名医・華佗誕生の瞬間とは!? 【三国志 英傑群像出張版#11-1】
- 文
- 電撃オンライン
- 公開日時
三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
今回から魏呉蜀の三国以外の人物にスポットを当てて民間伝承を紹介していきたいと思います。
まずは「神医」華佗(かだ)のお話から。
華佗は三国時代の医師。三国志演義では関羽の手術したり、曹操の頭痛をみたり、周泰を治したりして各国で大活躍でした。
麻酔を最初に発明したとされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なったといわれています。
華佗の民間伝承は非常に多いです。日本でも知られれている話がお送りあります。やはり民衆に近い存在だったからかもしれませんね。
許昌市の華佗の墓に行ったことがあります。なんと殺害されて故郷に船で輸送中。途中で降ろされて埋められたそう。なんだか扱いひどいなあと思ったことを思い出しました。
華佗の人生、あまり知られていないお話を中心に紹介したいと思います。
名医・華佗誕生!
華佗は安徽省亳県北部の小華庄出身で。父は教師、母は家で蚕を飼い、布を織っていたので、何とか生活できていた。
華佗はまだ7歳だった。ある日、華佗は父親に連れられて市内の武術の大会を見学していたが、家に帰ると父親が突然腹痛で重病になり、亡くなってしまった。
母子は打ちひしがれ、なんとか埋葬することはできたが、一家は貧しく生活していくことができなかった。
母親は華佗を呼び寄せ、「あなたのお父さんは死んでしまったし、私には布を織るお金もない、これからどうやって二人で生きていけばいいの」と嘆いた。
華佗は考えて「お母さん心配しないで。街の蔡医師はお父さんの親友だから、弟子にしてもらい、技術を身につけて、人を治しお母さんを支えたりできるようにします」と言った。これを聞いた彼女は喜び、さっそく彼を蔡医師の元へ送った。
華佗は蔡医師を見つけ、事情を説明した。蔡医師は半日ほど目をぱちくりさせて、何も言わずに考え込んだ。
疑問第一:華佗が幼くて何の仕事もできないのではないか。
疑問第二:華佗が器用か不器用かもわからないし、愚かな弟子を引き受ければ、技を身につけられず評判を落とすことになるのではないか。
蔡医師が何も言わないのを見て、華佗は不安になり、「蔡おじさん、私を受け入れてくれますか?」と聞いた。
蔡医師は再び目をぱちくりさせながら、考えた。“華佗の父と私が仲の良い間柄であることは、街の誰もが知っていることだ。放ってはおけない。”と。決意した彼は華佗にその資格があるか試してみることにした。
中庭で桑の葉を摘んでいる弟子たちを見たが、一番高い枝は手が届かず皆、登ることができなかった。そして、華佗に言った。「華佗、薬学を学ぶと言うのは簡単だが、まず一番高い枝から桑の葉を摘む方法を考えてくれないか?」
蔡医師が自分を試していることを知った華佗は、「それは簡単なことです。」と言うとすぐに縄をとって石を結び、一投で縄を枝の上に投げて枝を砕き、桑の葉を摘み取ったのである。
蔡医師は喜んだが、ふと見ると2匹の羊が喧嘩をしていて、どちらも引き離すことができないようだ。「華佗よ。あの2匹の羊を引き離せるか?」と言った。
華佗は「できます!」と言って両手で新鮮な葉をつかみ、羊たちの両脇に置いた。お腹を空かせた羊たちは、周りの生葉を見ると、それを食べるために散っていた。
「何と賢い子なんだ!」蔡医師は嬉しそうに叫ぶと、華佗の肩を叩いて、「お前を弟子にしてやろう!」と言い放った。
華佗は蔡医師の弟子となり、雑用や薬草摘みなどを熱心に行い、師匠は彼を認めた。
ある日、蔡医師が華佗を呼んで、「君は1年間学んできて、薬草もたくさん知っているし、薬効もある程度知っているから、兄弟子から薬の作り方を習ったらどうだ?」と言った。
もちろん、華佗は喜んで、薬の作り方を習い始めたが、兄弟子たちは幼い華佗をいじめて、天秤には決して触れさせなかった。
華佗は考えた。もしこのことを師匠に話して兄弟子を責めたら、必ず不和が生じるだろう。しかし、師匠に言わずにどうやって医学を把握することができるだろう? と。
華佗は蔡医師の表に書いてある薬の量を見ながら、その都度、兄が量った薬を手で量り重さを感じた。
ある時、蔡医師が薬を患者に飲ませようと来た時、華佗が裁定尺を使わず、ただ握って包んでいるのを見て、怒って華佗を「何してるんだ? 薬の量を間違えると死ぬこともあるのだぞ」と叱った。華佗は微笑みながら言った。「師匠、間違いはないですよ、信じてください、重さを測ってください」
