張遼と曹植の民間伝承。勘違いによって生まれた発展【三国志 英傑群像出張版#25-1】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 2024年初投稿になります。本年もどうぞよろしくお願いします。

 三国時代の新年といえば旧正月なので今の2月頃(年によって変わります。今年は2/10が元旦)だいたい三国志に記載の旧暦の日付は1、2カ月ほど足して考える必要があるわけです。例えば、赤壁の戦いは建安13年11月とされますが、西暦では208年12月らしいですね。

 とはいえ、X(Twitter)など見ていても武将の命日を旧暦計算して偲ぶって人より、新暦の同じ日付で偲んでいる人のほうが多い気がすます。それに日付自体が三国志演義、正史三国志、民間伝承で命日などが入り混じっているので、研究でもしていない限り偲ぶ事の方が大事なので、個人的にはどちらでもいいのかなと思っています。

 さて、三国志演義では【正月】のお話が結構出てきます。

 “黄巾の乱”を起こした張角が活動をはじめたのも正月ですし、曹操暗殺事件は正月に何度も起きていますし、劉備と孫夫人が結婚後に呉から脱出するのも新年。孔明の元に劉備が訪れる「三顧の礼」の三回目も新春。劉備の呉討伐にでるのも正月。

 <三国志では正月に事件が起きる!>といっても過言ではないほどです。

 さて今回の民間伝承は、新年は関係ありません。すいません。

 テーマとしては“身内に寛大であるべきか? 厳しくあるべきか?”というお話をピックアップし2週にわたり紹介したいと思います。

 まずは“身内に寛大であるべきか?”というお話から。

勘違いから生まれた発展。張遼(ちょうりょう)と曹植(そうしょく)の民間伝承

 三国時代、合肥は魏国の南門であり、曹操は呉からの侵入を防ぐために将軍・張遼を警備に派遣した。

 “南人は船が得意、北人は馬が得意(南船北馬)”ということわざがあるように、呉は豊富な川を利用して曹操軍の合肥を急襲することがよくあった。

 合肥は地形が低く市の外に丘陵地があり雨が降ると水害に、晴れると水不足に悩まされるため、曹操は張遼に命じて民を動員して逍遥津の横に高い台を築き、川沿いに池を作るように命じた。

 それに際して曹操は自筆で“一歩前進”と書き、石工たちに石を彫って碑を建てるよう指示した。

 逍遥津の高台の工事は何日たっても数センチも伸びていないことが判かった。なぜこのようなことが起こったのか? 曹操は息子の曹植に調査を依頼した。

 張遼は多くの人を募集し30~40里の道中に小屋を建てた。しかし近くに商人もおらず、生活は非常に苦しく、服の破れ裁縫もできず、食べるものも不足していた。人々は皆無気力で衰弱しており、生計を立てることができない。

 そこに曹植が父親の書の石彫刻を見るために立ち寄った。石工が考え込んでノミを研いでいるのを見て、人々が彼を取り囲んでいた。彼らは読み書きができず、“一歩”を“店舗”と間違って聞き全員が幸せになった。

 そして「曹丞相はいつも人情に厚いと聞いていたが、本当だ。」と言い合った。また「人々が商売をし我らの困難を和らげるだろう。感謝し更に働こう。」とも言った。

 これを聞いた曹植は驚愕せずにはいられずよく考えた。民の懸念を無視すべきではないと思い、すぐさま父の筆を真似をして書簡と筆を求めた。

 父の筆跡で“店舗”と書いて石工に渡し、彼が書いた文字に従って記念碑を彫刻してもらった。元の曹操の手書きの文字は処分した。

 制限が過ぎ石版を回収しに来た官史たちが、“一歩”が“店舗”に変わっているのを見て恐れをなして、すぐに石工を逮捕した。

 このとき、曹操を伴って曹植らが到着した。曹植は慌てて「父の筆跡は実は私が書き直したものなのです。それは石工の罪ではありません。」と一部始終を話し、市場の大事さを説いた。

 曹操はこれを聞くと、「故郷に戻ることは世界にとって非常に重要だ。息子のこの変化は素晴らしい!」と言い、ひげをひくひくさせて微笑んだ。そしてすぐに合肥のすべての商人に命令を送り、道中の道沿いに商店を立ち上げる事を認めた。

 曹操はまた、「ちょっと考えがまとまらなかったが、この人たちが大事なことを思い出させてくれた。」と言い、すぐに誰かに石工の拘束を解くよう指示。そして、石板の彫刻が上手だったことを直接褒め、「褒美を与えるべきだ」と金を石工に手渡した。

 その後、部下たちはその場に穴を掘り、“店埠”と刻んだ石碑を建てた。それ以来、人も増え仕事は順調に進み、店が軒を連ね繁盛し、次第に賑やかな通りになっていった。

 石碑の名前は“店埠街”と呼ばれるようになった。

 いかがだったでしょうか?

 ルールに縛られず臨機応変立ち回った曹植とそれを認める曹操。曹植を一時後継者にと考えた曹操の気持ちもわかったような気がしました。

 しかしのち曹植は酔って皇帝専用道路を通る“司馬門事件”で失脚。お坊ちゃま曹植は、なんでも自由に振舞えると思って傲慢になっていたのかもしれません。曹操は曹植に寛大すぎたのが仇になったのでしょうか?

 それにしても張遼は何をやっていたのか? やはり政治より武の人なのか。張遼・李典・楽進で合肥を守らせたのもそれが原因かもと邪推してしまいました。

 次回は今回と正反対の内容となる“身内に厳しくあるべきか?”をお送りします。お楽しみに!

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岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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