2015年7月9日(木)
今年で30周年を迎えるコーエーテクモゲームスの『三國志』シリーズ。本企画は、三国志ならゲーム、漫画、小説、史実なんでもござれな2人が、過去シリーズをダシにアレコレ語っちゃう企画第2回なのです!
うどん先生 | KYS | |
▲『信長の野望』から歴史に入った、ゲーム脳歴史ライター。好きな『三國志』は『三國志IX with パワーアップキット(以下、IXPK)』『三國志 11 with パワーアップキット(以下、11PK』『三國志V(3DS版)』。あと『三國志戦記』『三國志Internet』も名作だったと思う! | ▲小学校低学年時に父親が持ってた横山光輝“三国志”を読んでこの世界に入る。その後、“蒼天航路”“龍狼伝”“天地を喰らう”などマンガは読み漁る。好きな『三國志』は『V』と『12対戦版』。 |
うどん:YES! YES! イェスゲイ!
KYS:うわー、今日もテンション高いなあ。
うどん:いやさ、前回の記事書くにあたって『三國志』シリーズ全作品を引っ張り出してさ。ちまちま遊んでたら、やっぱりどれもおもしろくて。今、あたいの無双ゲージは超絶MAX!
KYS:そういえばナンバリング最新作『三國志13』の鈴木亮浩プロデューサーって、『真・三國無双』シリーズにずっとかかわってた人なんだよね。近年稀に見る傑作だった『信長の野望・創造』の小笠原賢一プロデューサーも、もともとアクション畑の人だし、これは期待していいのかな……!
うどん:一騎討ちシーンはアクション決定やね! もう操作方法忘れたなあ……『↓←△→△ヒット後←□↓→△』だっけ?
KYS:日本語でOK。
うどん:太史慈の“岩砕断鞭”だよ! 『三國無双』の!
KYS:『真』じゃないし! あと、たぶんアクションじゃねえから!
うどん:それはさておき、さっそく『三國志VII with パワーアップキット(以下、VIIPK)』の話をしますぞ。
KYS:え、うん、あれ? 前回「次は『三國志11 with パワーアップキット(以下、11PK)』」とか言ってなかった?
うどん:あれは嘘だ。
KYS:言い切った。
うどん:どうせ全12回も続かないんだから、今まさに! この瞬間! あたいが書きたいものを! 書くんだッ!!
KYS:こんなに雄々しくいい加減な人、見たことない。
うどん:ほら、前回が君主プレイだったから、今回は全武将プレイの方がいいかなって。『13』も全武将プレイって話じゃーん。
KYS:う、うん。
うどん:というわけで『VIIPK』を語るのだ! まず本作は、520人の登場武将すべてでプレイが可能なのです。
KYS:趙雲でも、張遼でも、周瑜でも!
うどん:張松でも、陶濬でも、スイ固でも!
KYS:顔のおもしろい人たちだ。
うどん:まあ、『信長の野望』シリーズでいえば城主プレイの『信長の野望・蒼天録』。あるいは『太閤立志伝』シリーズみたいなもんですね。
▲みんな大好き呉の陶濬。彼で呉の天下統一を目指す、あるいは本人が覇者を狙うことも……! |
▲一般武将の場合、戦争で動かせるユニットも自分のみ。ほかの自軍武将は味方であるとともに、功を競うライバルなのだ! |
▲能力を鍛えて、武術大会や漢詩大会で上位入賞を目指すのもよし。どんな武将ライフを送るかは、プレイヤーの遊び方しだい! |
うどん:『VIIPK』は簡単に言うと、1人の武将となって三国志の世界を自由に生きることができる作品なのだ。たとえば李儒でプレイして董卓を補佐し続けてもいいし、諸葛亮で孟獲に仕えてもいい。夏侯惇で曹操に謀反を起こすのもいい。
KYS:君主プレイが自分の好きなように戦略を立てられる作品だとすれば、全武将プレイは自分の好きなように生きられる作品というわけだね。
うどん:身分は君主、太守、軍師、一般、在野の5種類があって、それぞれできることが違うのだ。君主プレイだと結局いつもの『三國志』なので、『VIIPK』はやっぱり太守プレイや一般プレイが楽しいね。
KYS:一般ってやること少なそうだけど!
