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2013年8月14日(水)

【ほぼ毎日特集 ♯33】『ダンガンロンパ』や『コンセプション』の齊藤祐一郎さんを直撃!! アウトドア派でゲーマーの白黒クリエイターに迫る(kbj)

文:kbj

 電撃オンラインのスタッフが勝手気ままにお届けする“ほぼ毎日特集”。kbjは、ゲームメーカーに勤めるさまざまな人にインタビューを行う企画“ゲームメーカー最前線”をお届けしています。

“ほぼ毎日特集”

 企画第2回は、スパイク・チュンソフトにてさまざまなタイトルを手がける齊藤祐一郎氏にインタビューを行いました。齊藤さんはモノクマを思わせる特徴的な髪に加えて、幅広い交友を持っているその内側には、ゲームに関する熱い思いを抱いています。

 今回は齊藤さんに、どんな少年時代を過ごして、ゲーム開発者になったのか。クリエイターとしてどんな考えを持っているのか、手がける最新作『コンセプションII 七星の導きとマズルの悪夢』はどんな作品なのかなどについて、楽しく語っていただきましたのでご覧ください。

 なお、齊藤さんへの過去のインタビューは以下を参照してください。

☆『コンセプションII 七星の導きとマズルの悪夢』インタビュー
★スマホ版『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』インタビュー
☆『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』インタビュー
★『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』インタビュー

■家に友だちが来てくれなかったのでRPGに没頭!

――学生時代などを含め、齊藤さんについてお聞きしていければと思います。初めてゲームをプレイされたのは、いくつくらいの時でしたか?

 3歳とかそのぐらいだった気がします。うちの兄が5つ上で、ファミコンをやっている世代だったので、それを見ていました。あと、親戚の叔母がモトクロスをやっているようなファンキーな人で、ファミコンも家に置いていたので、叔母の家に遊びに行った時にやってましたね。『エキサイトバイク』とか『ガイウス(魔城伝説II 大魔司教ガリウス)』とか、初期のころのコアなタイトルがあったので、昔から結構遊んでましたね。

――お兄さんとは一緒に遊ばれなかったのですか?

 兄とは5つ離れているので、こっちが小学生の時に向こうが中学生とかで、一緒に遊ぶことはそんなになかったです。兄貴が買ったのを自分がやるみたいな感じで、一緒に対戦やろうぜとはなりませんでしたね。

――確かに、歳が離れすぎているとキツイですね。友だちとは?

 僕が住んでいた家って学区のギリギリで、学校の帰り道に友だちが寄る場所ではなかったんです。なので対戦系とかは経験がなくて、RPGとかアドベンチャーがメインでした。『孔雀王』とか……あとは『ファイナルファンタジー』や『ドラクエ』ですね。結構1人で遊ぶことが多かったです。

 あとは、近くのスーパーにあった業務用機体で『ワールドヒーローズ』や『餓狼伝説』をやっていました。人生で一番ゲームをしたのは中学生のころでしたね。

――なるほど。中高生のころに一番印象的だったゲームソフトはなんですか?

 当時狂ったようにやったのはRPGの『エストポリス伝記』ですね。『1』の時にコマーシャルを見て「欲しいな」と思って……うちの婆様にねだって、やったらすごいおもしろくて!

――婆様銀行ですね。自分は爺さん銀行でした(笑)。

“ほぼ毎日特集”

 『2』も出るというので、友だちに「『1』がおもしろかったから『2』を買おうよ!」と布教をしました。結局4~5人くらいで買ったんですよ。それからは皆で『エストポリス伝記』の話ばかりしてましたね(笑)。

 そのころからセーブデータにプレイ時間が記憶されるものが出てきたんです。そしたら、全員が99時間以上やってカンスト(カウントストップ)しているっていう。何周とかじゃないですけど、あるアイテムを集めると願いがかなえられるという要素があって、それを目当てにずっとやっていました。

――周りの友だちもゲームをやるメンバーが多かったのですか?

 そうですね。いろいろな友だちがいたんですが、ゲーム好きなメンバーとも仲がよかったんです。家で遊ぶ時はそのメンバーの家でゲームをやることが多かったです。自分の家だと対戦ゲームがないので、友だちの家に行って一緒にやっていました。

――そのころにも、家で遊ぶソフトはRPGが多かったのですか?

 そうですね……結局、大きくなっても家に人が来ないので、買って自分の家でやるタイトルは1人用なんですよ。そのころはアドベンチャーゲームよりは、RPGに勢いがあったので、RPGはとにかく一通りやっていた気がしますね。その中でも中二タイトルが好きでした(笑)。

――そんなゲームと中二好きの齊藤さんが、クリエイターになろうと思ったきっかけはなんですか?

“ほぼ毎日特集”

 僕が最初に就職したは、別のエンターテインメント業界だったんですよ。ただ、そこでの仕事は終わった後に形が残らない、印象になりにくい業種だった。「どうせやるんだったら、形に残る仕事をしたい」と思い、転職サイトを探しました。その時に、自分がプレイしていたゲーム『喧嘩番長』の開発会社がスタッフ募集をしていたので、そこに中途採用でお世話になりました。ゲーム業界に片足を突っ込むことができた後、いろいろあってスパイクに入ったという流れです。

――これまでにかかわったタイトルは?

 開発会社にいたころから数えると、最初が『喧嘩番長2』で、次の『新宿の狼』は立ち上げから参加していました。パブリッシャーがまだカプコンさんだった時代ですね。発売されたものより、もっとぶっ飛んでいました。他には、Wiiの『JAWA(ジャワ) ~マンモスとヒミツの石~』でメインプランナーをやりました。その時の担当プロデューサーが寺澤(寺澤善徳プロデューサー)だったんです。開発とパブリッシャーというところでやり取りを経験した後、スパイクに移ることになり、DS『トワイライトシンドローム 禁じられた都市伝説』に終盤からかかわりました。

 その後は『くるくるプリンセス』の3作目『くるくる◇プリンセス ~ときめきフィギュア☆めざせ!バンクーバー~』と、TV番組を題材にしたWii『東京フレンドパークII決定版~みんなで挑戦!体感アトラクション~』をやって、その後に『ガチトラ! ~暴れん坊教師 in High School~』、『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』、『コンセプション 俺の子供を産んでくれ!』、『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』、『コンセプションII 七星の導きとマズルの悪夢』です。

――スパイクは、その後合併してスパイク・チュンソフトになりましたが、合併して変わったことはありましたか?

 スパイクとチュンソフトのスタッフは、エリアがきっちり分かれていたので、最初の1年は様子見みたいな感じでそんなに変わったという感じはしなかったですね。もともとグループ会社だったので、それが1つのビルで集まって仕事をしたうえで、年末年始に中村会長が挨拶(あいさつ)するというのがある意味一番大きい変化だったかもしれませんね。僕らプロデュースのほうでは、せっかくチュンソフトとくっついたということで、「向こうが持っているIPや開発力を使って、一緒に何かやれないか?」みたいなことはミーティングしていました。

――エリアというのは?

 部署的にプロデュースという部署があったのはスパイクで、チュンソフトにはプロデュースグループがなかったんです。スパイクで言うと、プロデュースグループと開発チームがあり、チュンソフトは開発チームがそれぞれオンラインとコンシューマを担当するという感じでした。プロデュースグループは完全にスパイクの人間でしか構成されていないので、そこら辺はまったく変わった感がないです。今までやってきたことがそのままベースとなり、会社が大きくなったという印象です。

開発時に印象的だったタイトルは2ページ目で!

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