いかにして関羽は荊州を失い最期を迎えたのか? 驕りや傲慢さは失敗の元!?【三国志 英傑群像出張版#20-2】
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三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
今月は魏呉蜀の紛争地《荊州(けいしゅう)》をテーマに民間伝承をご紹介しています。
2回目の今回は荊州統治時代の関羽の民間伝承を紹介します。
関羽の黄金伝説
ある日の晩、一人の商人が大型荷車を積んで荊州の関羽の役所へやって来た。軍情を伝えるために関羽に会いたいと言う。
関羽にあった商人は「実は私は曹操様の命令によってあなたに250斤の黄金をお贈りに参りました。赤壁の戦の際、曹操さまを将軍が殺害しないで下さった恩に感謝したいとのことです。」と言う。
関羽はこれを聞いて、大変怒り激しい口調で言った。「持ち帰れ!私の役所を汚さないでくれ!」
関羽は関平と周倉に命令し、彼を追い出した。すると次の日、宿屋の主人が一通の手紙を持ち役所へ車を引いてやって来た。
彼が言うには、「この手紙は、昨日の夜、一人の旅商人が泊まり置いていったものです。その人は荷物も置いて去ってしまいました。」ということで、商人が無理やり置いていったのだ。関羽はしばらく考えた末、ついに一つの方法を思いついた。
あくる日の夜中、全街中に戒厳令をしき、市民にすべて出かけないように命令した。真夜中、彼は関平、周倉を連れ、その250斤の黄金を城外の荒れ果てた所へ持って行き、深い穴を掘って埋めてしまった。
それは、曹操のお礼を受けないという意志表示である。そののち、人々に関羽が曹操から送られて来た黄金を埋めたということは何故か知れ渡ったが、どこに埋めたのか、誰にも見つけることが出来ないままであった。
積み上げた小石の作戦
嘉魚県陸渓口は、古くは陸口と呼ばれ、そこから陸水河が長江に流れ込んでいた。陸口よりほど近い川の中州には、かつて三国志の時代に呉と蜀の境界であった境界石山がある。
劉備が西川を手に入れた後、関羽に荊州の警備を任せ、陸水の西側は関羽の領土となり、東側の陸口には若き陸遜が赴任してきた。関羽は一刻も早く樊城を奪おうと思っていた。
しかし、樊城と戦うためには、荊州に残してきた人馬を配備しなければならない。ただ、そうすると孫権に攻撃されるのが怖れがある。
ある日、関羽が天幕で軍事の状況を話し合っていると、陸遜が大変貴重な贈り物と謙虚な手紙を送ってきたのを見て、大変喜んだ。
関羽は少し笑って、部下に言った。「文官が大将である呉がたいした戦いはできないだろう」と。すると部下が戻ってきて、陸遜の近くには軍艦が一隻も見当たらず、数隻の漁船があるだけだと報告した。これを聞いた関羽は冷笑して、「まあ、呉への対応は樊城を破ってからにしよう」と言った。
いつも万全を期す関羽は、再び側近を送り出し呉の様子を探った。使者が陸口へ行くと、陸遜が陸水(河)の中央に多数の小石を積み上げるよう命じていた。
「呉と蜀の友好関係を保つため、石を境界とし呉の人間はそれを越えてはならないこと。」を指示していたという。
帰ってきた者は、証拠に小石を差し出した。これを聞いた関公は、笑って酒を飲み小石を手に取り、テーブルの上で叩いて部下に言った。「石がすべて見えたぞ。(物事の真相が明らかになった)なるほど、そうか。陸遜は、取るに足りない者だ! もう心配はない!」
その瞬間、彼は荊州の大軍を引き連れ、兵はわずかに残し、自ら魏の樊城攻撃を指揮した。その後、陸遜や呂蒙の策にはまり、荊州は奪われ関羽は捕まり処刑されることになった。
その後、陸水の泥や砂利は積み重なり山となっていた。現在、東岸とつながって石山と呼ばれている。乾季には、河の水が減り陸遜が積んだという小石が現れるのだという。
鎧を脱ぐ山と鎧を捨てる山
「鎧脱ぐ山」と呼ばれる山は湖北省荊州古城新南門の左手にあり、城壁と一体になっている。
伝説によると、関羽が戦争に勝利して帰るときにいつもここで兵士は皆鎧を脱いで休んだという。月日のたつうちに人々は習慣的にこの山を「鎧を脱ぐ山」と呼ぶようになった。
関羽はいつも戦争に勝利したので、だんだんと油断し敵を軽くみる傾向が出てきていた。最終的にはおごり高ぶり、諸葛孔明の忠告も参謀たちの忠告にも従わず、呉の呂蒙、陸遜の計略の罠にはまってしまう。
関羽は大勢の守備隊を襄陽まで行かせ、荊州後方の守りを緩めた。呉軍がそれに乗じて荊州へ入り、関羽は戻って救うに間もなく、麦城に敗走。結果として、荊州も失い、自らも処刑された。
城内の守備軍は「鎧を脱ぐ山」一帯に呉に追い立てられて仕方なく「鎧を捨てて」投降しなければいけなくなった。
「鎧脱ぐ山」と「鎧捨てる山」はただ一言の差で内容は全然違う。それははっきりとおごる軍隊は必ず敗れると言う真理を人々に教えているのだ。
いかがだったでしょうか?
最後の2つは英雄の関羽が呉にしてやられ、悲しい最期についての民間伝承でした。こういう最期を迎えた関羽を思うと《人は傲慢になってはいけない》という教訓を得れそうです。
また、現在彼は神様として崇められていますが、あの英雄・関羽も“欠点もある普通の人間であったんだ”と思うと、非常に親近感がわく気がします。
しかし、1話目でわかるとおり関羽はやはり正義の人ですね。そこが救いです。とはいえ、劉備三兄弟はやっぱり離れ離れにならない方がよかったですね。関羽は劉備の補佐役が一番似合っている気がします。
次回も荊州の民間伝承をご紹介します。お楽しみに!
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!
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