うどん:逆にあたい的には一般が一番オススメかなあ。『VIIPK』って鍛錬で自己強化ができるから、普段はひたすら能力修行。80や90くらいまでなら、けっこう簡単に鍛えられるのだ。普段は自分の能力を鍛え続けて、君主から指示が来たときは仕事にいそしむわけ。
KYS:ごめん、なんかおもしろさがピンとこない。
うどん:ウキーッ! 自分をチマチマ育てるのが楽しいのよ。例えば本作の高順は武力80知力66なんだけど、呂布と陳宮に弟子入りして武力90知力80くらいまで鍛えちゃう。それだけでもう、ニッコリやで!?
KYS:う、うん。同じ全武将プレイでも『VIII』や『X』の方がいろいろできることは多そうだけど。
うどん:システム面でいえば、確かにその通りなんだけど。でも、シンプルさが逆に気楽で楽しいかな。能力を鍛える、君主の指示に応える。その繰り返しをマッターリと続ける感じ。
KYS:人を選びそうな魅力だね……。
うどん:もともと“歴史シミュレーション”ってジャンルそのものが自己満足ゲームだし。誰かと対戦するわけでも、天下統一をガチで目指すわけでもなくて、自分の好きな歴史的シチュエーションにしっとり浸るもんじゃろ?
KYS:ちなみにうどん先生の好きなシチュエーションは?
うどん:ここ数日は、諸葛セイと文鴦を主人公にして、司馬氏打倒を目指してたよ!
KYS:文鴦はわかるけど、諸葛セイってわかんない! それと主人公が2人??
うどん:諸葛誕の子のセイ君だよ! この人と呉の最後の丞相・張悌の話は、めっちゃ泣けるんやで!? それとSHIFTキーと左クリック押しながらダブル右クリックでマルチプレイが可能なんだよ! 裏ワザ!(PC版の話)
▲“趙雲の再来”と謳われた文鴦ですが、初期能力は控えめで、武力74知力66政治46魅力58。5年間ひたすら修行して武力95にまで鍛え上げましたぜ! 鄧艾の初期武力が87、姜維の初期武力が86なので、魏でも蜀でもかかってこんかい状態。 |
▲初期武将が5人しかいないので、とにかく人手不足の諸葛誕陣営。魏と呉はバンバン攻めてくるし! 文鴦と諸葛セイをめっちゃ鍛えて、なんとか能力差で猛攻をしのいでるんだけど……。 |
KYS:そもそも諸葛誕ってあんま知らないしなあ……。前回、鍾会独立のシナリオの話をしてたけど、諸葛亮死後の三国志って地味だし知名度低いよね。
うどん:そうよね。横山光輝のマンガも孔明死後の50年を1冊でやっちゃったし、『三國志』シリーズも孔明死後のシナリオはそんなに数がないし。ちなみに諸葛誕の乱はシリーズでときどきテーマになっていて、『三國志VI with パワーアップキット』の追加ショートシナリオでも諸葛誕主人公の話があったんやで。あと、『三國志VIII with パワーアップキット』も孔明死後のシナリオが3本追加されてるね。
KYS:ほーん。諸葛亮死んだあとの三国志って、結局どうなったの?
うどん:みんな死んだ。
KYS:いや、人間なんだからいつか死ぬよね? 生きてたら困るよね?
うどん:ゴゴゴゴゴゴ…
KYS:んんん?
うどん:うらー! 孔明死後のその後の三国志を語るぞおおおおおおお!
KYS:うわー! なんかスイッチ入っちゃった!
