司馬懿、木牛・流馬の策で孔明に敗れる。李厳の逸話も紹介【三国志 英傑群像出張版#26-2】

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 三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。



 今回は諸葛孔明の使った秘密兵器“木牛・流馬(もくぎゅう・りゅうば)”についての民間伝承を集めて、前回と今回で紹介しています。

 前回も記していますが、第三回コラムでも木牛流馬の話をしていますので、ご興味があればそちらもお読みください。

兵糧ではなく黄砂を輸送する木牛・流馬

 諸葛孔明が木製の牛と馬を作った後、もはや穀物や兵糧を運ぶために兵の肩や鞄を必要としない。だが皆非常に満足してはいたがまだ心配を避けることはできなかった。

 それは木牛・流馬はただの木の集まりだからだ。もし魏軍が強奪に来たら兵士は自由に矛や剣を揮えない。それを考え蜀軍は魏軍に知られないように夜だけ木牛・流馬を使って穀物や兵糧を運び続けた。

 しかし諸葛孔明は周囲の忠告を聞かず、白昼堂々と木牛・流馬を走らせて穀物や兵糧を運ばせはじめた。

 魏軍は天壇山に駐屯しており、高台から蜀軍の動きをはっきりと見ることができた。「彼らを殺して奪ってしまおう!」という意見が出たが、司馬懿は兵士たちを止めこう叱った。「お前たちの目は節穴か? なぜあの獣の群れが見えないんだ? 彼らはわざと目の前に餌をぶら下げているんだぞ。私は彼らの釣り針には絶対にかからない。」と。

 司馬懿はただ高く積み上げられた蜀軍の穀物と兵糧を見つめた。蜀軍は順風満帆、何の障害もなく多くの穀物や兵糧を備蓄するために高速輸送を続けた。

 その後、諸葛孔明は突然考えを変え、<黄砂(黄沙)>の運搬に木牛・流馬を使い、夜間に移動するよう命じた。

 漢江は砂でいっぱいだ。将軍たちは砂を積みながら、「黄砂は食べ物にならないのに、どうして丞相は我らに無駄な汗をかかせるのか?」と文句を言った。彼らは木牛・流馬がやっと満杯の荷物を積み、日中に通った旧道に沿って進んだ。

 夜闇の中、司馬懿は密かに距離を縮めていた。今回、彼は態度を変え、兵士たちに山を下り、木牛・流馬をつかまえるように命じたのだ。その結果、彼らが手に入れたのは<黄砂>だった!

 司馬懿はすごく怒り、<黄砂>を地面に捨てるように命じ、それは大きな山に積み上げた。人々はそれを見るたびに冗談として話した。その後、その場所は【黄沙鎮(陕西省勉県)】と呼ばれ、多くの人が住むようになった。

 司馬懿はまだ満足せず、強奪した木牛・流馬を使って穀物や兵糧を運んだ。しかし、木牛・流馬のからくりで途中で蜀軍に妨害され、木牛・流馬は役立たず言わば死んだ牛馬に変わりはて、穀物や兵糧はすべて奪われてしまった。

李厳の北伐輸送の苦労と金の鴨物語

 李厳(りげん)は劉備が亡くなるとき、諸葛孔明と共に劉禅を託した重臣だった。

 諸葛孔明は魏への北伐で彼を最も悩ませたのは物流だった。成都から北に穀物を輸送する際、紫通山を通る道は険しかったため時間を費やした。

 第二次北伐の際、諸葛孔明は魏の郝昭を20日以上包囲しましたが、勝利目前と判断したものの、兵糧不足のため撤退せざるを得なくなったのだ。

 建興9年(西暦231年)、諸葛孔明は祁山を離れ、兵糧の輸送という重要な任務を李厳に任せた。

 李厳は穀物輸送の仕事を引き受けた後、有能な若者を集めて木牛流馬を追い、荷物を肩に担いだ。昼も夜も一生懸命移動し最初の穀物が前線に輸送された後、彼は梓潼臥龍山の諸葛塞への輸送を強化した。

 当時のルートは成都から出発し綿州の徐家に至り、香水潭を通過し、紫雲路をたどって臥龍の諸葛塞に至るのが一般的であった。紫雲道を利用すると梓潼臥龍山まで金牛道を利用するよりも20里長くなる。

 この日、李厳が諸葛塞から出てくると、紫雲道に人が集まって騒いでいるのが見えた。道が狭くて、木牛が故障して、穀物が地面に落ちていた。人々は穀物を集めていて、木牛を修理していた。

