馬謖は“お茶”で蜀に士官できた!? 趙雲が“長坂の戦い”で助かったのは徐庶と仙人のおかげ!? 【三国志 英傑群像出張版#14-1】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 今回は蜀の三国人物にスポットを当てて民間伝承を紹介していきたいと思います。

 「赤壁(せきへき)の戦い」の前、曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)の「長坂の戦い」あたりの民間伝承を選びました。

 最初は「馬謖(ばしょく)」、つぎは「趙雲(ちょううん)」です。

馬謖の接待

 宜城(ぎじょう)に住む馬謖は、早くから劉備(りゅうび)の名前を知って慕っていた。

 ちょうどその頃、荊州では劉表(りゅうひょう)がなくなり、その子の劉琮(りゅうそう)が曹操に降伏したので、劉備は曹操を避けて逃げ出していた。

 宜城(襄陽の南部)は丁度劉備の逃亡の道筋にあった。劉備が来る事を知った馬謖は宜城の東門外に茶屋をつくり、大きな鍋をかけて日夜を休まず茶をわかして通りかかる劉備の一行にふるまった。

 馬謖は更に人を山にやって薬草を取ってこさせ、茶と調合した。それは渇きを潤し、疲れを癒し、さらに解毒、暑気払いの効能をもつ。

 劉備の兵士は数千にすぎないが、劉備を慕ってついてきている民は何万もいる。夏のことなので皆暑さに疲れはてていたので、馬謖の用意したそのお茶は、その人たちの五臓六腑に染み渡り一人残らず生き返る気分だった。

 やがて劉備自身が通りかかり茶の接待を見て感動し、それが馬謖の厚意であることを知ると、諸葛亮・関羽・張飛をともなって感謝の意を伝えるために馬謖を訪れた。

 「ほんの一杯のお茶に過ぎません」と謙遜する馬謖に「一杯のお茶だが、まるで甘露(中華伝承で天から降る甘い液体)のようだ」と劉備が讃える。

 傍らから諸葛亮も「水は甘く、人(馬謖)はもっと好い。人がよければ水も甘い」と続けた。それを聞いた劉備は深くうなずき、馬謖を武将に取り立てたのであった。

 その茶屋の場所が、いま「馬謖祠」といわれている。

※別の逸話では、“将校だった馬謖は茶以外にも食事までふるまい、兵千人で曹操軍の文聘を撃退した”というものもあります。

趙雲、徐庶と仙人に助けられる

 曹操(そうそう)は劉備との「長坂の戦い」で、一本の古い漆の木の下で観戦していました。

 曹操はそばにいた徐庶(じょしょ)に活躍する敵将・趙雲(ちょううん)の名を尋ねますが、徐庶が答える前に、なぜか漆の木から声が聞こえ「あれは趙雲だ!」と漆の木から仙人が出てきて答えたのでした。

 さて趙雲が追い詰められて泥水にはまったとき、突然、一筋の光が天に向かって光りだし、趙雲は馬にまたがったまま包囲から脱出します。

 漆の木の仙人が言うには、「趙雲は、龍の生まれ変わりだ。水を得て宙に舞い上がったのだ」ということだった。

 曹操はすぐ仙人に教えを請いたいと頼んだが仙人は、「昔から『軍人は得やすいが、将は得がたい』という言葉がある」と教えます。

 それを聞いた徐庶は、曹操に、趙雲を殺さず召し抱えることを提案します。同意した曹操は「趙雲を殺さず生け捕りにせよ!」と命令しました。

 結果、曹操は生け捕りにすることができず、趙雲は生き延びることになったのです。

 いかがだったでしょうか?

 最初の話、史実でも馬謖と、兄・馬良(ばりょう)は共に劉備に仕えています。

 もしかして、馬謖の方が仕官が先? と思える話ではありますが、この時、曹操に追われてる劉備は滅亡寸前。このタイミングで劉備軍に入ったとは到底思えないので、劉備が荊州をとったあとだとすると辻褄もあい納得がいきますね。

 馬謖といえば、「泣いて馬謖を斬る」で知られる「街亭(がいてい)の戦い」で失敗した人物。劉備には「頭はいいが実行力がないため軍隊の指揮は任せてはならない」と言われていました。

 ただ参謀としては優秀で、南蛮攻略の際は「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と孔明に助言し実行される活躍もみせます。

 しかしこの話、「三献茶」(豊臣秀吉が長浜城主だった頃、鷹狩の途中で石田三成に会い茶を出された対応を気に入って配下にした)という逸話に似ています。

 馬謖と石田三成、「頭が良いが戦いは苦手」という点でも共通点がある気がします。どちらも接待に関するビジネスの世界でも通じそうな良いお話ですね。

 ちなみに三国時代、「茶」はまだまだ一般的ではないようですが存在はしていました。正史にある孫権のお茶についての話が、おそらく歴史書で初めてお茶が登場したのではないかと思います。

 2つ目の話。三国志演義で、趙雲が「長坂の戦い」で魏の軍勢の中、生き延びた理由の一つは趙雲を曹操が生け捕ろうとした事で弓矢攻撃がなされず脱出の機会がうまれ、趙雲の名シーンにつながります。(なお正史では趙雲が劉禅(阿斗)と甘夫人を助け出した程度しか書かれていません。)

 それにしても曹操は敵将を生け捕っては配下にする技をよく使いますね。関羽、張遼、龐徳などなど。そこに徐庶が出てきてファンにとっては楽しいお話になっています。

 次回は、蜀メンバーの名前がたくさん出てくる民間伝承をお送りします。


岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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