劉備を支えた名参謀・馬良はどんな人物だった? 【三国志 英傑群像出張版#13-2】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 今回は、「馬氏の五常、白眉(はくび)最も良し」という決まり文句から、日本のことわざにもなっている【白眉】(たくさんの中で最も優れた人の事)といわれる馬良(ばりょう)を紹介します。

 眉に白い毛が若くして混じっていたことから「白眉」と言われたようです。最近ではこの名前を使った音楽バンドがいたりして嬉しい限りです。

 その馬良の弟もこれまた有名なことわざ【泣いて馬謖(ばしょく)を斬る】(規則を守り身内も違反者は厳しく処分する事)にもなっている馬謖です。

 兄弟そろって日本のことわざとして残るって凄いことですね。しかも良い事と悪い事、正反対の扱いというのもすごい!

 ちなみに上記で泣いたのは諸葛孔明。この馬良と義兄弟であったとも親戚関係にあったともいわれています。(※裴松之(はいしょうし)が指摘)

 この馬良、物語(三国志演義)では鳴り物入りで登場し【荊州四郡】をとる助言をします。しかし、その後は大した活躍もできないまま終わってしまいます。史実的にも大きな活躍は見られません。

 私は「白眉」ということわざで高められた彼の更なる活躍の情報が知りたいと常々おもっており、民間伝承も探していました。

 数回前に紹介した民間伝承で、「蒋幹を関羽の参謀として推薦する馬良」の姿がありました。人物を見抜く力に優れた人物ではと前回の話で想像しました。

 それ以外ではなかなか見つかりませんでしたが、なんとか発見した数少ない彼の民間伝承を紹介したいと思います。

劉備、馬の良さを知る

 劉備が乗っていた馬は「的盧(てきろ)」という千里走る名馬で、背中に美しい鞍(くら)が乗せてあり名工が作ったものである。

 「人は着飾るもの、馬は鞍を飾るもの」という中国の言葉がある。良い鞍に乗った的盧は、ますます立派に見えた。

 馬に気分転換させてあげたいと考えた劉備は、馬良に頼んで馬の散歩に出かけさせた。馬良は的盧がよく走るので襄陽(じょうよう)から一気に走ったが、鞍の上で馬良はお尻が痛くなった。

 鞍があたって邪魔だと思い、鞍を外してぶら下げながら走った。鞍を外すと楽に乗って疾走したが、休憩した際、鞍がなくなっていることに気付いた。来た道を戻り探して見たが、こんな広い土地で見つかるわけがない。

 馬良は鞍が見つからない事にショックを受けた。だがもう遅いので、近くの小さな町まで行って一泊し、明日また探す予定にした。

 店主の向朗(こうろう)という人物が、鞍のない馬を連れて落ち込んだ馬良を見て「どうしたのか?」と尋ねた。

 馬良はすべてをうちあけた。向朗は「大丈夫、一晩で元のような鞍を作ってあげるから安心して休みなさい」と言う。

 店主は名工でもあったのだ。彼は一晩で馬良が伝えた物とまったく同じ鞍を作りあげた。馬良は何度も鞍を見たが、欠点は一つも見当たらない。彼は鞍を手にすると非常に感謝し、陣へと戻っていった。

 劉備は劉表から宴席の招待を受けたので、馬良を呼んで馬を用意させようとしたが居なかったので怒った。その時、馬良が息を切らして的盧と戻ってきた。劉備は人馬の無事を確認すると、怒りもおさまり彼を責めることもなく、宴席に向かった。

 宴席から戻った劉備は、馬良に何があったのか尋ねた。馬良はその一部始終を包み隠さす話した。劉備は鞍が変わったとは信じられず、何度も見てようやく元の鞍ではないことに気づいた。

 劉備はとても感動して「鞍は長年使っていたが変化に気付かなかった。鞍を見分けるのは意外と難しい。同様に人の能力を知る事も簡単ではない。また馬を見分けるのもなかなか難しい。しかしあなたは本当に良い馬だ「馬良」。何故なら、
◎第一に、「信頼できる人」である。→鞍を見つけるまで探し続けた。
◎第二に、「良心的な人」である。→間違いがあれば修正する。新たな鞍を用意した。
◎第三に、「率直な人」である。→隠さず罰を覚悟で真実を語ってくれた。
これが揃う人物は珍しい。」と改めて称賛した。

