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2017年9月3日(日)

【電撃PS】子どものお願いが頭から離れなくなった高橋慶太氏の思い。電撃PS掲載コラム全文掲載

文:電撃PlayStation

 電撃PSで連載している高橋慶太氏のコラム『電撃ゲームとか通信。』。ゲームデザイナーとしての日常や、ゲーム開発にまつわるエピソードを毎号掲載しています。

『電撃ゲームとか通信。』
『電撃ゲームとか通信。』

高橋慶太氏PROFILE

 バンダイナムコゲームス(現BNE)時代に『塊魂』、『のびのびBOY』を制作。その後『Tenya Wanya Teens』を発表。GoogleのARプロジェクト“Tango”向けに『WOORLD』を開発、現在は『Wattam』を制作中。

 この記事では、電撃PS Vol.644(2017年8月10日発売号)のコラムを全文掲載!

『電撃ゲームとか通信。』

恵まれているし、忘れてしまったこともあることは思い出し、思い返していきたい

 どうも。ひとり家で作業している時に、笹の代用であるヤシの木につけてる6歳になる息子の“おりがみをじょうずになりますように”というお願いが目に入っては、こういう気持ちを年老いても忘れずにいたいなあと思う42歳の高橋です。

 そして困った事にこの“お願い”の事が頭から離れません。ということで、最終的には子供は純粋でいいねって話になるかも知れないけど、そうはならないようにこの件について掘り下げてみようと思います。

 以前のコラムでも“慣れる”ことの良い点と悪い点について多分書いたはず。ただ“慣れる”という言葉は少々遠まわしの表現でもあるからいまいち分かりにくかったかもしれません。

 別の言葉を使ってもう少し直球で表現してみると“学び”と言えるはず。学習能力は生きて行く上でとても重要な能力の1つ。我々人類は学習することで以前は出来なかったことも出来るようになるし、知らなかった事も知るようになり、それをベースに自分なりの考えを広げることも可能。

 それを大げさに言うならば“どんな事をも実現出来る可能性が増す”です。どんな些細な望みであろうと、誰もが出来っこない夢のようなものだとしても、勉強することでそれを成し遂げる可能性が増すでしょ、と自分は思っています。

 実は学ぶこと以上に困難なのは“継続する”ことなんだけど、それは好きになってしまえばまったく苦ではない。自分は“絵を描くこと/何かをつくること”を小さい時から好きになることができて本当にラッキーだったと思います。

 ただ今になってようやく後悔している事は、小さい時にもっと勉強していれば今出来る事の選択肢がもっと多かったかもなあ、ということ。

 もっといろんなことに興味をもって勉強していればよかったなあ。いわゆる数学とか国語などの学校の勉強は嫌いではなかったけど、もっと幅広く貪欲に学んでいたら、今の自分はどんなことをしていただろうかと思うわけです。

 “もし・・”やら“・・・だったら”なんて下らない話には興味ないけど、大学時代にもしも英語が少しでもしゃべれていたら、つくった習作をゴミコンテナにすてるような奴がいる彫刻科なんて辞めて青年海外協力隊とかに参加してたかもなあ、とか思うこともあったりなかったり(実際ちょっと調べたこともあった)。

 なんて自分のことは置いといて“学び”の話に戻ります。と、ここまで散々学ぶという言葉を使ってきたけど、自分が言いたいことはそんな大げさなものではないです。なので、ここで一旦6歳の息子のお願いごとに戻って整理整理。

 子供素晴らしい論を唱えるつもりはないけど、自分が思う子供がすごいと思うところは、同時に絶対に子供に戻りたくない理由でもあります。それは「真っ新」であるということ。

 彼ら彼女らにとってはすべてが新しい。これが子供のすごいとこ。しかも真っ新で何も知らないことを恥ずかしいなんて思わず、どんな小さいものであろうとも(正確に言うと比較なんてできないから物事に大小なんて評価軸はないんだけど)興味を持って、なんで?なんで?と聞いてくるところも立派。

 まあ大人にとっては毎度質問されるのは邪魔くさいし、今さら子供に戻って再度ゼロからすべてを学び直すなんて無理(今の知識が残ってるならいいけど)。

 そしてもう1つ素晴らしいところは、なんでも喜べるところ。もうね、動物の形の消しゴムが大好きだったり、おいかけっこするだけでスゲー楽しそうだったり。アイスクリームを食べることが世界で1番幸せな事なんだもん。

 大人と子供の“喜びの沸点”の違いは、経験値の差から来ているわけで、子供の低い沸点も成長していく途中でいろいろ経験していくことで、残念ながら多くの場合その沸点が上がっていきます。

 そして、追い討ちをかけるように、経済的に恵まれてる国に住んでいる自分達にとって“当たり前ライン”の水準が高いのです。公衆トイレ、公園、電車、バス、レストランなどなど全部あって当たり前な存在のレベルを計るための“当たり前ライン”。

 そういう恵まれた環境で生活していることと“おりがみをじょうずになりますように”という沸点の低いお願い事、そして自分がビデオゲームをつくって生活していること、これらが上手い具合に思考の歯車と歯車の間にピタッとはいりこみ、思考の回転を止めてしまったという訳。

 大きな括りで言うと今や“ゲーム”もその“当たり前ライン”の中に入ってる。アメリカの“ゲームはあって当たり前”感は日本以上。だけどそれは恵まれてるところで生活しているからであって、“当たり前ライン”の水準が低いところだってある。

 自分は多くの人に楽しんでもらえるものをつくれるかも、との思いでゲーム業界を選んだんだけど、経済的理由で遊べないという人も多くいます。しかしながら、そのことに目を向けている業界関係者がどれだけいるのか分からないし、解決できる問題であるのかも分からない。

 残念ながら、それはゲームで遊べる遊べない事以上にもっと普遍的で大きな問題なんですよね。そういう問題から日常的に目を逸らしていることを認識しながら日々作業をしている毎日、不意に6歳の子の“おりがみをじょうずになりますように”というお願いがグイーンとすごく遠回りしてグサっと胸に突き刺さるわけです。

 グサッと刺さったついでにサクッとまとめると、いまだに迷いながらゲームつくってるよ、ということ。いやー今回は自分の思いを適切に表現出来ている気が全くしないですな。まいったなあ。

  あ、そういえばEVO2017の『ストリートファイターV』の決勝トーナメントは最高でしたね。eスポーツの意味がわからなかったけど、あれをみるとちょっと納得。

 自分も小さい時に格闘ゲームにはまる/勉強していたらEVOにでてたかも、、なんて最悪のたらればオチで今回はおしまい。

(C) Keita Takahashi

データ

▼『電撃PlayStaton Vol.645』
■プロデュース:アスキー・メディアワークス
■発行:株式会社KADOKAWA
■発売日:2017年8月24日
■定価:694円+税
 
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