遥か頭上に広がる半球形をなした天井。一面に張られたガラスからは、清らかな月の光が取り込まれ、その場所に降り注いでいた。
厳かな空気と静けさに包まれたその場所は、ヴァスキス公国の都ヴァルハーリンに置かれた聖都魔導院の講堂内。多くの若者達がこの講堂で学び、魔法使いとしての道をスタートさせていた。
聖堂騎士団、アスファソス教会に並び、聖都魔導院はヴァルハーリンの顔と言える。その中で、飛び抜けた才能を見せる魔法使いがいた。まだ11歳の少女、テュルルである。
「コラ！　テュルル！　夜更かしばかりしよって！　いい加減、寝るのじゃ！」
「嫌だよ！　だって、まだ眠くないもん！」
静寂を破り、響き渡る二つの声。夜の講堂を駆け回るテュルルと、それを追う大魔導師ミラーヴァリスの姿がそこにはあった。
「言っても分からぬようなら、ワシにも考えがあるぞ！」
テュルルのお転婆ぶりに業を煮やしたミラーヴァリスは、徐に立ち止まると、指を鳴らした。その瞬間だ。紅蓮の炎が燃え上がり、あっという間にテュルルの周囲を取り囲んで、彼女の行く手を遮った。これぞ "紅蓮の火群"の異名を持つミラーヴァリスの力である。
「ありゃりゃ、通せんぼうされちゃった」
燃え盛る炎は、まるでミラーヴァリスに手懐けられているかのように彼の思う儘に動き、テュルルを威嚇した。しかし、そんな状況に置かれても、テュルルはまるで動じない。それどころか、余裕の表情を見せた。
「ミラ爺、こんなところで火遊びしちゃダメだよ」
テュルルはニッと満面の笑みを浮かべると、鍵型の大杖で、床を軽くトンと叩いた。すると、次の瞬間、テュルルの周囲を取り囲んでいた炎が、一瞬にして水飛沫へと変わり、消え去ったのだ。
「エッヘン！　どうだ、ミラ爺！」
得意げな笑みを浮かべるテュルルに、ため息を漏らすミラーヴァリスではあったが、その一方で、紅蓮の炎をいとも容易く消し去るテュルルの姿に、確かな成長を感じていた。
あの日から、もうすぐ12年が経とうとしていた。今でも、ミラーヴァリスは鮮明に記憶していた。テュルルと出会ったあの日の事を……。

薄暗い鬱蒼とした森の中、天から差し込む一筋の光がその泉を照らしていた。日の光を反射させ、水面は一面黄金色。すぐ隣には、巨大な古木がそそり立ち、美しい輝きを放つ泉を見下ろしていた。
その日の朝、ミラーヴァリスは何かに呼び寄せられるように、ヴァルハーリンの外れにある森の中に足を踏み入れた。「誕生の森」と呼ばれているその森は、遥か昔から神々誕生の地と崇められ、人々が立ち入る事は稀だった。そんな森の中を、ミラーヴァリスは黙々と歩き続け、その泉の前に立ったのだ。
「ワシを呼び寄せたのは、お前なのか……」
ミラーヴァリスの視線の先には、純白の大きな花を咲かせた水草が、水面にゆらゆらと浮いていた。そして、幾重にも重なり合った花びらは、産衣のように優しく赤子を包み込んでいた。すやすやと気持ち良さそうに眠っている赤子。そう、この赤子こそ、テュルルであった。
この神秘的な出会いから、ミラーヴァリスはテュルルを神の申し子と受け止め、聖都魔導院に連れ帰り、以来、実の孫のように育ててきた。そして今、天性の才能を開花させ、魔法使いとして成長を遂げたテュルルは、遂にはミラーヴァリスの紅蓮の炎を容易く消し去るほどの力を備えるまでに至ったのだ。

