を提案しますが今回逆でした。白馬が死んだから、名が付いた「白馬村」なのか、元々、「白馬村」なのかいまいち不明のままですが、これを聞く感じではおそらく後者ぽいですね。

 劉備の白馬を思う気持ちから龐統とともに祀ったという話はちょっとほっこりしました。

 次は、演義で「赤壁の戦い」の際いの際、龐統は赤壁の地にいて船と船をつながせる「連環の計」を成功させます。

 襄陽出身の彼がなぜそこに住んでいたのか? 単に物語だからというのは簡単ですが。次はそれを推測する手がかりになりそうな民間伝承が2つあるのでご紹介していきます。

龐統vs劉表

 若い頃の龐統は非常に優秀で、“文字の筆記”から、人の悩みを解決したり、提案したりするのが好きだった。

 劉表は襄陽にいたが、この話を聞いても信じられなかった。ある日、退屈しのぎに市民を装って龐統に近づき、「自分はどんな人間かを見てほしい」と言った。

 龐統は、「文字をなにか書いてください」と言った。劉表は答えず、筆で“人”という字を書いた。龐統は彼の傲慢な表情と太い手を見て、しばらく考えた後、「あなたは偉大な役人である」と言った。劉表は内心驚いたが、表面上は静かな表情を保っていた。

 しばらくして、劉表は従者を見つけて、同じ事をさせた。従者は掌に“人”という文字を書き、龐統に「私はどんな人間なのか教えてください」と頼んだ。

 龐統はその手元を行ったり来たりして、「あなたは先ほどの大役人の従者でしょう。」と言った。劉表は驚いたが、まだ納得がいかないので、牢屋から“囚人”を探し出しきた。彼に黒い帽子と官服を着せ変装させて駕籠に乗せ龐統の元へ行かせた。

 囚人が駕籠から降りてきて龐統に、「おい!『人』という字を書けばいいのか?」と会うなり言った。龐統は彼をよく見て文字を書く前に、「あなたは囚人でしょう」と言った。劉表はそれを聴いて、「この人は本当に大したものだ、もう一度やってみよう」と思った。

 今度は“乞食”を見つけて、今度もきれいな服を与えて龐統の所にいかせた。龐統は、「どんな言葉を試したいのか?」と尋ねました。乞食は棒を手に取り、地面に“人”の字を書いて言った。「先生、私がどんな人間かわかりますか?」。龐統は、しばらく地上の文字を見てから、その人を調べて、「あなたは乞食ですね」と言った。

 劉表は龐統に会って「先生、どうしてそんなに早く、あらゆる人の身分を見分けることができるのですか?」というと龐統は微笑みながら「1人目(劉表)の書く“人”は、”左を刀のように、右押えを人を打つ板”のように書いているので、大役人だろうと推察されます。」

 「2人目(従者)の書く“人”は、“手の甲は上、掌は下”という古いことわざがあるように、文字が男の掌に書かれており、従順で犬や馬のような姿をしている。まさに従者です。」

 「3人目(囚人)の“人”は、客の口から出たものだ(口+人=囚)。立派な服を着ているが顔は青白く、車に座っているが恐る恐る歩く。まさに「囚人」です。」

 「4人目(乞食)の“人”はわかりやすく、骨のように細い男が、棒で地面に細い“人”の字を描いていたので、すぐに乞食と判断できました。」

 これを聞いた劉表は褒め続けながらも、「この人は若くて非凡で、とても賢く、よく人の悩みを解決し、人心をつかんでいるから、将来危険かもしれない!」と考え、龐統をなんとか処分するつもりになった。このことを感じ取った龐統は、襄陽から姿を消したのだった。

龐統がなぜ赤壁にいたのか?

 赤壁の近くの南屛山(なんぺいざん:孔明が東南の風を祈った祭壇を作った場所)とも連なる“金弯山(きんわんざん)”。ふもとには、現在、龐統が隠遁生活を送ったとされる場所“鳳凰庵(ほうすうあん)”があります。

 赤壁の戦いの前に、各国の軍隊が集まってきました。近くの人々は皆隠れて逃げてしまいます。逆にこの時、龐統は漢江を下り、夏口を越えて長江に乗り、この荒れ果てた山にたどり着きました。隠居して勉強していると言っていたが、実はこの大きな戦いに関わり、本物の英雄を見極める為にやってきたのです。

 やがて赤壁の戦いが始まり、龐統は曹操の船に火を放つ作戦を提案します(連環の計)。のちに劉備は彼の才能を見抜き、龐統も劉備が賢明な統治者であることを見抜いたので、劉備の軍師となり飛躍します。

 残念ながら龐統が志半ばで戦死すると、“金の鳳凰”になりこの地に戻り、梧桐(あおぎり)の木にとまったと言われています。これがこの山の名前である“金弯山”の由来となりました。

 1つ目、三国志の優秀な人は文字遊びやとんち話が好きです。三国志演義に出てくる曹操と楊脩(ようしゅう)の話はまさにそれ。その楊脩の話も民間伝承から来ているとは思われます。

 2つ目は演義の補完的なお話。以前は赤壁の戦いの連環の計は、空想だろうと思っていました。しかし現地に行くと、龐統が住んでいたという場所があります。ここもあと付けの場所だろうと考えていましたが、さらに民間伝承まであるのがすごいところ。

 ここまで証拠が揃うと信じざるを得ませんよね。また、この“鳳凰庵”に行ったときに鳳凰が止まったといわれる木も確かにありました。

龐統vs諸葛亮

 諸葛亮と龐統は、ともに蜀漢の賢人である。

 ある日、二人は座っておしゃべりしていた。机の前に飛び込んできたコオロギを、龐統は素早く掌にはさみ、「孔明、このコオロギは死んでいるか? 生きているか?」と尋ねた。

 諸葛亮は答えずに、ゆっくりと立ち上がり、天幕の端まで歩を進め、左足を天幕の中に、右足を天幕の外に出して、龐統に尋ねた。「私は外に出るか? 中に戻るか?」と。二人は心から笑いあった。

 ここで龐統は、諸葛亮がコオロギを生きていると言えば、握りつぶして死に、死んでいると言えば、手を緩めて生き返らせるという柔軟な方法をとっただろう。一方、諸葛亮も、龐統が「出ていく」と言えば右足を引き、「戻る」と言えば左足をすすめ、常に自分が勝つという仕返しことだろう。

 「孔明と龐統の知恵比べ対決」でした。この対決は演義にはなく、誰もが見たかった対決ではないでしょうか? 共にカッコイイ!

 さて次回は魏延の伝承をお届けしようと思っております。お楽しみに!

春の三国志会 第9回 神戸3/27(日)に実施しました!

 コロナ禍で延期続きでしたが、ようやく3年ぶりの春の三国志イベントを開催できました。

 講座、講談、朗読、紙芝居、演劇、謎解き、テスト、占い、造形会などなど行いました。

 たくさんご来館頂きありがとうございました! 県外からも来ていただき感謝します。

 当日、私は孔明の格好してたのでお声がけ頂いて嬉しかったです! 次は11月の三国志祭を乞うご期待!


岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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