うどん:ときは234年の孔明死後。魏では遼東の公孫淵が反乱を起こし、司馬懿がそれを鎮圧した。魏帝・曹叡はほどなく病没し、後事を司馬懿と曹爽(曹真の子)に託する。曹一族の重鎮たる曹爽は、武勲華やかな司馬懿に対して警戒心を抱き、やがて魏国内で政争が巻き起こった。司馬懿はボケたふりをして曹爽を油断させると、249年にクーデターを敢行。曹爽一派を粛清して魏の実権を握った。以降、魏は司馬一族の権力専横がはじまり、それに反発する魏将たちの乱が続く。まず251年に王リョウがクーデターを計画した。彼はかつて董卓を暗殺した王允の子孫。いわば忠義の家系である。しかし計画は事前に漏れ、司馬一派によって粛清される。この直後に司馬懿は病没したが、彼の権力はそのまま嫡男の司馬師が引継いだ。ちなみにこのころ蜀は益州に引き籠ってて、呉では孫権が酔っぱらってgdgdしてた。
司馬一族の権力壟断が続くなか、曹叡の子・三代魏帝の曹芳は司馬一派の排斥を側近の夏侯玄らと語らうようになった。しかし、司馬師によって曹芳は廃位とされ、夏侯玄らも粛清された。皇帝の座すら思うがままに操る司馬一族に対して、ここで大きな武力反乱がおこる。255年の毋丘倹・文欽の乱である。毋丘倹と文欽の2人は寿春で決起し、6万の兵で司馬一族打倒の挙兵を行った。この乱は司馬師自らが出兵して激戦の末に鎮圧する。しかし、文欽の子・文鴦はわずか17歳ながら八面六臂の大活躍。敗戦のなか、司馬師の本陣を強襲。司馬師はかねてより病んでいた目のこぶが破裂し、その傷がもとでほどなく没した。毋丘倹の乱は鎮圧されたが、文欽・文鴦親子は呉へと亡命。司馬師の権力は、弟の司馬昭が引き継ぐことになった。ちなみにこのころ蜀は益州に引き籠ってて、呉では孫権死後のお家騒動でgdgdしてた。
KYS:うわわわわ。
うどん:さて、毋丘倹の乱の鎮圧に尽力した魏の重臣に、諸葛誕という人物がいる。彼はその姓でわかるように諸葛亮や諸葛瑾と同族で、「蜀は龍を得て、呉は虎を得て、魏は狗を得た」と言われた人物である。彼は続発する反乱と粛清に、やがて疑心暗鬼に陥り、ついに自分も寿春で反乱を起こした。これが257年に起こった、魏の最後の大動乱、諸葛誕の乱である。諸葛誕のもとには呉から援軍が到来。文欽・文鴦親子も寿春城に馳せ参じた。その兵力は十数万。意気上がる諸葛誕軍であったが、司馬昭は三十万の大討伐軍を編成してこれに挑んだ。このとき、討伐軍の鍾会が謀略の冴えを見せ、呉軍を次々寝返らせて諸葛誕軍を追い込んでいく。さらに寿春城では仲たがいした諸葛誕と文欽が刃傷沙汰におよび、文欽が斬り殺される事件があった。この事件で諸葛誕軍の士気は崩壊。文鴦は司馬昭軍に降り、やがて寿春城も陥落。諸葛誕は斬られ、乱は鎮圧された。このとき、諸葛誕の一族で唯一生き残ったのが諸葛セイである。彼は呉に人質として送られていたことから難を逃れ、以降は呉の将として取り立てられることになった。
KYS:ひいいいい。
うどん:さて、呉はあいかわらずお家騒動でgdgdしてたんだけど、蜀では諸葛亮死後に国内統治を仕切っていた費イと蒋エンが相次いで亡くなった。彼ら2人は諸葛亮、董允とともに“蜀の四相”と呼ばれた名宰相であったが、基本路線は益州死守。「諸葛亮ほどの人物ですら北伐を成しえなかったのに、自分たちにできるわけがない」……という現実路線の戦略を取っていた。彼らが軍人として無能だったわけではない。費イ、蒋エンはともに優れた軍事手腕を発揮した場面もあったが、北伐は現実的に不可能だと判断したのだ。