戦艦は、第二次大戦当時は「主力艦」とも呼ばれていた。特徴としては、大口径の主砲を搭載し、自分の搭載した主砲に耐えられるだけの装甲を装備した軍艦である、と定義されていた。ただ、暗黙の定義であり明確な決まりがあったわけではないため、財政的事情や政治的理由で建造されたこの定義に当てはまらない戦艦も存在する。
戦艦の任務は、敵の戦艦を撃沈することであった。強力な主砲ですら貫通できない装甲を装備した戦艦は、同じような戦艦で攻撃する以外の方法では撃沈できないと考えられていたからである。戦艦こそは海軍力の象徴であり、その海域を自由に航行できるかを決定できる戦略兵器であった。
しかし、機雷や魚雷といった兵器の高性能化により、必ずしも戦艦を撃沈するのに戦艦が必要なわけではないことが次第に明らかになり、また戦艦側もより大きな戦艦であればより大きな大砲とより分厚い装甲を積むことができると大型化しすぎた結果、維持するだけでも大変な費用がかかる使いにくい兵器となってしまう。
最終的に戦艦の戦略兵器としての地位を無力化したのは、航空機の発展であった。戦艦を航空機による攻撃で撃沈可能なことがタラント奇襲および真珠湾攻撃で明らかになり、マレー沖海戦で戦艦単独では航空機には対抗できないことが証明されてしまったのである。
戦艦「大和」はそんな戦艦たそがれの時代に、強力な主砲を積み戦艦と撃ち合うことを目的に建造された最後にして最大の戦艦である。主砲は45口径46センチ砲を9門搭載していた。46センチ主砲弾の重量は1.5トンで、当時では標準的な40センチ主砲弾(重さ約1トン)に比べて、その巨大さが伺われる。射程は42キロメートルにおよび、理論上は水平線の向こう側にいる相手に対して攻撃を行うことが可能であった。
敵の砲弾を食い止める装甲の厚みは、舷側(船の側面)で410ミリ、一番分厚い主砲前面の装甲では650ミリに達するものであった。また、煙突の中の直接装甲で防御することができないところには蜂の巣状の装甲が施され、防御が施されていた。魚雷や機雷による浸水に対する防御についても、多数の水密隔壁で船の中を小さな区画に分割し、浸水が発生した際に一気に浸水が進まないように設計されていたし、浸水が発生して船のバランスが崩れそうになった場合でも、船の反対側で注水を行い自動的にバランスをとる自動注水装置を搭載していた。
しかし、その最期は悲惨であった。一連の沖縄救出作戦の一環として、沖縄の海岸に乗り上げて弾が尽きるまで米軍を艦砲射撃する作戦「菊水一号作戦」に参加するために出撃、米海軍航空隊の集中攻撃を受け、一説によれば30本以上の魚雷を被弾、伊藤整一司令長官以下2,740名とともに太平洋へと消えた。