 荷物を背負った人々は前に進むことができず、叫び声が上がり銅鑼が鳴り響いた。李厳は、1つ2つの兵糧道では少なすぎると感じた。とても憂鬱な気持ちになり紫雲道の石堰口から西へ歩いた。副将・胡済と兵が彼に追随した。

 石堰口は紫雲道から半里離れており入口の両側の山梁にはヒノキの木が生い茂り、道を茅葺きで覆われている。入口から見ると夜は霞んでいて、南東の方向で赤い光が閃いていた。しかしすぐに消えてしまった。しかしカサカサという物音が聞こえ続ける。李厳はとても驚いた。

 地元の者に尋ねたところ、北は鶏公山と呼ばれ、南は梁叫陳家梁と呼ばれていることが分かった。ここでは“金の鴨(かも)”が出るという伝説があるという。

 話をしていると、一組の金色に覆われた鴨が二人の前に飛び出しきた。李厳はその鴨を追った。しかし鴨が速すぎて馬で追いつくことができなかった。

 馬は金の鴨を追って尾根を上り平らな道に到達すると金の鴨は消えてしまった。月が昇ったばかりで、自分がどこにいるのか不思議に思った李厳。

 考えていると李厳は、なるほど! とひらめいた。彼は馬首を回転させ、胡済に地図を取り出すように頼み、方向を決め道に沿って戻った。

 石堰口入口に戻ると金色の鴨はまたその場で飛び跳ねていたがそれを追わず李厳はすぐに陣営に戻り、地図上で鴨の通った路をたどってみた。

 魏城から臥龍までの鴨の通った路は、魏城から徐家を経て臥龍に至る紫雲路よりも32里も近い(金の鴨が近道を教えてくれたのだ。)。

 翌日、李厳は直ちに胡済に軍隊を率いて鴨の通った道(金鴨路)を広げる為に派遣し、李厳は金牛路、紫雲路と新たなこの金鴨路を使い穀物を同時に諸葛塞に輸送し時間を大幅に短縮した。

 最も興味深いのは、蜀の兵士たちが金鴨路で穀物を運んでいる際に、時々疲れて休んでいると金の鴨が鳴き、騒々しい音を立てた。

 更に鴨が兵士に飛びかかり帽子と靴を奪って捨てた。しかし彼らは鴨を捕まえられない。だが何故か疲れがすぐに消えた。

 それが伝わると輸送兵たちは、成都を出たらすぐに金の鴨を見るために梓潼へ駆けつけようとしたため輸送力は倍増し、李厳の負担は大幅に軽減された。

 金の鴨に感謝の気持ちを表すために、李厳は桠口に小さな寺院を建て、穀物を金の鴨に捧げた。兵士たちはそれを“金鴨寺”と呼んだ。

 その後、諸葛孔明の甥である諸葛喬が臥龍に居住し、金鴨寺を拡張し“神鴨寺”と改名した。いまは鴨の音が変化し“神雅寺”になっている。李厳や諸葛孔明の像も飾られているという。

 いかがだったでしょうか?

 最初の話、三国志演義と大枠は一緒でした。ただ黄砂を運ぶという話はありません。地名の元となっているという話も初耳だったのではないでしょうか?

 以前、私は“木牛・流馬”を作っていたといわれる場所に行ったことがあります。それが黄沙でした。民間伝承となにか違いますね。

 廟以外なにもありませんでしたが、木牛流馬工場跡が1,800年を超えて場所としてあるなんて素敵だなあと感じた思い出があります。

 また地名を見て秦嶺山脈があるのに漢中の勉県に黄砂なんてくるのだろうか? と思ったことも思い出しました。

 それにしても秘密兵器を囮にする孔明の策ってホント奇想天外ですよね。ちなみに三国志演義では木牛・流馬の“舌を引っ張ることでストッパーが掛かり動かなくなる仕掛け”により司馬懿は敗れますが、分解して同じものを作るくだりがあるのに、その仕掛けに気付かないのは不自然だなあと思ったのは私だけではないはずです。

 それはさておき、二話目は李厳のお話。李厳って孔明と共に劉備に後を託された人物で優秀。しかし、北伐での兵糧輸送失敗と嘘をついた事で官職を剥がれ首になってしまいます。

 馬謖のごとく斬られていないので印象が低いですが、三国志ファンなら彼の事について気になっている人は多いはず。

 そんな李厳の良い民間伝承を今回ご紹介できてよかったです。次回もお楽しみに!

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岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!



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