「12歳の誕生日に、テュルルを試練の洞窟へと向かわせる」
ミラーヴァリスの低い声が室内に響いた。すると、
「これで、テュルルも一人前だ～！」
と、テュルルは満面の笑みを浮かべ、喜びの声を上げた。しかし、次の瞬間、その喜びの声を打ち消すように、別の声が上がった。
「私は賛同できません。テュルルには、まだ早過ぎます」
ミラーヴァリスの考えに異を唱えたのは、土の魔法使いエスペラータだった。美しく妖艶なエスペラータは、沈着冷静で物静かな風の魔法使いレイヴァン、そして、ミラーヴァリスと共に、聖都魔導院の三大魔導師と呼ばれている。
そんなエスペラータが「テュルルに向かわせるには、まだ早過ぎる」と言った試練の洞窟とは、誕生の森の中にある精霊との契約の地である。ミラーヴァリス、エスペラータ、レイヴァンの三人も過去にこの洞窟でそれぞれ、火、土、風の精霊との契約を結んでいた。魔法使いにとって、精霊との契約は、真の魔法使いとして、その力を認められる事なのだ。
「エスペラータ、余計な事、言わないでよ！　やっと、ミラ爺が行ってもいいって言ったんだから！」
よほど精霊と契約を結び、一人前の魔法使いとして認めてもらいたいのか、テュルルはエスペラータの言葉に猛反発。だが、エスペラータは意に介さない。
「私はあくまで反対です」
と、頑なに言い続けた。しかし、それは、決してテュルルの力を認めていないからではない。ただ、エスペラータは知っていたのだ。聖都魔導院に笑顔を運ぶイタズラ好きでお転婆なテュルルが、心に秘めている想いを……。
生まれ持ったその才能故、同年代の子供達とはまるで異なる環境で育ったテュルル。周囲に同年代の友人はおらず、接する者は皆、大人ばかり。そんな事など気にもしない素振りを見せているが、実のところは違っていた。部屋の窓から、楽しそうに遊ぶ街の子供達の姿を見ては、その小さな胸を寂しさで満たしていたのだ。テュルルを妹のように見てきたエスペラータには、その辛さが痛いほど伝わっていた。だからこそ、彼女はテュルルに、これ以上、辛い想いはさせたくなかったのだ。
「テュルルが、精霊との契約を結ぶだけの力を備えている事は認めます」
「それなら、いいじゃん！」
「テュルル、あなたは少し黙っていなさい」
「フ～ンだ！」
テュルルは膨れっ面をするが、そんな事など構わず、エスペラータは続けた。
「精霊との契約は、真の魔法使いである事の証と同時に、戦場に赴く責務を負う事も意味しています。それは、ミラーヴァリス様もお分かりの筈」
「無論、承知している……」
「ならば、何故、精霊との契約を認めるのです！？　まだ幼いテュルルを戦場に送るつもりですか！？」
「エスペラータ、落ち着け！　ミラーヴァリス様も考えあってのご決断だ！」
声を荒げ、ミラーヴァリスに詰め寄るエスペラータの姿を見兼ね、風の魔法使いレイヴァンが割って入った。普段とは違うエスペラータの興奮した姿を見て、流石のテュルルも戸惑いを隠せず、言葉を失う。そんな中、押し黙っていたミラーヴァリスが口を開いた。
「戦況が悪化の一途を辿る要因。そこに、ワシは闇の力の影響を感じている。光と闇の均衡が今、崩れようとしているのだ。闇に対抗する術は、光のみ。その光こそ、テュルルなのだ。ワシはテュルルと出会った時から予期していた。いつか、この日が来る事を……」
悲痛な表情を浮かべ、そう呟いたミラーヴァリス。エスペラータ同様、いや、それ以上に、彼は孫同然のテュルルの身を案じていた。だが、それでも、光と闇の均衡を保つため、彼は苦渋の決断を下したのだ。そんなミラーヴァリスの想いを知り、エスペラータもそれ以上は何も言えなかった。皆、押し黙ったまま、時だけが過ぎていく。すると、テュルルが場を和ませようと声を上げた。
「みんな、暗い顔はや～め！　テュルルなら大丈夫だよ！」
だが、その明るい声は重苦しい場の空気を、より際立たせるだけだった。再び、沈黙は続いた。