蔡医師は、華佗が詰めた薬を一回分ずつ計量して、処方した量と全く同じだった。さらに数回分を量ってみても、やはり同じだった。
驚いてその後、何度も聞いた結果、華佗が苦心の末に習得したことがわかり、「私の薬を受け継ぐことができるのは華佗だ!」と大喜びで言った。それからは、蔡医師は華佗の教育に専念するようになった。
あるとき、未亡人の李さんの息子が渦川で溺死した。未亡人が蔡医師に会いに来た時、子供の目は閉じられ、お腹が膨らんでいるのを見て、蔡医師はため息をつき、「この子はもう無理だ」と言った。未亡人は心の底から泣いた。
華佗がやってきて脈を感じ、師匠に「この子はまだ助かります!」と囁いた。
蔡医師は信じなかった。華佗は人に頼んで水牛を連れてきてもらい、子供を水牛の背中に乗せて体の水を吐きださせた。
そして、子供の腹部に自分の脚を押し付け、子供の手を持ち上げてゆっくりと上下に動かした。約15分後、子どもは次第に息を吐き出すようになり彼は目を見開く。
そして、華佗はその子に別の治療薬を与えると、その子はなんと回復したのだった。華佗が死者を蘇らせたという話は、風のように急速に広まった。
蔡医師が恥ずかしそうに華佗に言った。「君はもう私より優れている、もう君に教えることはない、医師としてあゆみなさい」と。
その後、彼は外に出て勉強し、腕のいい医者を訪ねては、民間療法の処方を学び、医学の理論を探求した。
1本の針で2人の命を救う
ある時、華佗は診療の移動中、目の前で弔いの音楽と泣き声を聞いた。そこは葬儀の列であった。あっという間に、葬列は終わりを告げた。
華佗は運んでいる棺桶の隙間から血が滲み出ているのをみた。その血はまだ新しいものであった。華佗は、棺桶の中のまだ人は死んでいないと思った。
そこで、彼は家族に詳しい話を聞いてみた。その結果、亡くなったのは若い女性で、出産時に出血多量で亡くなったことが判明した。
華佗は弔問客に「これは偽装死と呼ばれるもので、もしあなた方が同意すれば、私は彼女を生き返らせることができます」と言った。
華佗が棺を開けさせると、医療鞄から銀の針を取り出し、女性のツボのひとつに突き刺した。しばらくすると、女性の体がわずかに動き、次第に呼吸を始め、やがて目を開けて目を覚ました。
その後、華佗の治療の甲斐あって、赤ちゃんも生きて無事に生まれてきた。これは、1本の針で2人の命を救った奇跡のお話である。
華佗は羊を救う
曹操は頭痛に悩まされ、発作が起きるたびに心が乱れ、目の前が真っ暗になった。それをみた華佗が薬と鍼を使い、病状を和らげた。
曹操はあまりに頭痛がひどいので、華佗に専属の医師となることを依頼した。しかし華佗は曹操に仕えるのは嫌だったので、家族から手紙が届いたという口実で、一時帰国の許可を求めた。
ある日、曹操の頭痛が再発し、華佗に治療を依頼したが拒否した。曹操は怒って、人を遣わして丞相府に連行した。
華佗は曹操の屋敷に到着すると、しかたなく曹操を診察した。華佗は診断後、曹操に言った。「治すには頭を割って脳を洗わなければならない。そうでなければ、どんな薬も効果がないのです。」と。
曹操は、華佗が自分に危害を加えようとしているのではないかと疑い、彼を牢屋に放り込みんだ。一人の看守が親切にも、華佗をひそかに放して脱獄を手助けしてくれた。
これを知った曹操はすぐに兵を送り、許昌の北20里のところで、華佗が葦の密林に潜り込んでいるのを発見した。兵士はすぐに葦原池を取り囲んだ。
その時、一人の羊飼いが羊の群れを連れて通りかかった。華佗が事情を説明すると、羊飼いは着ていた羊の毛皮の上着を脱いで華佗に着せ、群れに紛れ込ませた。
羊を見つけた兵士は、華佗が羊に化けたと思い、手あたり次第に羊を斬りつけた。華佗も傷を負ってしまう。
兵士が去った後、華佗が目を覚ました。血が飛び散る悲惨な光景を目にし、羊飼いの叫びを聞いたとき、彼の心は引き裂かれた。彼は必死に立ち上がり、傷付いた羊の一匹を抱き上げると、あっという間に生き返らせた。
華佗は、子羊たちが喜んで飛んでいる様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。羊飼いは嬉しそうに羊を葦から追い払った。
しかし、華佗は手傷を負っており傷と出血がひどく、倒れたまま二度と起き上がることができずその場で亡くなってしまう。この羊の救出劇が、彼の最後の医療行為となった。
いかがだったでしょうか?
羊を引き離した事で始まった医療人生。羊の群れにて、負傷してそして羊を助けて死んでいくという伏線のようにつながったお話のようではありませんでしたか?
