電撃オンライン

『スパロボ』30周年を寺田貴信氏が振り返る。継続できたのはファンのおかげ【スパロボ30周年記念連載:3】

まさん
公開日時
最終更新

 今年で生誕30周年を迎え、今もなお新たな展開を続けているバンダイナムコエンターテインメントの人気タイトル『スーパーロボット大戦(スパロボ)』シリーズ。シリーズの生誕30周年を記念する特別インタビューのトリを飾るのはやはりこの人! シリーズを長年支え続けた寺田貴信さんです!

 先日配信された“生スパロボチャンネル”でフリーになったことを発表し、Twitter(@TakanobuTerada)を始めるなどファンを驚かせた寺田さん。寺田大将軍時代の話から今だからこそ話せる裏話から、シリーズ存続の危機を乗り越えたエピソードまで、さまざまな作品の思い出を前後編でお届けします。

  • ▲『スーパーロボット大戦』シリーズスーパーバイザーの寺田貴信さん。インタビューに伺った時点ではシリーズプロデューサーとして、数々の疑問に答えてくれました。

関連記事

なんでもやっていたバンプレストと寺田大将軍時代の思い出

──まずは、あらためて寺田さんがバンプレストへ入社した経緯から、『スーパーロボット大戦(スパロボ)』シリーズに携わるようになった流れを含め、ご自身の経歴と思い出深いエピソードを教えてください。

寺田さん:そもそも、最初はバンダイのホビー事業部(現:BANDAI SPIRITSホビーディビジョン)さんで、プラモデルの仕事をしたかったんですよ。それが本命だったのでバンダイさんを受けたのですが、最初の面接で「君は図面を引けるのですか?」と聞かれ、「いえ、私は文系出身です」と答えて、そのままあえなく落ちまして……。

 ゲーム業界にも興味があったので受けたのですが、私が就職した当時は大手に1万人くらい新卒が殺到したというニュースもあって、ゲーム業界がすごく注目されていました。まだまだ家庭用よりも業務用のほうがスペックも圧倒的に上の時代で、プレイステーションも出ていなかった時代でした。

 ゲームメーカーのほうはいくらでも人が来るので、東京でゲームメーカーの入社試験や面接を受けても人が多すぎるので大阪に回され、そちらを受けることになるくらいの大人気。当時、文系の学生が開発に携わりたいと希望を出しても「営業なら」と言われるくらいの勢いでした。私も営業職では内定をもらっていたのですが、企画職ではことごとく落とされました。

 でも、どうしてもゲームの開発をしたかったので、小さな会社なら企画を見てくれるかもしれないと考え方を変えて、超有名メーカーではなく中堅や小規模のパブリッシャーを受けました。そこで私の企画書を見てくれたのが、当時のバンプレストさんですね。

 バンプレストさんはバンダイの子会社だったのですが、バンダイグループには業種をバッティングさせないというルールがあったので、アミューズメントセンターの機械やプライズのぬいぐるみの開発といった事業をメインにしていました。ただ、バンダイさんと交渉をした結果、バンプレストさんからも家庭用のゲームソフトを出せるようになったんです。

 とはいえ、『ガンダム』や『ウルトラマン』、『仮面ライダー』を単体で扱ったゲームを出してしまうと、バンダイさんとバッティングしてしまいます。そうしたルールがあったので、俗に“コンパチヒーロー”と呼ばれるリアル等身ではないSDのタイトル……我々は『キャラクター混載』と呼んでいたのですが、今でいうコラボレーション作品を作っていました。そうやって家庭用ゲームソフトを作り始めてから2年か3年経ったころ、バンプレストさんがゲームの企画に携わる人間を募集していたんですよ。

 当時、親には「自分のやりたいことをやるためにゲームの会社に入る!」と話していたのですが、親はバンプレストさんを知りませんでした。「バンダイの子会社だから大丈夫だよ」と説得して入ったのですが、当時は家庭用ゲーム業界だとまだ知名度が低かったですね。親会社のバンダイさんには人がすごく集まっていたのですが、バンプレストさんのコンシューマー事業部を受けたのは少なかったのではないかと思います。入ってみると当時は社員が10人ほどしかいなくて、その人数で年間20~30タイトルくらいを回していたのも覚えています。

──そこから、どのような流れで『スパロボ』に関わることになったのでしょうか?

寺田さん:私自身も「研修を受けてから2年か3年くらいは下積みだろう。よし、頑張るか!」くらいに思っていたのですが……。このタイトル数と人数で下積みをしている余裕はなさそうだと思っていたら、いきなり「ちょっと来て」と部長さんに呼ばれ、目の前に『ガンダム』や『仮面ライダー』の本を出されました。

 「ここに載っているキャラの名前を言え」と聞かれ、正解したら、数日後に「スパロボのゲームボーイ移植作を担当してくれ」と言われました。でも、当時の私は特撮のゲームをやりたくて、企画書も作っていたんですよ。『スパロボ』は作っているところを横で見ていて大変そうだったので、やるつもりはありませんでした。逆に言うとバンプレストさんには『スパロボ』があるのだから、別の特撮ゲームを作ろうと思っていたんです。

──ちなみに、どのような形の特撮系ゲームを考えておられたのでしょうか??

寺田さん:私の担当作ではありませんが、後に出た『スーパー特撮大戦2001』みたいな感じですね。低年齢層をターゲットに絞ったゲームをやっていても頭打ちになるし、親会社のバンダイさんは一般向けやライトユーザー向けの路線を狙うじゃないですか。そこで、『スパロボ』のように高年齢層を主に狙った特撮ゲームを作りたかったんですよ。

 結局、特撮のゲームを作ることはできなかったのですが、部長さんから「これから『スパロボ』シリーズを新たに展開するのでやってくれ」と言われた後も、ほかのタイトルをいくつか担当していました。『ザ・グレイトバトル』シリーズのお手伝いも少ししていましたね。

 当時は今と比べると市場の規模も開発の規模も小さいのですが、とにかくバンプレストさんのコンシューマー事業部には人がいませんでした。営業は専門のスタッフがいたのですが、受注の資料を作り、全国の玩具問屋さんへ発送するのも自分達でやっていました。今のようにダウンロード販売がなかったので、大変でしたね。

 そんな時代だったので、月末になると問屋さんへ数十個のサンプルロムを送るんですよ。さすがに1人ではできませんから、月に一回、企画部全員が手作業でやっていました。私が入社する前に広報の担当者を1人雇ったくらいで、営業活動以外は資料作りやPVも全部自分で作っていましたし、取扱説明書の原稿も書いていました。本当に、なんでもやっていましたね。

──それはすごい! 本当に幅広くやられていたのですね。

寺田さん:権利元さんとの交渉もやっていました。みんな、同時に4本ぐらい並行して開発を進めていたので、自分の新作が毎月出るような状態もありました。

──そんな寺田さんですが、ちょうどそのぐらいのころに放送していたTV番組『ゲーム王国』にも、“寺田大将軍”という名前で出演されていましたよね?

寺田さん:はい、覚えていますよ。後輩で『スーパーロボット大戦 IMPACT(インパクト)』を担当した森住惣一郎さんも出演していました。TV出演は、新人が1年目の仕事としてやっていたんですよ。休日を1日潰しての収録だったからですかね。

 東京に出てきたばかりで、テレビ出演は初めてでした。番組制作会社のプロデューサーさんに「寺ちゃん、ザギンかギロッポンに行く?」と言われ、「ザギンってモビルスーツ、ギロッポンって怪獣の名前みたいだな」と思ったくらいで。1年くらい出演していましたが、そのおかげでユーザーさんからは開発ではなく、広報の人だと思われていました。

 でも、あの頃、ゲーム関連のTVや雑誌に出ていたバンダイさんの人達は、開発担当が多かったですね。当時、『ドラゴンボール』のゲームを担当されていたドラゴン鈴木さんにはいろいろとお世話になったのですが、あの方はすごく人気がありましたね。

──自分もなんとなく覚えています。コスプレをして雑誌に載っているので、タレントみたいな感覚で見ていました。

寺田さん:バンダイの担当者さん達はだいたいコスプレをされていて、「寺田君もやったほうがいいよ」と言われてたんですが、スパロボという作品の性質上、特定のキャラクターのコスプレをやるわけにはいかなかったんです。

