任天堂旧本社の社屋をリノベーションしたホテル“丸福樓”の内覧会が開催

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 任天堂旧本社の社屋をリノベーションしたホテル“丸福樓”の施設内覧会とオープンセレモニーが開催。イベントレポートが公開されました。

 以下、リリース原文を掲載します。

任天堂を創業した山内家が開設の想いとこだわりを語る任天堂旧本社社屋ホテル『丸福樓(まるふくろう)』施設内覧会&オープンセレモニー「任天堂の歴史の奥深さを、見て、感じて、会話が生まれる場所」

 任天堂を創業した山内家(Yamauchi-No.10 Family Office、山内財団、株式会社山内 以下、山内家)は、2022年3月29日(火)に、京都・鍵屋町の任天堂旧本社社屋をリノベーションしたホテル『丸福樓(まるふくろう)』の開業、任天堂創業の理念を表現したライブラリー『dNa(でぃーえぬえー)』の公開を記念して、施設山内覧会及びオープニングセレモニーを実施しました。

 『丸福樓』山内では挑戦を続けた任天堂の歴史とその原点に触れられる特別ライブラリーも同時にオープンし、「挑戦」を大切にする先代のスピリットを感じられる場所として公開いたします。

 宿泊・運営は株式会社Plan・Do・Seeによるプロデュースのもと、既存の建物と世界的建築家・安藤忠雄氏が設計監修した新しい建物が融合し、全18室のホテル『丸福樓(まるふくろう)』が誕生します。

  • ▲内覧会にて 創業家 山内万丈

山内家代表 山内克仁の挨拶

 現在、世界中で愛される任天堂の原点は、この京都の地にあります。1889年、私の先祖である山内房次郎は花札の生産販売を手掛ける山内房次郎商店を開業しました。ここ『丸福樓』は、初代房次郎から二代目積良へとバトンが渡される過程で建築され、1930年から1950年ごろまで山内任天堂・株式会社丸福の本社や拠点として使用されていました。

 私の父山内溥は、任天堂の中興の祖と呼ばれ、任天堂をゲーム業界の雄へと押し上げた人物です。その過程には、とてつもなく孤独で、ハングリーで、苦しい挑戦と試行錯誤の時間がありました。

 父は、22歳で会社を継ぎ、50歳を過ぎてゲームビジネスが花開くまで、先の見えない暗く長いトンネルを歩みました。明日を生き残るために、信じて歩むしかなかったと。

 この場所は、長らく倉庫として使われ、一般の方の目に触れることはありませんでした。そんな場所がPlan・Do・Seeさんの手を借りて、ホテル『丸福樓』として生まれ変わります。ゲストとしてお越しいただける方には、元の建物の名残・建物の外観・山内観から、今も任天堂から感じられる、細部にこだわるモノ作りの文化を感じていただけるかと思います。

 この場所は、初代・二代目・三代目である父や父の仲間たち、そして任天堂の挑戦の時間を見守ってきた場所です。その歴史に思いを馳せていただきたいとの思いを込めて開業の発表をいたしました。

 歴史を刻んできたこの建物【ハードウェア】を、今後100年、さらに先の未来へ受け継いでいき、任天堂の創業・発展の精神【ソフトウェア】を伝え続けることこそ、私たちの使命だと感じております。

 開業に際して、旧本社に新たな息吹をもたらしてくださった安藤忠雄先生、Plan・Do・Seeの皆様に心より感謝申し上げます。また、長年この地にたたずんだ旧本社を町の景色として受け入れて下さった地域の皆様にも、この場をお借りして感謝申し上げます。

 『丸福樓』が京都の新たなシンボルとして、人々が集い、歴史や未来に思いを馳せ、語らい豊かな時を過ごす場所となることを願っております。


  • ▲(左より山内家 山内万丈、株式会社Plan・Do・See 京都エリアマネージャー佐伯昌紀、安藤忠雄建築研究所 代表 安藤忠雄、京都市 市長 門川大作)

 『丸福樓』の開業にあたり、現任天堂社長の古川俊太郎氏、京都市 門川市長からもコメントを頂きました。

任天堂株式会社長 代表取締役社長古川俊太郎氏 祝辞

 『丸福樓』が冠する「丸福」とは、1889年に花札の製造・販売で創業し、法人として1947年に設立された私ども任天堂株式会社長の最初の社長名です。設立後、任天堂は1950年から59年までの間、後に『丸福樓』となる建物を本店として使用していました。

 任天堂の当時の主力商品は、花札やかるたでした。それらの品質を示す印として、「丸福」の印が使用され、その名残は現在の当社長商品にも残っています。

 任天堂は創業より一貫して「娯楽」を扱う企業です。娯楽は時代の移り変わりによって、需要が著しく変化し、それによって任天堂も自らを柔軟に変化させてきました。『丸福樓』には、そうした変遷を描いた任天堂の、歴史が刻まれています。