三国志演義で「羊の話」といえば仙人左慈が曹操に追われるときに、羊に化けたところを許褚が片っ端から羊を殺して左慈を探す話がありました。
左慈のそのような民間伝承を見たことがないので、もしかしたら元ネタはこの3話目の華佗の話にあるのではないかと私は思っています。
2話目の話はまさに一石二鳥というお話! 現代医学的にこんなことはありえないというツッコミが入りそうですが……。
華佗の話、面白いので次回も紹介したいと思います。
三国志祭・当夜祭レポート
すでに今年の三国志祭のレポートは記事として掲載されていますが、三国志祭と共にいつも実施しているのが「三国志祭・当夜祭」。今年も早々に満員御礼!
三国志祭終わりで片付けしつつ、30分後に開始の当夜祭の準備をして、なんとか予定通りの内容を1時間オーバーしましたが無事終わりました。皆さんと三国志気分で濃密な時間を過ごすことができました。
◆当夜祭を始めた理由
三国志祭に遠路、泊りで来てくださる方と直接あってお話したり、もてなしたいとしたいという事からはじめました。
また、「三国志祭」で終日いろんな場所で出演した主要キャストやゲストを招き、当日の祭を一緒に振り返り共有し最後楽しみたいという裏の意味合いもあります。
去年と一昨年は【三国志的パーティーゲーム】、3年以前は【三国志ゲスト トークイベント】でした。
今年は経験上、すごく盛り上がる英傑群像オリジナル企画の1つ【三国志を造形化するイベント】を実施! オリジナル企画5つ。すべて今回新規アイデア企画です。
小学生から大人まで楽しめる企画で、小学生も参加してくださいました。大人になってから意外と造形する機会が減るので見た目以上にすごく楽しめ、<脳内三国志を充電>しドーパミン出まくりです!
◆演目1【三国志模型作り&バトル】
ガンダム三国伝の部隊兵を全員で作り、それにオリジナル旗をつけて武将化。最終的にトントン相撲でバトルしました!
プラモデルを作った事がない方多数でしたが、造形とゲームで男女関係なく大変盛り上がりました。
トントン相撲決勝戦の様子がこちらからご覧いただけます。
◆演目2【孔明発明・木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)作り】
①頭を振る赤べこ風と②石鹸箱版の2種類を用意。リアルを求めるというより孔明発明の「牛の一輪車」を作って楽しむという感じの企画。思い思いの木牛流馬が出来上がりました。
◆演目3【三国志的冠作り(進賢冠(しんけんかん)と綸巾(りんきん)) 】
研究家一条さんご協力の元、『歴史』文官が被っていた進賢冠、『物語』諸葛孔明の帽子(綸巾)を作りました。組み立てるだけで完成するという所まで用意しておいたので、簡単に作って体感し被って楽しめました。
◆演目4【三国志の詩を作る&ゲーム】
曹操親子がよく詩をつくったという話から、ナレーター樹リューリさんに朗読を、龍谷大学・竹内真彦教授に解説をお願いし、テーマを各自決め、漢字とひらがなで五文字単位の詩【五言絶句】を即興で書きました。その後、それがどの三国志名場面なのかをあてるゲームをしました。
◆演目5【三国志紙芝居作り(全員で1話 桃園の誓い)】
三国志紙芝居を作られている俳優・鎌倉太郎さんご協力の元、鎌倉さんの紙芝居の顔だけを消し、その顔の部分を全員が書いて色を塗るという作業により、みんなで1話【桃園の誓い】作りあげました。その後、鎌倉さんに即興の紙芝居をしていただきました。
●完成後の紙芝居
<三国志を形にして体感し遊ぶ>イベントは、今回も手前味噌ながら大成功でした。当夜祭でまたやるかわかりませんが、今後もやっていきたいと思っています!
※上記、演目2、3についてはやって見たい方がいたら、三国志ギャラリーで少し材料残っています。お声がけください。
横山光輝三国志の交流会開催
毎回、横山三国志の決めた登場人物にテーマをおいてシーンを見ながら交流します! その武将について語り合いましょう!
三国志の話題を皆と話したいけど周りにいない人などはお薦め! あまり難しいすぎる話はしないがモットー! 5年かけてやった横山三国志研究成果も入れていきます。
開催:毎月第3日曜日、要予約
第1回:11月20日(日)、劉備
第2回:12月18日(日)、曹操
時間:17時~18時頃
※内容により時間多少変化します
場所利用料:1000円(ペットボトルのお茶付、マスク必須、食事禁止)
予約締切:前日まで。こちらの予約フォームよりお送りいただくか、直接お電話で(TEL:078-641-3594)
場所:KOBE鉄人三国志ギャラリー
※検温実施:37.5度以上は参加お断りいたします。
※お一人から参加いただけます。小学生もご参加頂けます。
※お子さんの付き添いの場青、別室で待機いただけます(入館料は必要)
※Google meetでオンライン参加可能です(有料クレジット先払い)
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!
本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります