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孔明の南征でも“木牛・流馬(もくぎゅう・りゅうば)”は使われていた!?【三国志 英傑群像出張版#26-1】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 英傑群像出張版では、わたしが中国各地で集めた三国志武将の民間伝承の古書から、日本で知られていないものを厳選して文章をまとめて紹介しています。

 さっそくですが三国志演義では、特徴的なアイテムが色々と登場します! 例えば、皇帝の“玉璽(ぎょくじ)”とか、董卓暗殺未遂事件で曹操が使った“七星剣”とか、関羽の“青龍偃月刀”や張飛の“蛇矛”や諸葛孔明の“羽扇”、馬では“赤兎馬”、“的廬(てきろ)”などなど。

 そんな中、後半で登場する特徴的なアイテムは、孔明発明の“木牛・流馬(もくぎゅう・りゅうば)”ではないでしょうか?

 魏への北伐で使われた輸送兵器です。正史三国志にも三国志演義にも登場しており、木牛と流馬は一輪車とも四輪車ともいわれます(どれがどちらかというのも意見が分かれるようです)。

 そんな“木牛・流馬”に関する民間伝承があるので、今回と次回は2回に分けて“木牛・流馬”をテーマに民間伝承を紹介していきたいと思います。

 その前に以前、第3回コラムで“諸葛孔明と黄月英の結婚話”を紹介した時に“孔明、妻に弟子入りする”という、孔明が木牛・流馬を発明した逸話をすでに紹介しています。

 まだ未読の方はこちらから読んでいただけるといいかもしれません。

孔明の南征でも使われた?! 流馬と木牛 阿巴(あは)との戦い

 蜀漢の丞相・諸葛孔明は軍隊を率いて銀水河地域へ向かった。当時、この地域は高い山と鬱蒼とした原生林に覆われ蛇、虎、豹、熊が生息しており危険地帯である。

 銀水川は流れがとても速く、渦があり、橋はなく、船も困難。村と村の交通で隔てられており交流することはほとんどない。

 この地域の氏族長は阿巴(あは)と呼ばれた。彼は心優しく、勇敢で戦いが得意。近隣の部族はすべて彼に降伏した。

 この日、彼はみんなと一緒に山狩りをしていた。突然、諸葛孔明が軍を率いて銀水へ現れたと報告する者があった。

 彼は尋ねた「どれくらい距離は離れているのか?」と。彼の部下は答えた「まだ5日はかかります。」。これを聞いた阿巴はしばらく考えて、「急ぐ必要はない!」と言い村に戻り戦いの準備を整えた。

 まず、兵士を山森に送り、銅鑼や太鼓をたたき叫び演奏させた。虎、豹、熊、その他の猛獣を諸葛孔明が進む山道に追い込んで突撃させた。

 次に、射手と歩兵を本陣近くの草原に配置した。蜀漢兵が猛獣の防衛線を突破すれば、射手が兵を撃ち、歩兵か馬を切り倒すことができる。最後に平堰堤という地で数十頭の象部隊を配置した。

 蜀漢軍が2つの防衛線を突破するなら味方にも多大な死傷者が出るだろう。しかし平堰堤で決戦を行い象の群れで攻撃すれば間違いなく勝てると阿巴は考えた。

 また数人の兵士を狩猟者や漁師に変装させ、多角のヘラジカに乗って偵察を命じた。ヘラジカには特別な特徴があり、人が乗るととても速く走り、人が背中から飛び降りないと死んでしまうのだ。

