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徐庶の母にまつわる意外な逸話3選。張飛、なぜ放火しちゃうの…【三国志 英傑群像出張版#5-3】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 三国志演義では、曹操の策で降った徐庶に、再会した徐庶の母は、「親不孝者! 明君を捨て暗君につき自ら悪名を招くような事をするとはなんたることか。」と嘆き首をくくって死にます。

 徐庶の母の墓が実在します。何故そんなに徐庶の母が高く評価されるのか? 墓ものこり大事にされるのか?

 それは儒教の教えに導かれるわけですが、民間伝承でも徐庶と母の話がいくつかありますのでご紹介しましょう。

  • ▲中国で出会った超怖い徐庶の造形物。

徐庶が曹操へ献策しないわけ

 徐庶は貧乏に生まれ、幼くして父を亡くしたが、10代の頃は任侠剣士として活躍し、ある男の仇を白塗りの鬼神姿で行います。

 しかし役人に捕まってしまいます。そこを護送車で通りに出たところを共犯者が兵士を殺し彼を救出しました。

 徐庶逃亡後、母親は当局から身を隠し多くの苦しみを味わいます。彼はそれを恥じいって剣を捨て、学問と親孝行に専念しました。

 その後、徐庶は荊州に行き劉備に仕えて活躍します。しかし曹操の策略にはまり、曹操の元へやってきました。

 彼女は、劉備を置き去りにした徐庶を叱りつけました。その後、母は寝室で休むと部屋にはいるも長く出てこないのを不審に思った徐庶が部屋に入ると自殺していました。

 徐庶の応急処置で一命を取り留めます。徐庶の説得で母は自ら死なないことに同意しましたが、「第一に曹操に献策しない事、第二に最期まで母を養う事、第三に時が来たら曹操のもとを去る事」の三つの約束をさせられます。徐庶は首をかしげながらもそのすべてに同意しました。

 曹操は、徐州の母の高く評価し行動を賞賛し、徐庶を牽制するためもあり徐庶の母の徳を偲んで寺を建てました。

 現在は地元の名所となっています。母の死後、曹操によって葬られ、その墓は現在も残っています。徐庶は3年間、墓の前で母を弔う日々を送りました。

 その後、龐統の助言により、曹操から兵を率いて赤壁の戦場から離れるよう命じられると、曹操の陣営を離れました。結果、3つの約束を守ったのです。

張飛、徐庶の小屋に火をつける!

 徐庶の母は、息子が曹操から許昌に来るよう誘われて受け入れた。徐庶とあうと母は叱りつけて自殺した。

 親孝行で有名な徐庶は、母の死を目の当たりにして失神し、埋葬されても悲しみに暮れた。暗くなっても母の墓のそばで寝た。

 夜が更けると、焚火をして「母上、私は生前親孝行できなかったので、これからはここで一生見守っていきます」とつぶやき泣いた。

 そこに人がやってきて、大きな声で言った。「徐庶、それは意味がない、既にお前の母は生きていない、劉備のところに行ったらどうだ」と。

 驚いて顔を上げると、ボロボロの麦わら帽子を被った長身の男が、焚火に背を向けて立っていた。「お前は誰だ、何を言っているんだ。明日曹操様にいいつけるぞ」と言うと、男は姿を消した。

 翌日の夜、徐庶が墓にくるとまた黒い大きな人影が現れた。麦わら帽子をぬぐとその男は、他ならぬ張飛であった。

 張飛は笑顔で「驚かせてすいません! 兄の命令で変装してあなたを連れ戻そうと許昌にやってきたのです。」と言う。

 徐庶は胸が熱くなり涙があふれた。張飛の手を握り、「張将軍、よくぞ来てくれました! しかしどうか殿(劉備)にお礼を申し上げたい。母が亡くなってから、私生きる望みがない、一生墓のそばで過ごします。もう仕えることはできません。」と返す。

 張飛は諦めず、何度も口説いた。徐庶は仕方なく、「墓の側で三年親孝行し、その後再度考え直す」と言ったが、張飛は納得しない。

 徐庶は「じゃあ、一年」。だが張飛は納得しない。諦めかけた徐庶は「じゃあ、最低でも三ヶ月」張飛は「いえ、最長でも三日」。なかなか決着がつかない話し合いに、徐庶は「明日また話し合おう」と言って張飛を帰した。

 徐庶は既に墓の側で親孝行することを心の中で決めていた。三日目、徐庶は母の墓の前に、小屋を作った。この小屋を見て、張飛はきっと諦めてくれると思ったのだ。

 しかし、その日の夜、徐庶が小屋に入って寝ようとしたところ、突然小屋から火が出た。あっという間に、小屋が全焼した。

 驚いた徐庶の手を張飛が握り、「この火はお母様に暖を届け貴方を安心させるためだ。私と一緒に戻ろう」と言った。

 徐庶は張飛の誠心に打たれ、自分の思いを話した。「張将軍、自分は今まで何やっても成功をせず、劉備様を裏切り、曹軍に行ったことは不忠であり、母を死なせ親孝行ができないことは不孝である。このような不忠、不孝で善悪が不明の者は世間に笑われるだろう。劉備さまにこれ以上の汚名をかぶせたくないのです。今後、曹操に献策しない事を誓います。早くこの地から離れることを望みます」と。

 さすがの張飛も、徐庶の決意を聞きあきらめて新野に戻った。

 翌日、曹操は徐庶を呼びつけた。「昨夜、お母様の墓で大きな火を見たという報告があったが何かあったのか?」と問い正す。

 徐庶は「母を無くし、自分はとても悲しんでおり夜に母が寂しくないように、墓で焚き火をしました。昨日はちょうどその三日目です」と答えた。

 曹操は疑わず徐庶の親孝行を高く評価し、部下達に徐庶を見習うようにいった。その後、その風習が残り、死んだ人の墓の前で三日間焚き火をし墓を温めることを習慣となった。

張飛と関羽、徐庶を連れ戻す?!