話し合いを終えたテュルルは、すぐに自室には戻らず、魔導院内の庭園に立ち寄り、階段の踊り場に座って、じっと夜空の星を見つめていた。何も考えないつもりだったが、先ほどまでの大人達の言い争いが勝手に蘇って来る。
「テュルルなら大丈夫なのに……」
テュルルは、ぽつりと呟いた。すると、その時だ。
「こんな所にいたの？」
背後から声が聞こえた。テュルルが振り返ると、そこには、エスペラータの姿があった。
「隣いい？」
「うん……」
テュルルのすぐ隣に、エスペラータは腰を下ろした。階段の踊り場に並んで座る二人。先ほどの事もあってか、二人の間にはどこかバツの悪い空気が漂っていた。すると、そんな空気を打ち消すように、エスペラータが口を開いた。
「テュルル、明日、街に出ない？　以前、街に行きたいと言っていたでしょ？」
「え？　う、うん……でも、ミラ爺が許してくれないよ」
「大丈夫。ミラーヴァリス様には内緒だから」
「内緒？」
「えぇ、内緒」
「内緒……ニャハハ！」

翌朝、テュルルとエスペラータの二人は聖都魔導院を抜け出し、街に向かった。いつも言い付けを破ってばかりのテュルルも、内緒で街に出るのは初めての事なので、少々緊張した面持ちだ。
「エスペラータ、昨日の夜はワクワクで眠れなかったよ」
テュルルがそんな事を言うと、
「私もよ、テュルル」
と、エスペラータは応えた。顔を見合わせ、笑みを交わす二人の姿は、まるで本当の姉妹のようだった。

街は活気に満ちていた。ヴァルサス海に面したヴァルハーリンは漁業が盛んで、市場からは男達の嗄れた声が聞こえてくる。軒を連ねる商店には、色彩豊かな果物や野菜、取れたての瑞々しい魚介類に、脂の乗った肉など、様々な食材が所狭しと並んでいた。
エスペラータに手を引かれて歩くテュルルは、街の活気にすっかり興奮して、顔がクシャクシャになるほどの笑みを浮かべていた。
「そこのお嬢ちゃん、いい魚入ったよ！」
「ほらほら、見て行って！　見るだけだったら、タダだよ！」
街の中では、誰もが気軽に声を掛けてくる。それが何よりも、テュルルは嬉しかった。聖都魔導院で育ち、その天性の才能故、いつも特別な扱いをされてきたテュルルにとって、他の人と変わらぬ態度で接してもらえる事は何よりも嬉しい事だったのだ。
「エスペラータ、今度はあの店！　あの店！」
無邪気な笑顔を浮かべるテュルルを見て、エスペラータは、その笑顔が心から溢れ出ているものだと感じた。今のテュルルは、皆に笑顔を運ぶ側ではなく、皆から笑顔を貰う側にいた。それは、聖都魔導院では見られなかった事だ。
「よかった……」
テュルルを街に連れ出した事は間違いではなかった。エスペラータは心から、そう思った。これから、テュルルが歩もうとしている未来は、決して楽な道ではない。戦場に立てば、多くの死をその目に焼き付ける事になるだろう。それは、まだ幼いテュルルにとって、計り知れない苦痛を伴うものだ。そうなれば、テュルルは本当に普通の子供達とは違う世界に住む事になる。だからこそ、その前に、エスペラータはテュルルの願いを叶えてやりたかった。普通の子供達と変わらぬ事をさせてやりたかったのだ。

「エスペラータ、もう一つだけ、お願いがあるんだ」
街の中を一通り巡った後、テュルルはエスペラータの手を握り、そう呟いた。テュルルのおねだりは日常茶飯事だ。しかし、今日のおねだりは、いつもとは違っていた。その眼差しは、まるでこれが最後のおねだりとでも言うようなものだった。エスペラータは迷う事なく、応えた。
「お願いって、何？　言ってみなさい」
その声は、まるで母親のように優しかった。