 そうすることで、5日間かかる山道を1日で到達することができた。阿巴が戦いの手配をした後、数十人の警備だけを置いて本拠地に留まった。

 翌日、間者たちが戻ってきて「諸葛孔明は動かず、森の木を切り倒すだけです。」と報告した。

 阿巴は「森に道を切り開いて木を伐採し進めば3か月後、雨季が来て森に閉じ込められてしまうだろう。」と笑った。

 3日後、間者たちが再びやって来て、「蜀漢兵が今も同じ場所に駐留し、伐採した木を加工しています。」と報告する。

 阿巴はまた笑った。「蜀漢兵はその場で兵舎を建てて長期戦に備えだしたとすれば、毒ヘビや毒アリに刺される事は避けられず多数が半年以内に死ぬだろう。」と。

 昼に阿巴と妻、子たちは暖炉の周りに座り酒を飲み、肉を食べていた。そこに突然、兵士たちがやってきて「蜀漢兵が来ました! 馬に乗って川を渡って来ます!」と報告した。

 阿巴は「なに? ありえない!」と叫び、驚き信じられず川を見に行った。

 案の定、無数の蜀漢兵が馬に乗り、槍や短剣を持ち、ある者は旗を掲げて、平地を走るかのように川を疾走しているのが見えた。

 阿巴はショックを受けた。すでに全兵士と将軍を前線の陣地に配置していた。すぐに象の背中に乗り、数十人の衛兵を率いて敵と直接対峙した。

 漢兵は馬を岸に近づけた。不思議なことに、軍馬は上陸せず、兵士と将軍だけが上陸した。数十人では数百人の蜀漢兵に対抗しきれない。

 蜀漢兵は投げ縄で象の足を縛り、阿巴を地面に叩きつけ腕を後ろ手に縛った。数十人の衛兵も捕らえられた。

 阿巴は「もう少し待てば、待ち伏せしていた象兵がきっと助けに戻ってくるだろう」と叫んだ。しばらくすると象兵たちが本当にやって来たが諸葛孔明はすでに待ち伏せをしており、縄を使って象を渓谷に落とした事が判明した。

 孔明は阿巴を見るとすぐに馬から降り、自ら縛りを解いて座らせた。また、金銀の宝飾品や錦を持ち出して降伏を促した。

 阿巴は「あなた方の魔法の馬を詳しく見させてください。そうすれば服従します。」と言った。「良いでしょう!」という諸葛孔明は自ら阿巴に同行して川まで行った。

 そこで軍馬の列はすべて丸太でできていることがわかった。木の板で作られた馬は水中での方向を制御することができた。馬の手綱は馬の尻尾につながっており、左右に自由に動けた。

 諸葛孔明は「これを流馬といい、一日に何千里も進むことができる。」と言い、それを見た阿巴は降伏を宣言するしかなかったが、彼は心の中で“兵糧は十分な量があるが2日分の食料を除いてはすべて隠している。食料がなければ漢軍は2~3日以内に撤退しなければならないだろう。”と思った。

 翌日、阿巴は諸葛孔明の天幕で酒を飲みながら話していた。そこへ伝令が来て「丞相、食糧が到着しました!」と伝えた。阿巴は驚いた。食糧をどうやって運んだのか?

 諸葛孔明は阿巴の心を見透かしたように阿巴の手をとり外に出た。見てみると、山野一杯に、牛や水牛が穀物の入った大きな袋を背負っている。牛たちは兵士に先導され、険しい山道を素早く駆け抜けている。

 あの丘の中腹は土砂崩れでよく人が亡くなる。なぜ諸葛孔明の牛は穀物を運んで丘の中腹を走ることができたのか?

 阿巴がよく見てみると、それも丸太でできていて、真ん中に穀物の袋がぶら下がり安定している。牛頭と袋をもう一度見てみると、その間にはたくさんの仕組みがあった。

 すると諸葛孔明は「これを木牛といい、本物の牛より速く走ることができる。」と言った。

 阿巴と部族の人々は諸葛孔明の知性を非常に賞賛した。また蜀漢軍が到着した後、略奪などもしなかった事にも気付き誠実に和解した。

 いかがだったでしょうか?

 民間伝承では孔明は黄月英との結婚時に既に“木牛・流馬”の原型を作っており(コラム第三回参照)、何故それから北伐までつかわなかったのか? って疑問がありましたが今回の話で南征においても使われたという民間伝承が出てきました。

 みなさんも“やはり使っていたんだ!”となったはず。三国志演義では木獣という兵器も登場しますし、木牛流馬が使われても不思議ではないですね。

 しかも今回のモノは“水上版流馬”とでもいうのでしょうか? 新しいタイプのモノです。北伐でも使ってなかった新タイプ。

 しかし、敵の武将が聞いたこともない阿巴(あは)という人物、どうも役職名ぽいですが、孟獲の事なのか? 木鹿大王のことなのか? はたまた別の人物か? などと想像してしまいます。

 三国志演義の南征はかなりフィクション色が強いものの、孟獲を孔明が捕らえては逃がしてやることを7回も繰り返した“七縦七擒(しちしょうしちきん)”は正史三国志にありますし、今回の民間伝承もなにかしら少しでも実際にあった話だといいなあと思ってしまいました。

 また四川省のいろんな三国志にまつわる地域をめぐると“木牛・流馬”が作られて飾られていました。今だどういう構造かわかっておらずロボットのごとく半自動で動くものを木だけで工夫して作っている人もいるようです。

 ある博物館の学芸員の方が出土品の情報から私に孔明発明の三輪車もあるよと教えてくださいました(史実にかかれていないので公認はされないだろうとのことです)。孔明は1輪車、3輪車、4輪車を作っていたのか、もはや自動車メーカーだなあと思った記憶があります。

 次回は、北伐における木牛・流馬の民間伝承をご紹介したいと思います。輸送の失敗でクビになった李厳(りげん)のお話も登場します。お楽しみに!

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岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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