2016年1月16日(土)
※本記事は、Webノベル『ロスト・レゾナンス ~LORD of VERMILION ARENA~ 後篇・その2』です。後篇・その1や前篇を読まれていない方は、下記の記事を先にお読みください。
●前篇
⇒『ロスト・レゾナンス ~LORD of VERMILION ARENA~ 前篇・その1』を読む
⇒『ロスト・レゾナンス ~LORD of VERMILION ARENA~ 前篇・その2』を読む
⇒『ロスト・レゾナンス ~LORD of VERMILION ARENA~ 前篇・その3』を読む
●後篇
⇒『ロスト・レゾナンス ~LORD of VERMILION ARENA~ 後篇・その1』を読む
4
文化祭が近づいていた。イザたちのクラスはバルーンアートと輪投げを組み合わせた演し物をやることになり、内容の企画検討と内装の準備が並行して進められていた。
イザはスズリたちと申し合わせて、自分たちを“内装準備係”にねじ込んだ。身動きの取りにくくなりそうな役割を嫌ったこともあったが、買い出しに行くという口実が“刻印の者”の捜索に活用しやすいのではと踏んだのだ。
まだ敵の現れていないうちにと、イザとスズリはさっそく買い出しに出かけた。企画検討が並行して進んでいる都合上、必要な物資すべてを先に買っておくことはできないが、とりあえずバルーンと折り紙の類をそろえておけば、後で困ることもないだろう。
ユキナは部活が、ダイキはバイトがあって不参加――ということで、量販店に向かうメンツはイザ、スズリ、ヒサの三名のみとなった。
すっかり通い慣れた繁華街に足を運び、“なんでもそろう”と謳う百貨店に入る。さっそくヒサが「おおー!」と目を輝かせ、アニメグッズコーナーに突撃していった。
「ありゃしばらく帰ってこないな」小柄な背中を見送りながら、イザは嘆息する。そのくらいの予測はつくようになっていた。「しょうがない。先に俺たちで買っとこう」
「うん」
にっこり微笑むスズリとともに、エスカレーターに乗る。
緩やかな運行に身を任せてぼーっとしていると、
「ナナセくん、慣れてきたよね」
下手に立ったスズリが不意にそんなことを言い出し、イザはきょとんとなった。
「慣れ?」
「うん」スズリはかすかに微笑んだ。穏やかな風の息吹を受けた小さな花が、さらさらと揺れるようだった。「緊張しなくなった」
イザは目を瞬かせた。
ちょうどそこで二階に到着。頬を撫でながら次のエレベーターに乗る。
「俺……」エスカレーターが動き始めるのに合わせて、口を開いた。「緊張してた?」
「うん。ふつうじゃなかった」
「…………」情けない顔になる。
「あ、ごめん」あわてて、スズリ。「“ふつうじゃなかった”だとアレだよね。えっと、じゃなくって、……そう、“自然じゃなかった”。うん」
「どの道ヘコむ……」
がっくり肩を落とすと、「だいじょうぶだよー、今はふつうだから」フォローになっていないフォローの追撃が来た。
三階に到着――目的地である雑貨屋のある方向を掲示板で確認しつつ、移動を開始する。
「なるべく自然にしようとしてたんだけど」
歩きながら、イザは軽く嘆息した。
「まあ……やっぱ無理があったかな。慣れてないし」
「そうなの?」
「学校ってさ。行ったことなかったから。なんていうか……友だちならともかく、クラスメイト、ってカテゴリの知り合いとの距離感がわからなくってさ」
そんなことを打ち明けていいものだろうか――という懸念が脳裏をかすめたが、まあいいだろう、という気がした。こちらの事情をいっさい話さないというのも不自然だ。