──コスプレをしないことが理由で注意されてしまうというのは、なかなかおもしろいエピソードですね。

寺田さん:みなさん、本気でコスプレをして、イベントのステージにも上がられていたのですごいなと思っていました。当時の他のメーカーの広報担当者さん達とも仲良くなって、『ゲーム王国』はいろいろと勉強になりました。じつは、夏に行った“スーパーロボット大戦 鋼の超感謝祭2021”で使用していたスタジオは、当時『ゲーム王国』を収録していたスタジオと同じだったんですよ。だから、本当に懐かしかったです。30年近く経って、同じ場所に立つとは思ってませんでした。

本当は『第4次』で終わる予定だった『スパロボ』シリーズ

──そうした多忙な状況のなか、ついに寺田さんが『スパロボ』に関わることになるわけですが、ここまで長く続くシリーズになると当時から思っていたのでしょうか。

寺田さん:いいえ。当時は『第4次スーパーロボット大戦』でシリーズは終わる予定だったんです。私も「次は自分の好きな特撮のゲームを作ろう」と、そのつもりで動いていました。でも、結局そのまま『スパロボ』をやることになったんです。

 それはなぜかと言うと、『第4次』の結果が良かったので、会社がシリーズを続行しようと決めたからです。で、今に至っています。

 ちなみに、世には出ていないのですが、会社に入ってから『銀河鉄道999』のアクションRPGの企画書も書きました。見下ろし型の画面で鉄郎が戦うRPGを考えていて、かなり真面目に構想していたのですが、企画が通りませんでしたね。

 『スパロボ』は『第4次』で終わり、次からは『魔装機神』シリーズでオリジナル路線に行こうとしていたんです。つまり、『スパロボOG』のような構想はこの頃からあったわけです。当時、メインの開発スタッフは『魔装機神』を作っていたので、私と若手スタッフが中心になって、『新スーパーロボット大戦』を開発することになりました。いろいろと反省点が多い作品なんですが、ストーリーを一新してキャラクターやメカのカットインを多めに入れるなど、細かいところでチャレンジしていました。

──言われてみると、ルート分岐も斬新でしたよね。宇宙と地上にきっぱり分かれて、最後まで合流しませんでした。

寺田さん:私は反対していたんですけど、ユーザーさんからは不評でしたね。

──『新』はシナリオ上だと合流せず、地上と宇宙の両ルートをクリアした後の隠しシナリオで合流する形でしたね。

寺田さん:それは私からお願いしたことだと記憶しています。『新』自体は売れて、初めて50万本を超えたタイトルだったのですが、ユーザーさんから不満点をいくつかいただいていて、そこを改善しようと『新スーパーロボット大戦2』を企画していたんですが、当時『新世紀エヴァンゲリオン』が大ヒットしたこともあり、会社からセガサターンでもう1本『スパロボ』を作ってくれと言われました。指定された発売予定時期までの時間がなかったので、当時進めていた『魔装機神2』と『新2』の開発を中止したのですが、それでも間に合わないので『第4次』をベースにした物にし、参戦作品を追加しようということになったのです。

 開発当初は『第4次スーパーロボット大戦プラス』という名前で、『伝説巨神イデオン』や『トップをねらえ!』を参戦させ、『スパロボ』を完結させようということなったんですが、話をかなり作りかえなければならないということになり、『第4次』とは違う部分も多いということで、タイトルを『スーパーロボット大戦F』にしました。この時点で、後々のシリーズ展開は決まっていなかったので、「完結」という意味で「F(Final)」と付けました。開発当初からかなり厳しいスケジュールで進めていたこともあり、結果的に『F』と『F完結編』という二分割でリリースすることになってしまって、ユーザーさん達から叱られたんですが、その裏で会社から「新シリーズをやってくれ」という話が来ました。それが、『スーパーロボット大戦α』ですね。

一時期は開発中止の危機にあった『スーパーロボット大戦α』

──それは、知りませんでした。すでに『F完結編』の開発途中から、『α』にも取り掛かられていたんでしょうか。

寺田さん:いいえ。『F完結編』の開発が終わってからですね。あの頃は、半分作るともう次のことを考えなさいと言われてはいたのですが、『F』と『α』は開発チームが違います。『α』は、社内でラインを立ち上げて1から作ったタイトルだったのですが、メチャメチャ時間がかかりました。『F』でやらなかったことをやろうという目的で作りましたし、「地獄の底の蓋を開けた」作品でもありました。

