2013年12月24日(火)
――そもそも小高さんはどうしてシナリオを書く仕事に就こうと思ったのでしょうか?
大した理由は特にないんですが、もともと何か物を作りたいと思っていて、高校時代は音楽をやろうとしてギターを手にしたりしたんです。僕が高校生のころは音楽が盛り上がっていた時期で、作るならこっちかなとなんとなく思ったんですが、人前に出るのも苦手だったので止めました。
その後は映像制作の大学に行って、そこで映画の勉強をしていました。卒業後は自主製作の映画を作りながら、フリーでゲームのシナリオ制作を請けるようになって、そこからなし崩し的に今の職業に就いた感じです。
――学生時代からシナリオの仕事を請けていたのでしょうか?
いや、学生の時は自分の映画を作ってばかりでした。卒業してから初めてゲームの仕事をいただいて、そのつながりでいろいろとフリーで仕事をもらうようになりました。それが『探偵 神宮寺三郎』のアプリシリーズでしたね。
――もともと『神宮寺三郎』シリーズはご存知だったんですか?
いくつかやったことはありましたけど、全部やっていたわけではありませんでした。アプリで一番最初に『神宮寺三郎』シリーズで仕事をしてから、その前に出ていたのを3本くらいやりました。
――映画を作っていた時はどういうタイプの映画が好きだったんでしょうか?
僕が青春時代を過ごしたのが90年代で、当時はクエンティン・タランティーノ監督やロバート・ロドリゲス監督なんかの映画がはやっていました。同時期にはやっていたゲームとしては『メタルギアソリッド』とか『バイオハザード2』とか『ディノクライシス2』とかがあって、僕もよくプレイしていました。
ゲームがすごいって改めて思ったのは、『メタルギアソリッド』とか『ディノクライシス2』でしたね。『ディノクライシス』は『1』はそれほどでもなかったんですけど、『2』になってすごくおもしろくなったというか。
――『ディノクライシス2』はコンボやスコアアタックなど、アクション性が増して気持ちよくなっていましたね。
コンボ時間内はとにかくダッシュしているというイメージでした。今考えると、建物の下から恐竜が出てきたり、『ゴッド・オブ・ウォー』みたいな演出もありましたね。あとは当時のゲームは、何かあるとMOディスクを集められたのが印象深いです(笑)。
――『バイオハザード』でもMOディスクを集めるイベントがありましたね(笑)。
当時はまだフロッピーディスクがメインだったので、「MOってすごい容量入るんだよな……」って思ったんですよ。今考えると、あの時代にはいろいろ影響を受けていますね。
――確かに『バイオハザード』にしろ『メタルギアソリッド』にしろ、アクションもありつつストーリーをきちんと置いているという、やや映画的な手法のゲームが当時はやっていたと思います。先ほど音楽が盛り上がっていたということでしたが、当時はどのような音楽を聴かれていたのでしょうか?
大学時代はテクノを聴いていましたね。中学からはずっと電気グルーヴを聴いていて、彼らがDJを担当していたニッポン放送のオールナイトニッポンもずっと聴いていましたし。今の自分がおもしろいと思うギャグのセンスは、その当時のものをずっと引きずっていますね(笑)。
――先ほどギターを買われたというお話がありましたが、ロックやパンクは聴かれなかったのでしょうか?
ロックも聞いていましたね。電気グルーヴと並行してニルヴァーナも好きでした。ギターを買ったのは中学3年生のころでしたけど、当時はビジュアル系バンドが好きでX JAPANがお気に入りでした。
――X JAPANは自分も大好きで、未だに毎日聞いてます。
高校時代はニルヴァーナとかスマッシング・パンプキンズとか、オルタナティブ系がはやり出したので、そこら辺のブームは聴きつつも電気グルーヴとかのテクノを聴くって感じでした。
――いろいろ聴いていたんですね。
そのころのテクノはゲームとも相性がよくて、ゲームもテクノ音楽を使っていました。例えばSCEさんのPS『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』なんかは、電気グルーヴの石野卓球さんが音楽を提供していて、なぜか渋谷のレコード店で売られていました(笑)。
ゲームがカルチャー的に盛り上がっていた時期だったので、僕の「ゲームがカッコいい」というイメージはその時についたものだと思います。ゲームをまったくしないうちの姉が『バイオハザード』を買ってきてましたから! 飯野賢治さんとかのクリエイターが活躍するのを見ていたので、「ゲームはすごいもの」っていう意識がありましたし、映画からゲームに移ろうとなった時も特に抵抗なく入っていけました。
――ちなみに、映画を撮っていた時のメンバーとは、いまだに交流があるのでしょうか?