「そうなんだ」スズリは首をかしげた。「刻印戦争のせい?」
「まあね……」
曖昧に答える。それ以上の質問はなかった。刻印戦争のせい――となれば、十中八九、ろくな話であるはずもない。スズリは気を遣ったのだろう。ありがたい。二重の意味で。
雑貨屋に着いた――が、そこでアクシデントが起こった。妙に人が集まっていて、ほとんど通路を封鎖している。店の奥を覗き込むと、大きなカメラを持った男が見えた。
「こりゃ……あれか。TVの撮影。しばらく入れそうにないな」
「諦める?」
「んー……いや、そんな長いこと続けないだろ。ちょっと外で待ってよう」
肩をすくめて歩き出し、フロアの片隅にソファを見つけて腰を下ろす。スズリも倣って隣に座り、スマートフォンの画面をぺちぺち指で叩き始めた。ヒサにでもメールをしているのだろう。癖なのか、なぜか両の親指だけで打鍵している。
妙にきりりとした真剣な表情でメールを打つこと、およそ一分――「よしっ」達成感あふれる吐息とともに、スズリは満足げにスマートフォンをしまい込んだ。
「……なんでそんなマジな顔で打つの?」
なんとなく気になって訊くと、スズリは「?」と見つめ返してきた。
「そんなカオしてた?」
「うん。かなり」
「そっかー……うーん」腕組み。「あれかなぁ。癖かなぁ。昔の」
「昔?」
「故郷の世界にいたころね。同盟国に書簡いっぱい送ってたの。お父さま、臥せってたから。私が代わりに」
「同盟国?」つい、言葉選びが慎重になった。「ひょっとして、ダイキがたまに“姫”って呼ぶのって――」
「あれ?」きょとんとなるスズリ。「言ってなかった? 小国の姫だったって」
「初耳だよ。まあ、だからなんだってことはないけど」
お姫さま――というのはイザにとっては縁遠い概念で、目の前に“姫”がいるとわかっても、なんというか現実感がなかった。
「ライズに似た世界の生まれ、って言ってたけど……ライズと同じで、小国が乱立してたってこと?」
「うん。昔は、ライズみたいに戦乱が絶えなかったらしいけど、私が生まれるちょっと前くらいから、平和な時代が続いてたの。でも、国同士の牽制とか関係の悪化とか、“ちょっとマズいかも”ってことがなかったわけじゃないから、“お付き合い”が欠かせなくって」
「それで手紙か」
「苦手なんだけどね」
スズリは、げんなりとうめいた。日誌にしてもそうだが、どうも長文を書くのが得意ではないらしい。理由はなんとなくわかる――彼女はとにかく飾らない性格なのだ。何事も直球。そのせいで、ついつい“言いたいこと”が端的になる。
「でも、さすがに一言で済ませるってわけにはいかないから、必死にいろいろ考えて……あと、字もキレイに書かないといけなかったし。けっこう本気でやってたの」
「本気で……」
「結局、だめだったけど」ほんのわずか、スズリが目を伏せた。「いくら同盟国があったって、刻印戦争じゃどうにもならないから……」
その瞳に映るのはなんだろう、とイザは思った。無力な自分か――失われた命か。
過去を悼むような沈黙があった。それを裂くべきではないと思いながらも、イザは口を開いた。どうしても気になることがあったのだ。気になって仕方ないことが。
「……割り切れたのか?」
「え?」
少女が振り向く。その瞳をまっすぐに見つめ、イザは問う。抱き続けてきた疑問を。
「失ったってことを……割り切れたのか? もう過去だって。振り返らないって」
失って。諦めて。この世界に“亡命”して。新たな生き方を選んで。
そんなことができるのか? 失われたからといって、過去の自分を墓場に埋めて、きれいさっぱりすべてを一新できるものなのか?