──自分もファンとして楽しんだのですが、当時としてもかなりの進化を感じるアニメーションで驚きました。

寺田さん:あのアニメーションは、『F』や『魔装機神』の開発チームだと出来なかったわけじゃないんですよ。作業量が膨大になるので、やらなかっただけなんです。1年に1本どころか、2本のペースでリリースする場合もありましたから。ただ、後発になる『α』の開発チームは、前シリーズから進歩を遂げるためにもそこに手を付けようということになりました。

 案の定、開発が遅れに遅れて、会社からも「開発を中止しなさい」と言われるくらいまで追い詰められていました。ただ、当時のスタッフの士気は高く、何とか形になりそうだったので、このまま終わりたくないと思っていました。しかし、会社側としては予算の問題などもあって、見通しが立たない開発を続けさせるわけにはいかない。そこで、当時のバンプレストの社長さんから「東京ゲームショウ(TGS)でユーザーさんの反応が良かったら、開発を継続する。反応が良くなければ、開発中止を検討する」と言われました。私一人が社長さんに呼び出されて、それを通達されたのを覚えていますね。

 ということで、TGSのユーザーさんの反応に『スパロボ』の未来が託されたわけですが、バンダイグループのブースが会場入口のすぐ近くにあったんですよ。つまり、入場者が足を止めて見てくれる可能性が高い。さらにバンダイさんにも話題作が多かったので、「運がいい、これはいける」と思いました。で、結果的にバンダイグループのブースは盛況で、『α』の反応も上々でした。社長さんがビジネスデーだけでなく、一般公開日にもわざわざ様子を見に来て下さって、『α』の開発続行が決まりました。「これはもうやるしかないな」と言われたことを覚えています。ファンの皆さんに『スパロボ』が救われたわけです。あの時の『α』の人だかりの光景は脳裏に焼き付いていて、私自身の仕事の原動力の一つになっています。

──自分も『α』の戦闘シーンを公開したPVはかじりつくように見ていましたし、当時、すごく感動した覚えがあります。

寺田さん:じつは、ゲーム情報誌に初報を出した時点で、ロボットの戦闘シーンはまともに動いてなかったんですよ。あれはダミーの画像だったんです。

──ジャイアントロボが全力パンチしているシーンや、グルンガスト弐式が載っていた初報ですよね?

寺田さん:そうです。できていた絵を切り貼りして作ったので、今見ると製品版と結構違います。TGSでのユーザーさんの反応のおかげで『α』の開発続行が決まったのですが、本当に大変だったのはそこからで、メインスタッフは24時間体制で作っていましたね。

 私も数ヶ月家に帰っていませんでしたし、会社が借りてくれた近くのマンションで寝泊まりしていました。ずっと会社にいると気が滅入るので、わざわざ近くの銭湯までみんなで行ったりとか。休みを取らざるを得ないスタッフが出てきて、「必ず戻ってくるので、自分の担当の戦闘アニメーションをやり遂げさせてください」と言われたりとか。今はあの時のような開発スタイルではありませんが、締切に追われてハードな毎日でありながらも、みんな頑張ってましたね。そんなこんなで『α』がなんとか回りだしたんです。『スパロボ』は、いつも物量との戦いです。あの頃は、私もまだ30前後で若かったのですが、開発チームもみんな若かった。ゲームハードも今ほど性能が高いわけでなく、勢いでなんとかできた時代でした。

──すごまじいエピソードですね。『α』はPS版だけではなく、その後に3Dモデリングで作られた『スーパーロボット大戦α Dreamcast(DC版α)』も出ていました。もしかして、あれも同時進行で作っていたのですか?

寺田さん:いいえ。私はPS版の『α』にかかりっきりだったので、『DC版α』はまったく別の開発チームが作っています。PS版の遅れに、DC版の遅れも被さってくるので大変でした。DC版は3Dモデルを使用した戦闘アニメーションだったので、ロボットのモーションをスタッフに説明する際、私がガンダムのビーム・ライフル発射時や、ストナーサンシャイン発射時の動きを実際にやって見せたりとかしてましたね(笑)。