 そののち、馬良は劉備の期待に応え、蜀の名参謀の一人となった。なお、馬良が鞍を地面に落したあたりの山がのちに「馬鞍山」と名付けられた。

 馬良が一夜を過ごした店は有名になり「歇馬店(馬を休ませた店)」と呼ばれるようになった。

馬良の戦死

 蜀と呉がぶつかった「夷陵の戦い」において、参謀の馬良は敵の陸遜(りくそん)が謀略家である者だとよく知っていたので、劉備に「陸遜の才幹は周瑜(しゅうゆ)に匹敵します。決して軽視してはいけません!」と強く助言した。

 歳を取った劉備は、若い陸遜のことを全く気にしていなかった。実は、陸遜は既に蜀に勝つ策を定めた。城門の外で軍営を作り、攻めずにひたすら守り、奇策によって敵に勝つ為に「逸をもって労を待つ(休養十分の状態で、疲れた敵兵を迎え撃つこと「孫子兵法」「兵法三十六計」)」ことに徹していたのだ。

 一方、劉備は蜀の大軍の前に陸遜が怯えていると思いこみ「猇亭(おうてい)より水軍を率いて川に沿って下り、川の側で軍営を作る。そのあと、少しずつ呉の境界線へ近づけていく」という指示を出した。さらに、樹木が多くある山林に軍営を設置した。

 軍営の間は樹木に囲まれている。これまで数カ月にわたり戦いで疲れが溜まり、また六月の熱い日差しもあって、兵士も将軍も林の日陰を満悦している。川風が吹くと、快適で劉備の英明な決断に皆口をそろえて賞賛した。

 しかし、馬良だけ劉備の一連のミスに気付き、劉備に曹操の「赤壁」の敗退の教訓とし、各軍営及び将兵の配置地図を作成して、漢中まで来ている諸葛孔明の意見を伺うべきだと進言した。

 皆から褒められ、自己満足した劉備は全く聞く耳もたず、「私も兵法によく精通している者だ。なぜ丞相に聞く必要ある?」と言い返されたが何とか説得して馬良自ら地図を作成し漢中へ向かった。

 その陣取りを見た諸葛亮は大変悔しそうに、「ここまでだな!」とため息をついた。

 馬良は急いで猇亭へ戻ったが、もう既に呉によって蜀の軍営は火に焼かれていた。馬良は乱戦の中、戦いながら劉備を探したが見つからない。仕方なく、馬を返して呉軍へ向かい1人で呉軍と闘った。最後、猇亭で戦死した。

 前半の話、馬良の名参謀ぶりが見れるかと期待したものの大事なものを落としてくるという残念なお話でした。

 しかし、彼が正直で良い人だと思ったので向朗も助けてくれたのではないでしょうか? イソップ物語「金の斧、銀の斧」のまじめな木こりの話を思い出しました。またその良さを見抜く劉備も素敵です。

 ちなみにこの店主で名工でもある向朗という人物。計算されているのかわかりませんが、史実では劉備に仕えることになる馬良と同郷の人です。この話で劉備に気に入られて配下になったのか?! 想像が膨らみます。

 後半の話、物語(三国志演義)にもあるお話です。史実にはないので民間伝承が先か、演義が先かわかりませんがあえてご紹介しました。

 良い人過ぎるのか? 切れ者なのに、劉備を説得しきれなかった点は悔やまれます。

 物語(三国志演義)と違う所は、史実通りこの戦いで戦死するところです。物語ではまだもう少しだけ生き延びます。

 馬良が生き延びていたら、馬謖が失敗する「街亭の戦い」で兄の彼が陣取って失敗もしなかったのではないか? そんな想像を掻き立ててくれる人物でした。

 少し雑談。中国遺跡旅の最中、「馬良」というお茶の店を見つけたことがあります。

 三国志の馬良を尊敬しているのかと店主に聞いた所「自分の名前が馬良だ!」といわれ拍子抜けした思い出があります。

 次回もお楽しみに!


岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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