それが、イザには疑問だったのだ。ずっと。彼女の話を聞いたときから。
「失ったものが軽かったなら、わかる。でも、違うだろ。そんなわけないだろ。なのに……平気なのか? 忘れられるのか? 自分のすべてだったものを――」
「忘れられるはずないよ」スズリは小さく微笑んだ。「割り切ったわけでもない……かな。引きずってる。たぶん、ずっと引きずる気がする」
「なら――なんで」
「引きずったって歩けるから。引きずってでも歩かなきゃ……ぜんぶ無駄になるから」
「無駄に――」
「逃げたくなんてなかったの」視線が外れる。前を向く。どこか彼方を。彼方の果てを。「私以外の“刻印の者”が、みんなやられて……アルカナも世界も消えそうになって。そうしたら、逃げろ、って。お父さまがおっしゃったの。みんなも。頼むから逃げてくれ――おまえだけでも生き延びてくれ、って。いっしょに死にます、って言ったんだけど……おまえはじゅうぶんにがんばったから、って」
イザは思わず息を呑んだ。
臥せった父の代わりに国をまとめながら、ドゥクスと出会い、刻印戦争に巻き込まれた幼い姫君――世界に迫る危機を知り、異形の使い魔を召喚し、人知を超えた敵と戦い続けて、その負荷に倒れた少女。彼女のことだ。異世界の“刻印の者”に立ち向かうべく、限界の限界まで召喚を続けただろう。自分の故郷を消させないために。
“いっしょに死にます”。知らなかった一面――武家の娘として培われたのであろう、壮絶な覚悟。当たり前のようにそんなことを言う少女が、自分の身など顧みるはずもない。
自分が彼女の父だったら。臣であったら。兵であったら。
やはり逃げろと言うだろう。頼むから逃げてくれと……おまえはじゅうぶんがんばったからと言うだろう。誰もがそう願わずにはいられないほど壮烈に戦ったのだ。この姫君は。
そして――そう願われて、きっと涙ながらに頼まれて、無下にできる少女でもない。
「だから……私、歩かなきゃいけないの」ぽつり、とスズリは続けた。遠いどこかを見つめたままで。「引きずってでも。進まなきゃいけないの。じゃないと、みんなが逃がしてくれた意味がないから――みんなの気持ちを、無駄にしちゃうから」
「……そうか」
イザはスズリから視線を外した。
「悪い。無神経だった。割り切れるのか、なんて……やっぱり、難しいよな。そんなの」
「そうだね。……難しいね」
視界の隅で、スズリがそっと胸元を押さえた。何かを確かめるような仕草だった。
「大事なものを失うのって、自分の中に穴が空くってことなんだと思う。“自分”って、必ず“何か”でできてるから……その“何か”がなくなるってことは、“自分”に穴が空くってことだって」
つぶやくような言葉に、イザはぎくりとした。“自分に穴が空く”――その感覚は知っていた。その痛みも。虚しさも。
「怖いのは……この穴は広がるってこと。なくしたものが、いちばん大事な“何か”だったら……他の“何か”が大事に思えなくなって、ぜんぶ穴になっていく」
胸が軋んだ。かつて空いたままの穴が。スズリの言は抽象的だったが、ああ、そういうことか、と腑に落ちる気持ちがあった。空いた穴が広がるのは――自分のすべてがなくなっていくのは――いちばん大事な“何か”を失って、だからといって次に大事な“何か”を拠りどころにできるわけでもなく、“失ったものに比べればなんの価値もない”と思えてしまったからなのか。
相対的な価値の暴落。何もかも色あせて見える世界。たったひとつをなくしただけで、何もかも失われてしまったと思える錯覚。喪失の穴が、自分という自分を蝕んでいく――
「もし、そうなったら――」うつむいて、イザは言った。「いつかきっと、穴しかなくなる……“自分”が消えてなくなって」
「そうだね」「微笑んだまま、スズリは天井を見上げた。「だから……見つけなきゃいけないって思ったの。新しい“何か”を。“私”がなくなっちゃったら……お父さまやみんなの願いも、いっしょになくなっちゃうから」
「その新しい“何か”が、ここでの暮らしだったのか?」
「うん。だからね。けっこう、がんばってみたの。自分に穴が空いたままでも、それでも“大事”だって思える何かを新しく見つけられたら……そうしたら、きっと進めるって思ったから。穴だらけでも歩いていけるって」