 そんな中、『スーパーロボット大戦α外伝』の開発が決定したので、一時期は『PS版α』、『DC版α』、『α外伝』の3本同時進行で大変でした。

『スパロボ』史上最短&開発効率のよさで完成した『α外伝』

──『α外伝』は、オリジナル主人公が設定されていないタイトルでしたね。あれにも何か理由があったのでしょうか。

寺田さん:『α』の売れ行きは良かったんですが、度重なる遅延で開発費がかさみ、利益が出なかったため、会社から「年度内にもう1本作ってくれ」と言われました。そうして開発が始まった『α外伝』ですが、開発期間は10カ月ぐらいなので、いつものようなシナリオ作成時間がない。なので、ストーリーは『α』の続きにして、全体のボリュームを鑑みた上で主人公8人分のシナリオをオミットせざるを得ませんでした。また、外伝なのでストーリーの雰囲気を『α』と変えようということで、未来世界を舞台とする参戦作品をいくつか出しました。

 あのボリュームであの開発期間は『スパロボ』史上でも最短ですね。その後、偉い人達から「なぜ、あれぐらいの効率のよさで作れないんだ」とよく言われましたが、ストーリーは『α』からの直結ですし、すぐさま『α外伝』の開発へ移行したからだと思います。システムも戦闘アニメーションも次に何をやるべきかは、『α』の開発終盤で見定められましたし。

 それでも作れたのは初代PSの作業量だったからですね。現行ハードで、あの時と同じ制作期間で作ってと言われたら絶対に無理です。『α』と『α外伝』はスタッフも同じだったので完成した、本当に奇跡の1本でした。

──アニメーションも短い期間とは思えないくらい動きますし、ストーリーもまとまっていて開発期間の短さを感じさせない作りでした。

寺田さん:ストーリーは、一晩ぐらいでプロットを考えました。そこからとにかく書いたのですが、間に合わなくて終盤のルートをいくつか削りましたね。

──そこからの『第2次スーパーロボット大戦α』や『第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ』は、当初の予定通りに制作できたのでしょうか。

寺田さん:う~ん。予定通りではなかったですね。『第2次α』は戦闘アニメーションを一新して、小隊システムも初採用したので大変でした。『第3次α』は、それを受け継ぎながらも『α』シリーズのラストなので、ボリュームがものすごいことになりましたし。

 当初の『α』シリーズは3本の予定だったんですよ。『α外伝』は予定外だったので、その分まとめるのも大変でした。『α』シリーズの構想は、初期に『第2次α』でコレをやる。『第3次α』でコレをやる……というところまで決めていたのですが、『α』の時点では当然のことながら知らなかった『機動戦士ガンダムSEED』の大ヒットもあり、それを『第3次α』に参戦させようということになりました。『第3次α』のストーリーは舞台が銀河へといってしまうので、地球で話が展開する『ガンダムSEED』をどうしよう……と悩み、クロスゲートという空間を繋ぐガジェットを考え出しました。

 『第2次α』までは、自分たちで参戦作品を決めていましたが、『第3次α』の辺りから、参戦作品に関して他からの要望を取り入れるようになりましたね。自分たちだけで全て決めてしまうと偏りが出がちですから、結果的にはその方がよかったのではないかと思います。

──当時の携帯機・ワンダースワンで展開していた『スーパーロボット大戦COMPACT(コンパクト)』シリーズの参戦作品は、80年代のロボットアニメが参戦していて、据え置き型の『α』シリーズとも毛色が違っていました。あちらの参戦作品については、寺田さんたちが決められていたのでしょうか。

寺田さん:『コンパクト』シリーズは家庭用の据え置き型『スパロボ』と違い、担当者の考えがより反映されたラインナップになっていますね。それは家庭用『スパロボ』との差別化を図るためでもあります。

──そうだったんですね。『スーパーロボット大戦COMPACT3(コンパクト3)』の参戦作品に関しては、驚かされました。

寺田さん:『コンパクト3』は短い期間で作ることになったので、その代わり好きに参戦作品を決めてもいいと言われました。なので、“参戦作品決定会議が『スパロボ』史上で一番盛り上がった”作品でもあります。開発期間の短さは、『スパロボ』史上でも屈指ですね。『α外伝』より短かったです。

──なるほど。少し変わったシチュエーションの『スパロボ』としては、『α』と近い時期の作品で『スーパーロボット大戦64』がありましたよね。今なら、お話できる裏話を教えてください。

寺田さん:『64』は、シナリオライターさんの意向もあって、シビアでハードな話にしています。それまでの『スパロボ』は割と熱血寄りの作品だったのですが、ハードな路線もやってみようということで作ったんです。