そこそこありますね。深夜帯に放送している『ノーコン・キッド ~ぼくらのゲーム史~』と『東京トイボックス』は、両方とも大学の先輩が演出に絡んでいて、なかなか感慨深いです。『東京トイボックス』の演出をしている先輩は、ゲーム業界について話を聞き来たんですけど、『ノーコンキッド』の先輩は聞きに来てくれなかったな(笑)。まあ、あちらの番組はアーケードとレトロ物なんで聞かれても仕方ないんですが(笑)。
▲2009年にバンダイナムコゲームスから発売されたDS『名探偵コナン&金田一少年の事件簿 めぐりあう2人の名探偵』。開発はスパイク・チュンソフト(当時のスパイク)が担当している。 |
――シナリオの話に戻るのですが、小高さんが手掛けられたものとして『名探偵コナン&金田一少年の事件簿 めぐりあう2人の名探偵』や『神宮寺三郎』シリーズがあります。原作がある版権作品のシナリオを書く際、オリジナルタイトルではなかった苦労はありますか?
『神宮寺三郎』は一番最初に自分1人でシナリオを書いたので思い入れは強いです。とにかく形にしないといけないという大変さがありました。『コナン&金田一』は大きな作品同士がくっついた、大きな仕事だったので気負いはありましたね。
――気をつけていたことは?
『コナン&金田一』のような版権物を作る時に気を付けていたのは、2次創作アイテムにはしたくないというのがありました。ところが、そうなると結構ギリギリを攻める必要がある。「コナンだったらありそうな事件だね」と言われてしまうような事件だと2次創作になってしまうので、作品間の綱引きというかバランスの取り方が大変でした。
『神宮寺三郎』はキャラクターをしっかり描いて、世界観を間違わなければ問題ない……というか、今までの作品を見ていればいきなりSFにしたりしないじゃないですか(笑)。そういう意味ではカッチリ決まった世界観なんでやりやすいですけど、『コナン&金田一』の場合はトリックも絡んでくるので、どの程度までやっていいのかっていうのが大変でしたね。
――『コナン&金田一』の開発はスパイクさんが担当され、『名探偵コナン マリオネット交響曲』や『名探偵コナン 過去からの前奏曲』も制作されていますね。
『コナン&金田一』以降、うちで『名探偵コナン』のゲームを作らせていただいています。
――『名探偵コナン マリオネット交響曲』は、完成度の高さとボリュームの多さに驚きました。
『ダンガンロンパ2』のメインプランナーをやっていたスタッフが『名探偵コナン マリオネット交響曲』を担当しているので、学んだことをつぎ込んでくれたんじゃないかと思います。
――『名探偵コナン』シリーズもアプリに移植されていて、人気が高いですよね。
僕の功績が大きいんじゃないでしょうか! ここはぜひ書いておいてください(笑)。
――わかりました! ゲームは自分が操作するパートと物語を読むパートの2つがあると思うのですが、シナリオを書く際に、操作する部分、しない部分というのは意識されるのですか?
そもそも僕は、小説をずっと読んでいて小説家になりたったとか、ずっと映画だけ見ていたとかではなくて、全部並行してゲームもやっていたので、自然と自分の中に物語とゲームというものが組み込まれているんです。例えば、もともとドラマやアニメを作っていたベテランのライターだと、「ここはプレイヤーが操作する部分なんでどう転ぶかわからない」ということを理解できないこともあるんですね。
自分の中では子どものころからゲームをやっていて、体に染みついているものなので、「ここはユーザーがどう動かすかわからない部分だから、こういう風にシナリオを流さす必要がある」と、意識しないで自然に書けてしまうんですよ。
――ゲームを遊んでいるからこそ、システムを理解して書けると。
『ダンガンロンパ』を書いている時に気にしていたのは、キャラクター同士が話し出すと長くなってしまうことです。ずっとテキストを読ませたくないので、選択肢を選ばせたり移動させたりっていうのを自分なりの絶妙なタイミングで入れています。ゲームはあくまでも能動的にやるものなので、受動的にさせたくないという意識があるんです。
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