実際には――それはきっと、ひどく難しいことのはずだ。自分に空いた穴は、喪失の爪痕は、歩くたびに血を流し、絶えざる痛みを訴えるだろう。もはや心の拷問にさえ等しい。
それでもなお歩いていこうと――生きていたいと思えるようになるのは。
きっと――本当に――簡単ではない。
だが、スズリは。この少女は――
「じゃあ」イザはスズリに向き直った。「今の君には……今の暮らしは大事なのか?」
「うん」うなずいて、スズリもこちらを向いた。屈託のない無垢な笑顔が、慎ましやかに咲いていた。「ヒサやダイキやユキナやアマリアや……それに、ナナセ君やイリスさんやケットシーもいてくれるから。みんなといっしょなら……楽しいし、幸せだよ」
「……そうか」
我知らず、イザも唇をほころばせていた。
どこかほっとしていた。多くを失い、空虚を胸に抱えながら、それでも彼女が前に進めていることに安堵していた。自分の存在が、その一助となっていることも含めて。
いつかは消さねばならない相手なのだとしても。
と。
ポケットに振動を感じた。マナーモードにしているスマートフォンが震えたのだ。「ちょっとごめん」一言入れて、イザはスマートフォンを取り出す。
そして、ハッと目を見開いた。
受信したメールを開くまでもなかった。
“シン”――通知画面に刻まれた送信者の名が、すべてを物語っていた。
5
大人であることをじゅうぶんに自覚した者たちが、ささやかな優雅さを楽しむために訪れるような、しゃれたカフェの一席。
そこで、彼はイザを待っていた。
「久しぶり――になってしまったな。イザ」
「シン……」
呼びかけに、男は笑みで返した。
重厚な鷹揚さを宿した壮年の男だ。やり手の海外実業家、と紹介されれば大いに納得がいくだろう。刈り込んだ金髪や着崩したスーツ、目元の鋭さを隠すどころか強調するような黒縁の眼鏡に、清潔さと野性味を併せ持つ髭。数えきれない経験を経て築き上げた確固たる“徹底的自己流”のにおいが濃密に漂う。その佇まいには、神妙な慎み深さと泰然たる余裕が溶け合うように同居して、古い森に息づく大樹めいた静穏をたたえている。
イザにとっては“上役”に当たる存在だ。かすかな緊張を覚えながら同席する。
テーブルに置いた両手を軽く組み、シンはほのかなあたたかみのにじんだ声で労った。
「よくがんばってくれているようだな」
「がんばらざるを得ない状況だからな」
軽口で返し、「で――」イザは真剣に瞳を研ぎ澄ませる。
「まだ、わからないのか? どうしてここに“刻印の者”が集中するのか――」
「わかったから呼んだ」
あっさりとした応えに、イザは軽く固まった。そういう話かもしれない――とうすうす考えてはいたが、こうも無造作に言い放たれるとは。
少年の青さを笑うでもなく、シンはスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
「結論から言えば――原因は彼女。ミキシマ・スズリだ」
校舎の廊下――クラスメイトと談笑するスズリの笑顔が映っている。
「ミキシマさんが――原因?」わずかに動揺を覚えつつ、イザは聞き返した。そうかもしれない、という気はしてはいたが、理由にはまるで心当たりがない。「でも、なんで……」
「報告によると、彼女は滅びた世界の強力な神霊英傑を使い魔としているそうだな」
「ああ……確かにあのクラスの使い魔がそろうってのは脅威だけど、でも、他にそういう“刻印の者”がいないわけじゃない。あんただってそうだろ」
「重要なのは強さではない。“滅びた世界の”――という点だ」
冷厳な眼差しをしたシンの指先が、軽くスズリの写真を叩く。
「なんとなく気になってな……我が使い魔の力で、彼女を霊的に調査した。すると、驚くべきことがわかった――」
そこまで告げたところで、シンはコーヒーカップに口つけた。妙に長々と中身を嚥下し、ことりとソーサーに戻す。
そして、中身のなくなったカップをソーサーごと写真の近くに追いやり――言った。
「彼女は、何らかの“喪失”を抱えた魂を引き寄せている」
「“喪失”――」
「“縁”というものがある。誰かと誰かの運命的つながり。それは決して迷信の類ではない――それを利用した呪術の類なら、おまえも見たことはあるだろう」