 後、背景が疑似3Dっぽい形になっているんですよ。『第2次スーパーロボット大戦OG』などでは背景のカメラアングルが色々と変化するようになっているんですが、そのアイデア自体の元となった作品です。『64』の時点だとロボット自体は2Dで拡縮しかしないのですが、戦闘画面の大部分を占める背景をなんとかしたいと思っていたので、後々の『第2次OG』でそれを実現しました。

──戦闘演出の変化で印象深いものとしては、『スーパーロボット大戦GC』などの3D系スパロボで、機体が出てきた時に角度が変わるのを覚えています。

寺田さん:2Dの『スパロボ』と並行して3D系の『スパロボ』もいくつか作りましたが、結果的に「スパロボの戦闘アニメーションは2D」という印象があまりにも強すぎて、当時は3Dの『スパロボ』にさほどニーズがありませんでした。とはいえ、スマホアプリの『スーパーロボット大戦X‐Ω』もありましたので、3Dの『スパロボ』をやらないというわけではありません。

──3Dの『スパロボ』と言えば、個人的には『スーパーロボット大戦Scramble Commander(スクコマ)』が大好きなんですよ! あれはどうして続かなかったのですか?

寺田さん:『スクコマ』は、バンダイさんが出していた『ジオニックフロント 機動戦士ガンダム0079』と同じジャンルのリアルタイムストラテジー(RTS)でした。当時は『スパロボ』というシリーズの中でいろいろとやっていこうという方針だったんです。そこで、プレイヤーが指揮官でロボットが戦っているのをオートで見ているのもおもしろいんじゃないかと思って作ったのが『スクコマ』です。

 ロボットが完全に自動で動くわけではないのですが、『スパロボDD』や『スパロボ30』で採用したオートプレイの走りに近い形として作ってみました。ただ、ユーザーさんからは「見ているだけだとつまらない」という意見をいただきましたね。

──そんな……。RTSの『スクコマ』はとてもおもしろかったのに……。でも、今ならジャンルとしても浸透しているので受け入れられそうですよね。とくに『スクランブルコマンダー The 2nd(スクコマ2nd)』は、シナリオ面でもかなりおもしろい『スパロボ』だったと思います。

寺田さん:今思うと「ちょっと早かったかな?」という感想はありますね。ただ、結局『スクコマ2nd』以降でRTSの路線が続かなかったのは、当時のユーザーさんたちのニーズが従来の『スパロボ』だったということだと受け止めています。

 『ガンダム』のゲームは、「『ガンダム』のゲームならコレ」という固定観念がないんですよ。たとえば『SDガンダム Gジェネレーション』シリーズもあれば、『ギレンの野望』シリーズだってありますし、『ガンダム』のゲームは多彩なんです。そこはやっぱり、バンダイナムコエンターテインメントさんが多角的に続けてこられた結果だと思います。

 『スパロボ』は、開発チームの数が少なかったのでそこまで多角的にやれなかったという経緯もありますし、複数の版権を同時に扱う作品なので、すべての版元さんのご了承を得る必要があります。なので、『ガンダム』のゲームのように多角的な展開は難しいですね。

 そういった理由で、システムを変えたスピンオフではなく、『スパロボ』のシステムを使ったスピンオフにすればいいのでは……と考えて作ったのが『スーパーロボット大戦ORIGINAL GENERATION』です。


 というところで寺田さんへのインタビュー前編はここまで。貴重なお話をたくさんお聞かせいただきましたが、後日公開の後編は『OG』の話の続きから始まり、『スパロボ』の歴史を彩ってきた様々な作品のお話を引き続き伺っていきますのでお楽しみに!

関連記事

(C)GAINAX・カラー/EVA製作委員会
(C)GAINAX・カラー/Project Eva.
(C)創通・サンライズ
(C)ダイナミック企画
(C)東映
(C)東北新社
(C)BANDAIVISUAL・FlyingDog・GAINAX
(C)光プロ/東芝エンタテイメント/アトランティス
(C)ビックウエスト
(C)PRODUCTION REED 1985

(C)国際映画社
(C)創通・サンライズ
(C)ダイナミック企画
(C)東映
(C)東北新社
(C)ビックウエスト
(C)PRODUCTION REED 1985

(C)国際映画社・つぼたしげお
(C)サンライズ
(C)創通・サンライズ
(C)ダイナミック企画
(C)東映
(C)ワコープロ

本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります

関連する記事一覧はこちら