 そして、今回『丸福樓』は、当時の社長屋の姿を残し、素晴らしいホテルとして生まれ変わりました。任天堂が時代と共に変化したように、社長屋だった建物もホテルへと変化しますが、皆様が『丸福樓』で過ごされる時間が、当時の娯楽と時代の移ろいを感じていただける機会となることを楽しみにしております。

京都市長 門川市長 コメント

 京都から世界へ。任天堂の挑戦の記憶が刻まれた旧本社長社長屋を活用した,魅力的なホテルとライブラリーが誕生。山内さんのように古くから京都にお住まいの方が京都を愛し,地域に貢献してくださっていることを,大変嬉しく思います。また,山内財団様からの「高瀬川再生プロじェクト」への多大な御支援のお申し出に感謝いたします。魅力あふれる京都のまちを共々に創ってまいりましょう。

安藤忠雄氏 コメント

 「今、京都は地球上でも数少ない1000年都市といえます。その歴史の中で、ここ京都から任天堂さんは世界に向けて発信してこられました。この建物からは「過去から未来へ」という感じを強く受けます。だからこそ、この建物を可能な限り残したい。100年程前に作られたこの建物を、さらに50年、100年と持続させたいのです。だからこそ、変に手を加え過ぎないよう意識しました。山内財団様から支援いただいた高瀬川、そして京都を美しく。そして、古いものを大切にして、未来を紡ぐ街にしたい。そんな思いで設計させていただきました。」とコメントしました。

『丸福樓(まるふくろう)』施設内覧

 山内覧会では、任天堂創業の理念を表現し、任天堂の創業地から新しいアイでアが生まれていくエクスクルーシブなサロン施設である『Libraly dNa』が紹介されました。

山内万丈が語る、Library dNaへの想い

 この建物は元々山内家の所有でありましたが、任天堂さんの倉庫として使われたのち、長く日の目を見ることはありませんでした。山内家としてもこのままにしておくのは忍びなく、どうにか活かせないかと長年考えておりました。

 この場所は未公開の場所であったにも関わらず、世界各国から任天堂のファンの人々が記念に訪れて下さるシンボリックな場所です。側面の窓格子には、ファンの人々の落書きが記されており、その落書きを通して皆様の愛を感じておりました。

 そんな場所であるならばこそ、この度、公開したいと考えました。また同時に、この場所が世代を超えて愛される場所となるよう、何度も議論を重ねた結果、ホテルとして開業する案が採用されました。

 ここを訪れる人にとって、一番の価値となるのは、「任天堂の足跡に思いを馳せられること」であると考えています。現在、世界中で親しまれる任天堂も、生まれたその日から輝かしい栄光を手にしていた訳ではありません。その足跡を想像し、勇気をもらい、自分の血と肉に変えることが出来るのだと信じています。

<展示アート一部>

  • ▲制作Rhizomatiks
  • ▲制作:壱両

各エリアご紹介

 『丸福樓』は、1930年代竣工の南北に連なる三棟のRC造の任天堂旧本社長社長屋(「既存棟」)と、その一部を解体修復し、さらに新しく建物を増築した「新築棟」から成り立っています。スペード棟、ハート棟、ダイヤ棟、クローバー棟といったそれぞれのエリアは異なる雰囲気を有しながらも、当時の姿を残したままの貴重な造形物や、建築家・安藤忠雄氏のこだわりが散りばめられており、それらが融和することで山内家の伝えたい任天堂創業からの想いを肌で感じられる設計となっています。


 ハート棟の客室は、かつて山内家が実際に居住していた区画でもあり、当時の息遣いが残った温かみのある雰囲気となっています。ここには、任天堂作品を思わせるような文様が壁面に施された客室があります。

 和室併設の客室は、その当時の姿をほとんどそのままに残し、梁や柱、装飾からは当時の雰囲気をひしひしと感じられます。また、廊下や階段では装飾として、旧本社長時代の当時のままのステンドグラスがあしらわれています。


 クローバー棟は、昭和5年竣工で、『丸福樓』で最初に完成した建物です。当時のテクノロジーをありのままに感じられるエレベーターを始め、壁面には花札やカルタを用いた装飾が見られます。さらに、3階の踊り場からは、外壁に設置された、旧本社長社長屋の象徴ともいえる「任天堂」の3文字を見ることができます

 ダイヤモンド棟は、安藤氏の設計によりシンプルでスタイリッシュに演出され、随所に安藤氏らしさが散りばめられています。新築棟と既存棟のどちらにもまたがる唯一の客室もご覧になれます。

『丸福樓』施設概要

名称:丸福樓(まるふくろう)
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