イザは無言でうなずいた。ユキナの魔術やケットシーのまじないには、そういうものもある。
「本来、“縁”なるものは人の手でどうこうできるものではない。せいぜい、既存の“縁”を呪術に利用できるくらいのものだ。しかし、彼女――ミキシマ・スズリは、“縁”を作り出すことができるのだ。何かを失ったものとの“縁”を」
「まさか……それで、滅びた世界の使い魔に出会った、っていうのか?」
「そうだ。そして、それだけでなく、なんらかの“喪失”を抱えた“刻印の者”をも引き寄せている。異世界からトワイライトに渡った“刻印の者”がミキシマ・スズリと出会う確率は本来、すこぶる低い。だが、そのうちの一部――“喪失”を抱えた者に関しては、彼女と遭遇する確率が“縁”によって大幅に補正され、運命的な偏りを引き起こしている」
イザはリズィールを思い出した。大仰な仕草と言動の裏に、妙に空虚な気配をにじませたハイエルフ。ああいう手合いが、来るべくして来る“縁”――
「でも……なんでだ? どうして彼女はそんな“縁”を作れる?」
「おまえなら、聞いていないか? 彼女が何か強い“喪失”を抱えていると」
イザはぎくりとなった。その反応が答えだった。シンは強くうなずいた。
「おそらくそれが原因だ。彼女の“喪失”は、刻印に特殊な波長をもたらした。便宜上、“喪失の刻印”とでも呼ぼうか。それが同じく“喪失”を抱えた魂と共鳴、“縁”を生成しているのだ。もっとも、我が使い魔の見立てでは、よほど霊的強度の高い相手でなければ、そもそも共鳴自体が起こらず、“縁”が結ばれないらしいが」
だからこそ、滅びた世界の使い魔の中でも、特に強力な者たちばかりがスズリのもとに集った――ということなのか。
「いや――でも」ふと気づく。「時系列がおかしい。スズリが“喪失”を抱えたのは、あの使い魔たちと出会った後だ」
「因果において、時系列にさほどの意味はない」シンは淡々と告げた。「ミキシマ・スズリは、いつかどこかで“喪失”の“縁”を持つことになる少女だった。それが重要だ。そういう星の下に生まれた、と言えばわかりやすいか。そういうさだめの彼女だからこそ、そういう使い魔と出会った。あるいは、原因となった“喪失”そのものすら、それゆえに発生したものなのかもしれない」
「……無茶苦茶だ」
イザはうめいた。鶏が先か卵が先か――そんなまっとうな因果関係さえ、刻印の力は無視する、とシンは言っているのだ。いつかどこかで“喪失の刻印”を得ることになるスズリだからこそ、“喪失”を抱えた使い魔たちと出会い、また、自身も原因となる“喪失”を得ることになった。正直理解しがたいが、そもそも刻印自体が人知を超えた存在だ。矮小なる人間の常識に当てはめたところで、意味はないのだろう。
イザは吐息した。“矮小なる人間”にすぎない自分としては、気にすべき点はそこではないと思い直して。
「そういうことなら……俺は、引き続き彼女と行動をともにすればいいんだな。そうしたら、こっちから探し出すまでもなく異世界の“刻印の者”が来てくれる」
「いや。その任務は終了だ、イザ」
突然の宣告に、イザの動きが止まった。
「……終了?」惚けたような声が流れる。「終了って……なんで――」
「彼女は放置すべき存在ではない。これからも、滅びた世界の強力な使い魔を手に入れやすいということだからな。加えて敵を引き寄せ、撃破し、アルカナを得て力を増していく――恐るべき“入れ食い”だ。放っておけば、いずれ絶大なる脅威になる」
シンは、まっすぐイザの瞳を見つめた。その覚悟を問うように。
「今のうちに潰さなければ」
その言葉が放たれることは、半ば予期していた。予期していても、息を呑まずにはいられなかった。心臓の鼓動が速まり、胃の腑がきゅっと縮まりそうになる。悪魔に背後から抱きすくめられたような戦慄に耐えながら、イザは弱々しく首を横に振った。
「待ってくれ。彼女はこの世界で生きていきたいだけだ。それでも心配なら、俺が彼女の動向を監視してれば――」
「問題は彼女のドゥクスだ、イザ。“喪失の刻印”の特性に気づいていないはずがない。自らの“刻印の者”を勝利に導くために利用している。おまえのこともだ。いずれ彼女のドゥクスはおまえの存在を邪魔とみなして、排除に乗り出すだろう」
「でも、シン!」
「戦う理由を思い出せ、イザ」
