三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
『因縁の三国志人物(運命の二人)』というテーマで武将二名をピックアップして三国志演義(物語)、正史三国志(歴史書)、民間伝承などから紹介する企画第5弾。
今回の因縁の二人は【周倉(しゅうそう)と廖化(りょうか)】と少しマニアックな人選にしてみました。
当初、関羽と周倉にしようとしていたのですが、書いていて途中で変更しました。まずは周倉・廖化って誰やねん? というところから。
関羽、関平(かんぺい)、周倉(しゅうそう)の3人は<関帝廟(関羽をお祀りする寺)>に祀らえるトリオ。
実は関羽と周倉の民間伝承は多数ありますが、関平(関羽の息子・演義では養子)は民間伝承での登場が皆無です。関平は後付け感が強いのかもしれません。
しかし、関平は史実では関羽の実子で長男、物語(三国志演義)では義理の息子に替えられています。
さらに関羽・関平の死後、関興、関索という関羽の息子たちも登場します。神格化された関羽の死に際して、物語上では実子で長男の関平も一緒に処刑されるというのを避けたかったのかもしれません。
周倉・廖化とは。ざっくりまとめ(三国志演義)
話がそれましたが、周倉は一般に架空人物といわれています。一方、廖化は史実に記載があり実在する人物。
◆【周倉・廖化】とは<共通部分>
・関羽の配下。元黄巾賊。その後、山賊になる。
(ともに経歴一緒ながら同じく行動はしていない)
・関羽が曹操の元を去り、“関羽千里行”の際に出会う。
(関羽とは別々のタイミングであっている)
・のちに帰順し関羽の配下となった。
◆【周倉】とは
千斤を持ち上げる怪力の持ち主で、関西出身。黒い顔に長身。張宝(ちょうほう:張角の弟)の元部下(元黄巾賊)でもある。黄巾賊時代に関羽を見かけて憧れていた事から進んで部下になった。
呉の魯粛に関羽が招かれると従者として同行。暗殺未遂を逃れ関羽と共に戻った。泳ぎが得意で、樊城の戦いで龐徳の小舟を転覆させて水中で生け捕った。関羽が麦城で捕まり処刑されると自恣した。
200年に関羽の部下になり219年に関羽に殉じて亡くなった。
ちなみに三国志演義でいえば黒い顔といえば龐統。演劇では張飛も黒。顔色は京劇で、黒顔は厳粛・沈黙・短気・剛直・傲慢・正義を暗示するらしい。なお、関羽の赤顔は勇敢、高徳を意味するらしい。
◆【廖化】とは
関羽とはぐれた劉備夫人たちを襲った山賊の一人。二人を助けた事で関羽と面識を得たのち、荊州を劉備が治めると配下になった。
荊州が魏と呉に攻められてピンチになると援軍を呼ぶために関羽に派遣されて、備の元に戻るも援軍は間に合わず、関羽が処刑された時に生き延びた。
その後も孔明や姜維らと共に長く活躍することになる。
三国志平話(三国志演義の原点)では
周倉:諸葛亮の部下。木牛流馬担当者として司馬懿を翻弄する将として登場する。関羽とは一切関係が記載されていない。
廖化:三国志平話では登場しない。
三国志演義 登場回(全120話)では
周倉:第28回~第77回
廖化:第27回~第119回
※黄巾から蜀滅亡までを生き、廖化は二人いるのではないかといわれるほど長生きだった
正史三国志では
●周倉
登場しない。ただ、関羽と魯粛の単刀赴会(軍司令官たちが護身用の刀だけもって会談した)の際、三国志演義と同じく関羽の副官が「土地というものは徳のある人に帰するもので。所有は決まっていない!」といって関羽に怒られて退席する。この人物が周倉の原型かといわれている。
●廖化
襄陽出身。関羽の事務係。関羽が荊州を失うと呉に降伏。死んだと噂を流し蜀へ帰還。
太守・刺史・将軍などを歴任し、孔明や姜維の北伐に長く従事した。蜀滅亡後に病死。
民間伝承では
廖化の民間伝承はほぼ皆無だが、周倉の民間伝承は、主に関羽とのものが多数あります。
※行ってないはずの益州にも伝説あり
周倉の日本で知られている民間伝承をまとめてみましょう。
①赤兎馬と同じ速さで走った。
赤兎馬は千里を走ると言われるほど速いですが……。
②馬を背負って走った?!
日本でも馬を背負った人・畠山重忠がいますが……。
③早く走れるのは足に生えた3本の毛が理由。
敵に寝ている隙に毛を剃られ早く走れなくなる。(関羽に抜かれたという異説もあり)
以前、関羽とのお話として、【三国志 英傑群像出張版#2-2】の中で「関羽、周倉の青龍偃月刀を奪う!?」も紹介しています。こちらも、ぜひご参照ください。
次回以降、日本で紹介されていない、周倉に関する民間伝承を中心に紹介していきたいと思います。
まとめ
周倉は関帝廟や道教など共とも深く関係があるようで奥が深い存在です。いろんな研究がなされているようです。今回それには触れないようにします。
しかし、前述した三国志演義の原点『三国志平話』では周倉はなんと北伐で孔明の部下として登場するのみ。周倉と関羽との関係は一切描かれていません。
周倉が関羽の部下だった話が『三国志平話』で省かれていて三国志演義で復活したのか? または、あと付けで三国志演義で周倉を利用したのかは不明。
もし最初の方だとして、周倉が関羽の部下だったとした場合、関羽が麦城で処刑された際、生き延びていればあり得る設定ではあります。(また次回以降紹介しますが、周倉の民間伝承は四川省にも何故かいくつかあるのです。)
あれ? そういえば、そんな似たような経歴の人が確かいましたね。“廖化(りょうか)”です。
北伐まで生きていた設定の周倉がいるとなると【周倉=廖化ではないのか!?】という疑問が出てきました。
あくまで仮説ですが、三国志演義成立までの間に神格化された関羽の死に際して、殉死しないで生き延びた人物を神格化や評価できないという力学が働いて、廖化という実在の人物を、荊州時代の関羽の部下としての【周倉】、荊州時代以降の【廖化】として分けて、架空の周倉を作り出したのではないでしょうか?
史実では、廖化は関羽が処刑された際、殉死せず呉に降伏。その後、自分は死んだと噂を流して蜀へ帰還しています。 関羽の部下としては潔いとならないわけで、廖化の荊州時代を周倉の活躍に置き換えたのではないでしょうか。
実際、廖化の死んだと噂を流す話は三国志演義にはなく、援軍を呼びにいって生き延びた事に変えられています。それと、関羽千里行の際、すぐに関羽の配下にしてもらった周倉と、一旦断られた廖化と扱いが異なります。
前述の通り、実子の関平も養子に設定が替えられていますし……。三国志演義成立でこのあたりの設定が色々変えられていることがわかります。
また、廖化は北伐時に司馬懿を直接1対1で追い詰めるというシーンがあります。もし、廖化=周倉であれば、関羽の死の原因である魏呉同盟を発案した司馬懿を追い詰める周倉という、大きな伏線だと考えられるわけです。このシーンは史実にはない演義だけのシーンです。
皆さんどう思われますか? 今後もこの件については更に調査していきたいと思います。
それでは、次回をお楽しみに!
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!