火牛…ではなく火山羊の計!? 若き甘寧、策を講じて賊を討つ【三国志 英傑群像出張版#17-2】
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三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
今回は”甘寧一番乗り”でおなじみ、呉の武官No.1“甘寧(かんねい)”のお話。
甘寧、城山大王と親交を深める
小県の城山の麓に、張家大湾がある。その湾には張氏という金持ちがいた。彼の息子は甘寧の下で校尉をしていた。張氏は借民や労働者をいじめていた。
ある年、大干ばつで田畑に収穫がなかったが、それでも借金が払えないときはものを奪い、貧しい人の妻や娘まで奪った。
我慢できなくなった村人の“張平”が率先してその金持ちの屋敷に火を放ち、張氏を殺し略奪した。張平は“城山”に登って兵士や馬を集め、金持ちを襲い貧乏人を助けたので人々は彼を“城山大王”と呼んで賞賛した。
殺された張氏の息子・張校尉は甘寧に頼んで城山大王を滅ぼし、父の仇を討とうとした。そこで甘寧は、張校尉に300人の兵を率いて故郷に帰らせ、城山を攻めさせたが敗北した。彼だけが富池口(本拠地)まで逃げ帰ってきた。その結果にショックを受けた甘寧は自ら軍を率いて城山を包囲した。
しかし張平は戦おうとせず、一人で甘寧のもとにやってきて「甘寧将軍、兵を動員する必要はありません。兵を失うことはない。人が死ぬのは可哀想です。今日、私は死に来たのです。私はどうなってもかまわない。ただ、湾の村人全員を傷つけないようにしてください!」と言った。
甘寧は、「お前は反乱軍を集め兵士を殺した。一人の命で罪を贖えというのか?」と問う。
張平は「私が『反乱の民衆を集めた』のは張氏のいじめのせいであり、『兵士を殺した』のは張校尉の私怨に対抗した為です!」とその一部始終を語った。
甘寧はなるほど、そういう理由があったのか! と理解し「君は勇気があるようだな。私の配下にならないか?」と誘った。
張平は「私は私の父を殺した張校尉に敵意を持っています。お互いに恨んでいるのに一緒に仕事ができるわけがない。私を信用していただけるのであれば見て見ぬふりをしてください。私は城山大王であり続けます。一方で、私は民衆を守ることができるし、あなたが困ったときには密かにあなたを助けることができます。」と返答した。
甘寧もそれが妥当だと思い「名誉ある者は、隠れて物事を行うのではなく堂々と行うものだ。この山の王のままいさせてやるから、引き続き部下を率いて権力者や悪人を退治してくれ。」と話した。
そして、甘寧は多くの剣、槍、馬、銀を張平に与え義兄弟とした。
この地区の人々は甘寧と城山大王の庇護を受けながら、長い間平和に暮らしたという。
山羊の兵隊
呉の名将甘寧は西陵太守で、富池口を軍事拠点としていた。彼は陽新、下雉の領主であり、この2つの人々の間には彼にまつわる多くの物語が伝えられている。
彼にまつわる話はたくさんある。 そのひとつが“千羊坑”と呼ばれるものだ。
幕阜山に“寒骨洞”という峡谷があり、そこが鄂州とを結ぶ道だった。 ここに黒熊とあだ名された冷天海という男が陣を張り、山の王となり、商人を襲い、民の女を奪い、人々を苦しめていた。
甘寧は民衆のために悪を排除しようと考えた。300人の人馬を率いて“寒骨洞”に到着すると、両側が切り立った崖で密林の危険な地形であり、山賊の隠れ家は丘の上の松林に巧妙に隠されていることがわかった。
甘寧がどうやって要塞を攻めるか考えていると、銅鑼が鳴り、石が次々と落ちてきた。甘寧らはそれに耐えられず、急いで退却した。
甘寧は賊に負けたことでとても怒って一睡もできなかった。朝、外で「メーメー」という音が聞こえてきた。それは山羊の群れで、早起きして露草を食べに来たのだ。
そこで、彼は一計を案じた。彼は急いで1000頭の山羊を調達してきた。さらに、500斤の桐油と綿毛を用意した。その夜、月が暗く風が強くなると、甘寧は兵士に命じて綿毛を桐油に浸し、山羊の尾に結わえさせた。
最初に隊列を組んだ山羊たちは、火で尻を焼かれたため、必死で丘を登ろうとした。冷天海は、呉の兵士が松明を持って要塞を攻撃しに来たとばかり思い、部下に松明に向かって石を投げ、矢を射るように言った。
半日ほど騒ぎ続けた結果、“松明の火”は簡単に消えさった。冷天海が一息つく間もなく、第二陣の"松明の火"が登場した。賊は再び大騒ぎになった。
こうして、三組、四組、五組の“松明の火”が一晩中入り乱れて、砦の石はすべて持ち去られ、弩や矢はほとんど残っていなかった。
その時、甘寧が先陣を切って300人の兵を率いて突進してきた。 兵は暴徒と化し、夜の疲れもあって、抵抗することができなかった。 彼らは呉の兵士に殺され、冷天海も切り刻まれた。
甘寧は捕まった女たちを解放して家族と再会させ、略奪した品々を地元の人々に配った。 人々は甘寧の優しさに感謝し、冷天海の砦の頂上に“甘寧寺”を建て“冷骨洞”と改名した。
いかがだったでしょうか?
共に山賊との戦いのお話。
甘寧は三国志演義では若い頃は“錦帆賊”と呼ばれる川賊であり、史実でもかなり不良をしていたみたいなので、こういう山賊たちとは心通じるところがあったのかもしれませんね。
1つ目のお話。山賊を許してそのままにするとか、日本的にはあり得ない気がしますが、賊軍を許して官軍に編成するということは中国ではよくあることで“招安”と呼ばれます。黄巾の青州兵を曹操が取り入れたのもこの一種ですね。
2つ目の話。なんだか孔明の“10万本の矢”を集める話にも通ずる策略ですね。または“火牛(かぎゅう)の計……火をつけた牛を敵陣に突入させて混乱させる戦術”にも似ています。
敵の攻撃力を奪ってから敵を制圧する作戦はさすがです。山羊たちはかわいそうではありますけど。
甘寧といえば“カラス”というのが有名ですが(これも民間伝承にあります)今後は山羊もいれてあげてくださいね。
あっ、私やぎ座だった。甘寧応援しようと。単純(笑)。
それでは次回もお楽しみに!
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!
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