シンの瞳に炎が燈った。見覚えのある炎だった。蹂躙の業火。容赦も呵責もなくすべてを焼き尽くす炎。すべてを灰に帰すもの――
「滅びゆく我らの世界を救うには、異世界のアルカナが必要だ。彼女は必ず障害になる。我らの世界を滅ぼす敵に」
「シン!」
「三日後に彼女を潰す」
シンは告げた。宣告だった。イザは凍った――それは彼にとって絶対の命令であり、もはや覆しえない決定に他ならなかった。
「私がやる」
重ねてシンは宣告した。瞳に燈る炎は、いつしか憐憫の光に変わっていた。
「おまえはもう、彼女を殺せまいからな」
†
ふらつく足で家路に就いた。頭の両側面がぎゅっと締めつけられるようで、脳がジンジンと軋んだ。三蔵法師の命令に意見して、苦痛の罰を受ける孫悟空の気分だった。
現実感がなかった。いつもの繁華街。いつもの通り。行き交う人々、渦巻く喧騒、自動車の唸り――見慣れたはずの風景が、恐ろしいほどの異物感を伴ってきらめく。いや。
(異物は俺だ)
忘れかけていた自覚が襲う。きっと、シンに会ったからだ。うまく溶け込んだように見せながら、決して消えない故郷のにおいをたなびかせる者――炎の使徒――硝煙の父。
視界の隅で何かが踊る。イザはぼんやりとそちらに目をやった。足元。落ちかかる陽に引き伸ばされた影が、滑稽なダンスを刻みながら、どこまでもついてくる。自分自身にすら嘲笑われている気がして、ひどくやるせなかった。
まどろむような足取りで、どうにか家に着いた。安アパート。二階。今回の任務のためにシンから与えられた仮の住まい。そう――仮だ。俺の居場所はここにはない。かといって、本当の住まいなんてものは故郷の世界にすらありはしない。とうに焼き尽くされて。
鍵を閉めることも忘れ、靴を脱ぎ散らかして廊下を進む。「んニャ?」待機させていたケットシーが新聞から顔を上げたが、応える気力はなかった。とにかくすべてを休めたかった。脳と身体と心と自分を。横になりたい。できることならすべてを忘れて。たとえ無理だとわかっていても。
鞄を捨てて、ベッドに飛び込む。安物のクッションですらありがたかった。罪悪感を伴う心地よさに包まれて、深く吐息する。拍子に何かがこぼれた。涙だった。振り切るように目を閉じて、イザは何も考えまいとした。
(戦う理由を思い出せ、イザ)
シンが浮かんだ。まったく容赦のないことに。それだけ彼には重い言葉だった。
(滅びゆく我らの世界を救うには、異世界のアルカナが必要だ。彼女は必ず障害になる。我らの世界を滅ぼす敵に)
シンは焼けた世界に立っていた。自らの生み出した業火によって、すべてを焼き尽くした世界。彼の足元には、見覚えのある人々の塊が転がっている。半ば炭化した屍たちが、倒れたまま口を開いてシンの言葉を繰り返す。
(今のうちに、潰さなければ)(私がやる)(三日後に彼女を潰す)(おまえはもう)(潰す)(彼女を)(私が)(殺せまいからな)(潰す)
止まぬ反響。ぐるぐる回る。歯を喰い縛った。ひどい頭痛。浮かぶ笑顔。彼女のものか。それとも焼かれた人々のものか――
苦痛の渦に焼かれながら、徐々に眠気が脳を籠絡し、意識が混濁していく。きっと悪夢を見るだろう。確信はあったが、起きる気にはなれなかった。構わない。見てやろう。それはきっと俺が見なければならない悪夢なのだろうから――
「起きろニャ」
「がっ」
鋭い痛みが頭部に走る。鉄の針を突き刺されるような衝撃に、イザは悶絶した。眠気が怯んで撤退していく。痛みに満たされた脳に、もはや彼らの居場所はない。
「おまえ――」イザは涙目でベッドから起き上がった「なにすんだよ!」
ベッドの上まで上がってきていたケットシーが、ふんと鼻を鳴らした。「着信ニャ」
ぽい、と何かが放り投げられる。スマートフォン。暗い部屋のなか、画面に通知ウィンドウが踊るのが見えた。イザは思わず手を伸ばし、反射的にパスコードを解除した。
“へるぷ”
ろくに変換をしている暇もないほどの危機的状況を限りなく少ない文字数で伝えようとしたのだろうと思わせる端的なメッセージを目にして。
イザは思わず立ち上がり、毒づいていた。
「あんの野郎……!」
なにが三日後だ――くそったれ!
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