曹丕はいかにして曹操の信頼を勝ち取り、皇帝まで昇りつめたのか?【三国志 英傑群像出張版#18-1】

電撃オンライン
公開日時

 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 今回は【曹操】の息子たちにスポットを当てて民間伝承をご紹介します。

 曹操の息子たちは25人いると言われています。子だくさんですね。有名どころでは曹昂(そうこう)、曹丕(そうひ)、曹彰(そうしょう)、曹植(そうしょく)、曹沖(そうちゅう)あたりでしょうか。

 曹姓ばかりで意外とわからなくなるので軽くまとめるとこうなります。

・曹昂:長男。曹操vs張繍で曹操を守って戦死
・曹丕:魏の皇帝。曹操の後継者
・曹彰:虎を素手で倒した猛将
・曹植:文章の天才。曹丕との後継者争いに負ける
・曹沖:神童。曹操に愛されたが13歳で病死
※初期に「曹鑠(そうしゃく)」、「曹彪(そうひょう)」などもおりますが、生まれ年が不明な人もいて曹昂意外ほぼ厳密には何番目の子なのかわかりません。

 漫画『横山光輝三国志』でも彼らについてはかなり省略されているものの、下記の場面で登場しています。

・曹丕、曹植の兄弟バトル「七歩の詩」の逸話
・漢中の戦いで、曹彰が曹操のピンチに助けに来る、
・曹丕vs孫権・徐盛(広陵の戦い)

 され、それでは本題に。まずは皇帝になった“曹丕”の民間伝承からご紹介していきます。

曹丕の武器づくりと大橋

 定遠県(ていえんけん)を流れる窯河(ようが)は、もともとは“冶渓(ちけい)”と呼ばれていた。

 この川に炉橋という石橋が架かっているが、これはもとは曹丕が造ったものである。その後、この橋は崩れ、宋の時代にその上に新しい橋が架けられた。それで人々はそれを“橋上橋”と呼び、今もそこにある。

 曹操が軍を起こした当初、彼の兵力は小さくあまり注目されることはなかった。しかし、力をつけて徐々に天下を取るという強い意志を持ちはじめた。

 ある日、彼は息子の曹丕に尋ねた。「天下を取るには、どうしたらいいと思う?」

 周囲に誰もいなかったので、曹丕は素直に「兵士や馬を募り、大きな理想を掲げて戦うことです!」と答えた。

 曹操はそれを聞き「私は大樹が風を呼び、大きな過ちにつながることを恐れている。密かに準備するのを手伝ってくれ。」と言った。

 そして、曹丕を窯河に案内して指差して続ける。「この川は東に流れ、西にも流れる珍しい川だ。ここで武器作りに使って焼き入れをすれば、非常に刃は鋭くなり、鉄を泥のように切ることができる。近くには大きな道路もないので、誰も通らないだろう。お前は何人かの部下を率いて、ここで密かに武器を作るのだ。」と。

 曹丕は、武器が緊急に必要になるわけではないことを知っていたので気軽にそれに同意した。

 曹操は釘をさしてこう言った。「私が必要とするときに、千の船に剣と槍を、万の船に剣と矛を積んで、瞬時に世界の四隅に輸送できるようにせよ。もし失敗して父子の恩を仇で返すようなことはするな。」

 曹丕は父の言葉に従い、9999の炉を作り、9999人の鍛冶屋を見つけ、昼夜働かせて鉄や武器を作った。炉の火は川を赤く染め、まるで燃えているようだった。

 後に、人々はその川を“冶溪”と呼んだ。(冶……金属を精錬する意味)

 龍神でさえも河岸に近づくことを恐れ河岸は氾濫することなく、まるで大きな神亀がいるように見えるといわれた。

 その後、どんどん武器が作られ山積されるようになった。しかし、命令が下ったとして、どうやって一度に運び出せるだろうか。

 そこで曹丕は、芒砀山(ぼうとうざん)から無数の大きな石を運ばせ、大きな石橋の土台を作り、1日に1000台の荷車が通れるほど鉄のように強い橋と道を作った。

 その後、武器は時間通りに曹操に届けられ、曹操はそれを使って戦いに勝利していった。彼は曹丕がとても有能だとわかりのちに王位を彼に譲った。

 人々は曹丕がいかにうまく橋を架けたかを見て、彼を賞賛し橋の横に彼を讃える数々の石碑を建立した。

曹丕の民への施し

 建安二十五年、曹丕は魏の皇帝に即位し洛陽から臣下を率いて生まれ故郷の許昌に遷都した。

 途中、穎陽県(えいようけん)の南東にある郭集村(現在の許昌県将官池鎮)に到着すると村人たちが出迎えた。曹丕は人々の歓声に応えて車から降り手を振った。その時、一人の長老が曹丕に声をかけ村の状況を話した。

 長年の水害で作物が育たず、村人たちは籾殻と野菜で必死に生きている事。また、村には郭氏と盧氏という2大家族が住んでいて、郭氏の父親は亡くなったが葬儀をする余裕がなく、盧氏の長男に婚約者がいるが妻を迎える駕籠がないため結婚式を挙げれないままである事。

 このことを聞いた曹丕は、すぐに郭氏と盧氏を訪ねた。曹丕はすぐに侍従たちに、葬儀に使う食器一式と米や麺を買ってくるように指示した。また、自分が持ってきた駕籠を盧氏の家の嫁入り道具として貸し出すことも指示し、郭氏と盧氏の儀式を終わらせることができた。

 その後、曹丕は、部下を率いて郭集村の南にある丘に登り天に向かって祈った。「天よ! 戦はいらない、風や雨が順調に起きるようにしてください! 民に美味しいものを食べさせて、平和に暮らさせてください!」

 曹丕の行動は民衆から高く評価された。特に郭氏と盧氏という2つの家に感謝され曹丕を敬う習慣は、代々受け継がれていった。また彼らは曹丕が立って祈った場所の上に曹丕廟を建てた。

 ここからは伝承なので真実のほどは定かではないが、その後村人たちは、葬儀や慶事などでまず曹丕廟に出向いて焼香し頭を下げて援助を求めるようになったという。そして夕方ころになると、実際に物資が届き、それらを利用したあと、いつのまにかそれらはなくなっているのだという。

 いかがだったでしょうか?

 曹丕の意外な別の面が紹介された民間伝承でした。共に実際に場所が存在するという意味で真実味はありますね。

 40歳という若さで亡くなった曹丕。魏は曹丕の早死が原因か、45年間しか続きませんでした。

 民間伝承でもわかるとおり曹操にプレッシャーを掛けられ続けた事、皇帝になってからの重圧いろいろあって病気になったのかもしれませんね。

 曹操が後継者争いで兄弟同士を争い合わせて選定した結果、曹操死後に兄弟同士で力を合わせて盛り立てるという風にはならず、内部分裂とまではいかなかったものの、魏の滅亡を早めた感じも否めません。

 次回、曹昂・曹植、そしてあまり名前が知られていない六男の曹彪も登場するお話をご紹介します。お楽しみに!


岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります

関連する記事一覧はこちら