薄暗い鬱蒼とした森の中、天から差し込む一筋の光を浴び、その泉は昔と変わらぬ輝きを放っていた。ここは、誕生の森。テュルルとミラーヴァリスの出会いの地である。
泉の前に佇み、テュルルはじっと見つめていた。黄金色に染まった水面に、ゆらゆらと浮かぶ白い小さな花を咲かせた水草を。
「ここから、始まったんだ……」
テュルルの顔に、いつものおどけた様子はない。そんな彼女の姿を、泉の隣にそそり立つ巨大な古木の下で、エスペラータは何も言わずに、ただじっと見守っていた。
テュルルがこの場所を訪れるのは、ミラーヴァリスに拾われた日以来、今回が初めての事だ。ミラーヴァリスから、泉の事は聞かされていたが、今まで足を向ける事はなかった。だが今、テュルルは己の意思でこの場所に戻ってきた。

「エスペラータ、ありがとう。誕生日の前に、ここに来れてよかったよ……」
泉を見つめていたテュルルは、そう呟いた。
12歳の誕生日を迎える前に、テュルルは見ておきたかったのだ。魔法使いとしての自分の人生が始まった出発点を。エスペラータの目には、それがテュルルの決心の表れに映った。テュルルは承知している。自分がこれから歩もうとしている未来が決して楽な道ではない事を。それでも、テュルルは選んだ。その過酷な道を……。
「街の人達の笑った顔、ずっとずっと見ていたいんだ。そのためだったら、何があっても、テュルルは頑張るよ」
すると、テュルルは振り返り、いつもと変わらぬ満面の笑みを投げ掛けた。

天井から差し込んだ幾筋もの光を反射させ、玉虫色に輝くなめらかな鍾乳石。試練の洞窟の中は、その名に相反して、美しく幻想的な光景が広がっていた。そんな洞窟の中を、一人進むテュルル。12歳の誕生日を迎え、遂にテュルルは精霊との契約を結ぶため、試練の洞窟へとやって来た。
周りをキョロキョロと見回しながら、テュルルは洞窟の奥へと進んでいく。すると、その時だ。ふと、彼女の足が止まった。テュルルの視線の先には、鍾乳石を削り出して作られた祭壇があり、天井から差し込んだ光を浴び、神々しく輝いていた。
「これが、契約の祭壇……」
テュルルはミラーヴァリスの教えに従い、祭壇の中央にある鍵穴に、自分の鍵型の大杖をゆっくりと差し込んだ。その瞬間だ。鍵穴から光が溢れ出し、すると、どこからともなく、その声は聞こえてきた。
「我は、水の精霊リバイア。古の契約に基づき、汝の召還に応じる。汝、光の加護と伴に、我が力を得ん」
テュルルはあたりを見回し、声の主を探したが、どこにも見当たらない。とその時だ。天井から、ひとしずくの水滴が祭壇の上にしたたり落ちた。すると、その水滴はみるみると形を変えていく。興味津々の眼差しで、テュルルはその様子をじっと見つめていた。そして遂に、声の主である水の精霊リバイアがその全貌を現した。高尚な声に相反して、その姿は実に可愛らしい。光を放ち、プルプルと動く水の塊。そんなリバイアを見て、テュルルは意外な行動を取った。リバイアの身体を、指でツンツンと突いたのだ。
「な、何するリバ！　会ったばかりで、失礼リバ！」
テュルルの行動に驚き、慌てるリバイアだが、そんな事などお構いなしに突き続けるテュルルの顔には、いつもと変わらぬ満面の笑みが浮かんでいた。
「ニャハハ！　可愛い、リバたん！」
「リ、リバたん！？　そんな呼び方はよすリバ！」
「ニャハハ！　リバた～ん！」
試練の洞窟に、テュルルの明るい笑い声が響き渡る。その無垢な笑顔は、これからテュルルが歩む未来に、光を差していた。

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