しかし、姜維は違った。彼は決戦主義者であり、冒険主義者であった。費イ、蒋エンの死後、国内の実権を握った姜維は、9度に及ぶ北伐を開始。連年、魏へと侵攻していったのだ。このころ魏では内乱が続いていたが、鄧艾、陳泰ら魏の名将たちが姜維を迎撃。255年の隴西の戦いで姜維は大勝利を収めたものの、256年の段谷の戦いで鄧艾に致命的な大敗を喫する。かつて5度の北伐を繰り返した諸葛亮は、“負けない”ことを重んじた慎重な戦略を取った。これに魏延ら武闘派が反発したが、現実問題として、“大勝利か大敗北か”という冒険主義は、たちどころに蜀を窮地に追い込んだのだ。
一方、魏では260年に四代皇帝曹髦が自ら宮中で挙兵。このころ、すでに魏は完全に司馬一族が牛耳るものとなており、曹髦に味方する武将は誰1人いなかった。曹髦とともに戦ったのは、わずか数百人の下僕のみ。あまりに悲壮な挙兵である。結局、曹髦は司馬昭に命じられた賈充の部隊に斬殺された。曹髦死後、司馬昭は、五代皇帝にして魏最後の皇帝、曹奐を即位させたのだった。ちなみにこのころ、呉はお家騒動の後始末でgdgdしてた。
KYS:なんか呉の扱い悪くない!?
うどん:段谷の大敗は蜀の国力を大きく損なった。このころ蜀国内では宦官の黄皓が政治の実権を握り、蜀宮中は腐敗したものとなっていた。蜀帝の劉禅は無気力な人物で、黄皓に薦められるまま贅沢に溺れた。余談になるが、後漢帝国の末期は宦官の専横によって宮中が腐敗して国力の低下を招いた。後漢を乗っ取った曹操はこの徹を踏むまいと、宦官が権力を握らぬよう制度を整え、魏、晋では中国の王朝ではめずらしく宦官の専横が起こっていない。逆に後漢の正統な後継を自称した蜀(蜀漢)が、後漢同様に宦官の専横を招いたというのは歴史の皮肉だろう。
さて、やがて司馬昭は頃合いと見て蜀征伐を開始した。これが鄧艾と鍾会の蜀征伐である。ここは有名な話なのでさくっと飛ばすと、姜維は漢中を放棄して剣閣で防衛線を張るも、迂回作戦を取った鄧艾が首都・成都を攻略。263年、劉禅は降伏し、蜀は滅び去った。この後、成都では鄧艾の武勲に嫉妬する鍾会が、姜維にそそのかされて反乱を計画。大混乱のなか、姜維、鄧艾、鍾会がみな命を落とすという結末を迎えた。蜀滅亡からほどない265年、司馬昭が病没し、その子・司馬炎が権力を引き継いだ。司馬炎は魏帝・曹奐に禅譲を迫り、晋を建国。蜀に続いて魏も滅び去ったのである。
KYS:やっと2国滅んだ……。
うどん:さて、酔っ払いの老害こと孫権が引き起こした呉の騒動は、gdgdに次ぐgdgdの末に、暴君・孫晧を即位させる結末となった。彼は虐殺、姦淫、贅沢を好む、董卓にも匹敵する凶君主である。正史を著した陳寿に、「ほしいままに暴虐を働いた度し難い悪人。彼は当然斬首されるべきであった」とまで批判されている。しかし呉には最後の名将ともいうべき陸抗の姿があった。父の陸遜は孫権に左遷されて失意のうちに没したが、陸抗は呉への厚い忠義で任地の荊州南部を守り続けたのである。呉の攻略とは、すなわち長江の攻略である。荊州南部は長江の上流にあたり、この地を攻略しなければ呉を滅ぼすことはできない。司馬炎は側近の羊コに荊州北部を任せ、陸抗と対峙させる。羊コは陸抗に戦いを挑むが敗北。戦では勝てないとわかると、荊州北部で善政を敷くことで呉の民の流入を謀った。陸抗もこれに対抗して荊州南部で善政を敷く。この意地の張り合いのような善政対決のうち、やがて陸抗と羊コは友誼を結ぶようになった。宿敵関係である晋と呉が、その最前線で司令官同士が友情をはぐくみ、相手に負けじと善政を行ったのである。ある意味、異常な事態といえるだろう。しかしやがて陸抗は没した(演義では孫晧に左遷された)。羊コは友の死を哀しみながらも、呉討伐の好機と司馬炎に出兵を上奏する。このときの上奏は結局実現されず、やがて羊コも病没。羊コの後任には杜預が指名され、彼もまた呉討伐を上奏。279年、呉の交州東部で大反乱が起きると、これぞ頃合いと司馬炎は呉討伐の大軍を南下させた。