 徐庶は母が軟禁されたことを知り、劉備に別れをつげて許昌の曹操の元へ下った。

 ある日、劉備、諸葛亮、関羽、張飛が集う酒席で徐庶の話が持ち上がった。別れた徐庶の安否を心配している。諸葛亮は関羽と張飛に、徐庶の様子を見に許昌へ行くことを命じた。

 さらに機会があれば、徐庶を説得し、曹軍を離れる。出発時、諸葛亮は張飛に秘策を渡し、必要な時使うように伝えた。また、関羽に張飛が飲み過ぎないように忠告もした。

 関羽と張飛は荊州を離れ、許昌に向かった。着いた頃ちょうど祭り期間で、祭りの人に混じって入城し宿を見つける事ができた。徐庶の行方を密かに聞き込みしているうちに、徐庶の母が亡くなり墓があることを掴んだ。

 二人はすぐに墓があるところへ向かった。徐庶は母の墓の横に、小屋を立て、ずっとそばで見守っている。関羽と張飛をみて、三人とも泣き出した。関羽と張飛はお母さんの墓参りをし、三人が別れた後の話を、深夜まで語った。

 関羽は悲しむ徐庶をみて、張飛と話し合い、しばらくここで留まり、徐庶の説得は後日にすることに決めた。その後、二人は宿へ戻った。

 ところが、その日の夜、関羽が熱を出し、顔は真っ赤になった。関羽の様子をみて、張飛が走り回り、急いで医者を呼んだ。診断の結果、風邪と診断され、処方に従い、張飛が自ら風邪薬を作った。風邪薬を飲んだら、関羽の病状が少しずつ回復し、張飛もほっとした。

 しかし、数日が過ぎても、関羽の風邪がなかなか完治しない。少し焦りが出る張飛が一人で再び徐庶を会いに行った。曹操から離れることを必死に説得したが、徐庶は三年間、ここで母を見守りたい意思は変わらなかった。

 徐庶の説得に失敗した張飛が宿に戻り、連日関羽による禁酒制限の中、失敗の怒りから、休養の関羽の隙をみて宿で酒を飲み始めた。酔った張飛が再び、徐庶が居る小屋にいき、怒りのあまり、小屋に火をつけた。

 翌日、張飛が徐庶の母の墓に行き、びっくりした。徐庶が新しい小屋をすぐに作ったからだ。徐庶の決意に感銘をうけた張飛、諸葛亮から受け取った秘策を思い出した。

 秘策には“(半辺鍋炒豆豆,炒了三個跑了倆”(鍋で豆を炒め3個逃げ出す)と書かれている。しかし、張飛にはその意味が全く分からない。秘策の解明に悩まされ、夜も眠れず、宿の庭でウロウロしていた。

 店主が豆を調理しているところ、豆の香りを張飛が嗅ぎ付け豆をみて、張飛が秘策に書かれた文章を口にした。店主がそれは「心」という漢字の意味だと返した。

 謎が解け、張飛が会心して部屋に戻った。関羽と秘策の話をし始めた。関羽が心の策について孔明が伝えたいのは、何事にしても心を込めて対処すること。

 小屋に火をつけるなど、勢いではいけない。放火の事が関羽にばれており張飛は恥ずかしそうに笑った。関羽が完治したあと、張飛とともに、徐庶の母の墓へ戻った。

 曹軍を離れることは一言も言わずに、徐庶の親孝行に共をした。張飛が蛇矛を使い、墓の石に「漢大賢徐母之墓」と書いた。

 徐庶が大変感動したが、関羽、張飛の来意を分かっているものの、すぐには曹軍を離れるのは難しいのである。母の親孝行はもちろん、自分の家族もまだ曹操に監視されているからだ。

 徐庶は二人に必ず機会を見つけ、曹軍を離脱すると約束した。数日が過ぎ、関羽と張飛が帰る時。関羽が宿の店主にお礼として、「歇馬店(馬を休める店)」と書かれた看板を送った。

 その名がいまも地名として残る。

 徐庶は結果的に戻りませんでした。そうでもいわないと二人は戻らないと思ったのか、機会が訪れなかったのか謎は残ります。

 しかし地名として残るってことは本当に説得に行ったのか?! 彼らの友情にほっこりしつつ、夢が膨らむ話でした。

 しかし、過去紹介した諸葛亮を叩き起こすために張飛が火をつけた事件がありました。今回もまた張飛が放火をします! 放火犯・張飛。

 こうたびたび登場するという事は実際にもそういう事件があったのかもしれませんね。

 次回も三国志民間伝承の世界を紹介してまいります!


岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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