KYS:zzzz…
うどん:さて、多方面から南下する圧倒的な晋軍に対し、呉軍の戦線はまたたく間に崩壊した。とくに晋の名将・王濬が益州で築いた大艦隊は、長江に沿って快進撃をつづけ、各地で呉水軍を撃ち破った。もはや呉の滅亡は誰が見ても明らかなものである。ここで登場するのが呉の最後の丞相・張悌と諸葛誕の子、右将軍・諸葛セイであった。張悌は敗色濃いなか、起死回生の反撃計画を練ると、自ら兵を率いて諸葛セイとともに出陣した。張悌は晋の大軍相手に善戦したが、結局呉軍は敗北。敗走の混乱のなか、諸葛セイは張悌を脱出させようと退却を援護する。しかし、張悌は退却を良しとせず、後退要請を拒否。諸葛セイは、自ら本陣におもむき張悌の手を引っ張った。必死の諸葛セイに、張悌は困ったような顔を見せて言った。「私は子どもころ、貴方の家の丞相(諸葛亮のこと)に見出された。国難に殉ずることで、今やっと賢者の知遇に応えられるのだ。だから、私の袖をそんなに引っ張らないでおくれ」、と。張悌は諸葛セイを逃がし、ここで戦死を遂げた。これが呉の事実上の最後の戦いとなった。その後、呉近衛軍の陶濬は晋軍に対する反撃を計画したが、結集した兵たちが一晩のうちに全員逃走。このときの陶濬の衝撃は、『三國志』シリーズの顔グラフィックを見ていただければわかるだろう。かくして王濬艦隊が建業一番乗りを果たすと、呉帝・孫晧はもはやこれまでと降伏を決断。ときは280年、黄巾の乱から100年近くに及んだ後漢末から三国時代が終焉を迎えた瞬間である。
司馬炎は寛容な政策をとり、蜀の劉禅、呉の孫晧を助命した。また、蜀や呉の旧臣たちも取り立てた。諸葛誕の子として生まれ、数奇な運命をたどった諸葛セイは、晋への仕官をこばんで隠棲した。もともと魏臣であった諸葛セイは、司馬炎とも面識があり、司馬炎は彼の才を惜しんで何度も仕官を誘った。しかし、諸葛セイは父と張悌を想い、結局没するまで、晋を主と仰がなかったのである。
KYS:めで……たし……zzz
うどん:さて、天下統一を果たした司馬炎であったが、瞬く間に堕落して贅沢三昧を生きるようになった。彼は非常に好色な人物で、蜀と呉の双方の後宮をまるまる吸収。側室1万人というとんでもないハーレムを築いた。ここで有名な逸話がある。あまりに側室が多く、相手を選ぶのが面倒になった司馬炎は、羊車が止まった場所の女を訪ねるという新手のプレイをはじめたのだ。女たちは司馬炎に来てもらおうと、自分たちの部屋の前には牛が好む塩の山を置いて待ったという。これが、水商売における盛り塩の起源である。マジで。
そんな司馬炎のこと、政治は腐敗し、晋政権は早々に弱体化。賈充の娘・賈南風の専横もあり、結局、天下統一からわずか五十年で晋は滅亡した。北方からは異民族が次々押し寄せ、五胡十六国時代が訪れる。それから南北朝時代を経て、中国統一が再びなされるのはなんと四百年後、隋の時代のことであった……。完!
KYS:……zz
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