三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
英傑群像出張版では、わたしが中国各地で集めた三国志武将の民間伝承の古書から、厳選して文章をまとめて紹介しています。
前回、【曹操(そうそう)と華佗(かだ)】二人の繋がりの深さを分析し紹介しました。
今回から2週に渡り、彼ら二人が関わる民間伝承をご紹介します!
なお、前回も記しましたが、以前紹介した華佗の民間伝承はこちらになります。未読の方は、ぜひこちらも読んでみてくださいね。
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逸話“母を救う少女”では、曹操と華佗が仲良くしていた時期もあったのだなと思えるシーンがあります。
その1:華佗を試す曹操
ある時、曹操は華佗の医療技術と文学力を試したかったので、華佗に手紙を書いた。
曹操の手紙を受け取った華佗は、その手紙を開いて四行の詩をつけた。その詩はこうだった。
胸中荷花、西湖落英。晴空夜明、初人其境
長生不老、永遠康寧。老嬢獲利、警惕家人
五除三十、仮満期臨。胸有大略、軍師難混
接骨医生、老実忠誠。無能缺技、薬舗関門
胸中の蓮の花は西湖に落ちたようだ。空は晴れ夜が明けた時のようだ。不老長寿が永遠の幸せ。妻は利を得て家族は警戒する。
もうすぐ休暇が終わる。胸中に大略があるが軍師にはなれない。骨の折れる医師は忠誠と技能に欠けるため、医師を辞める。(※曹操の下へは戻らないという詩のようだ)
華佗は自らの詩を何度も何度も読み返したが、曹操が詩好きであることに気づき、曹操が自分の医療と文学力を試そうとしていることに気づいた。そこで彼は、曹操の使者を客間に行かせ詩を作り直した。
紙に筆と墨を広げ、十六種の薬草の名前を書き袋に入れ、曹操に持ち帰るよう使者に頼んだ。
曹操は華佗から手紙を受け取ると、それを開いて読んだ。そこには「宰相の詩は傑作で、各行に薬の名前が入っている。穿心蓮、杭菊、満天星、生地、万年青、千年健、益母、防巳、商陸、当帰、遠志、苦参、続断、厚朴、白術、没薬」とあった。
曹操はそれを読んで笑った! 「素晴らしい! 華佗は私を理解してくれて、薬の名前が私の詩を説明してくれているではないか!」と。
その2:華佗の脱獄劇
曹操は、華佗を引き留めようと様々な方法を試みたが彼は拒否した。ある日、彼は妻の病気を理由に故郷に戻り、その後を振り返ることはなかった。
その後、曹操は華佗が治療のために戻ってくるのを待ったが、長い時間が経っても戻ってこなかったので、人を遣わして華佗の家を訪問させたところ、華佗の妻は病気でないことがわかった。
曹操は怒り、すぐに人を遣わして華佗を逮捕させ、許都の監獄(現在の許昌の北東、今“華佗角”と呼ばれている)に幽閉した。
華佗が曹操に捕らえられた後、妻の“雲清”は夫の安否を心配し、家にいても落ち着かないので、娘と一緒にはるばる許都まで夫を探しに来た。
ある日、母娘は許都の白馬坡に着くと、村人に華佗の居場所を尋ねた。村人たちは母娘が華佗の妻と娘であることを知ると、激しく泣いた。
村人たちは、華佗が曹操に投獄され、獄中で右足と左腕を切り落とされたことを告げた。
牢番の“梁亭”は彼を助けようと決意し、追っ手を避けるために汝南江を北上するための小舟を用意した。牢から逃げたものの、舟が白馬坡に着いたとき、華佗は血を流して死んでしまった。
人々が村に駆けつけ、華佗を村の頭に埋葬した。心優しい村人たちは華佗の妻と娘を華佗の墓に連れて行き、華佗の妻と娘は華佗の墓の上にしゃがみ込み泣いた。妻はショックで墓のそばで息を引き取った。
その後、華佗の娘は李家に嫁いだ。李家の子や孫たちは、毎年清明節に華佗の墓を訪れたと言われており、この習慣は今日まで変わっていない。
華佗の死後、曹操の頭痛は時々再発してしまう。さらに、最愛の息子である曹冲(倉舒)も病死した。
その後、白馬浦に進軍し南江西岸にある華佗の墓を見た際には、「華佗を殺したことを後悔する!」と叫んだという。
それ以来、白馬坡は“哭村”と呼ばれるようになった。その後、“哭”は縁起が悪いということで、人々は“呼村(現在、呼佗村)”と改名した。
今この村の北に華佗の墓がある。
その3:華佗を曹操の夢で治す
曹操は華佗が脳を割いて手術をすると聞いて、怒って彼を殺してしまった。
その後、彼は頭痛で一晩中眠れなかった。夜半に曹操はとても眠くなり、ただ目を閉じて夢を見た。華佗が自分の頭を割って、脳を取り出して薬水で洗い、頭を縫い合わせているではないか。
それが終わると、不思議なことに頭痛は治った。曹操は褒美として数万の金を差し出したが華佗は言った。
「金も銀もいらない。ただ民衆を救ってほしいだけだ。恨みはない。これ以上、罪のない人を殺さないでほしい。」
そう言うと、彼は深々と頭を下げて去っていった。曹操は彼に手を伸ばしたが、彼の手に何か濡れたものがかかった。
夢がさめ曹操が目を開けると、妻の卞夫人が曹操に薬を飲ませていた。曹操は夢について考えたが、納得がいかない。しかし、頭痛は治ったので、夢のことを調べることはしなかった。
数年後、曹操が先祖を弔うために故郷に帰ると、人々は面と向かってはあえて何も言わなかったが、陰で彼を叱った。
「華佗は優秀な医者だ。王大頭の病気を頭を割って治したのに、曹操は善人を間違えて殺してしまった!」と言う人もいた。曹操はその言葉が彼の耳に届いていた。
彼は人を遣わして“王大頭”という人物を探し出して尋ねた。10年前、王大頭は華佗に治してもらったという。
曹操は、王大頭の頭皮にはまだ跡が残っているのが見えた。曹操は後悔した。「残念だ。間違って華佗を殺すべきではなかった!」と。
そこで彼は華佗のために廟を建てることを計画し、金を割り当て腕のいい職人を雇い立派な廟を建てようとした。
当時、地元の人は以前から華佗のために廟を建てようと考えていたが、曹操の処罰を恐れてあえてそれをしなかった。
今、曹操が華佗のために廟を建てたいと聞いたとき、誰が熱狂し何千人もの人々が荷物を運ぶ。近所の人たちが寄付し、たくさんのお金が集まった。
地鎮祭を間近に控えた頃、皆が一斉に華佗の夢を見た。緑色の袋を持ち、手には虎の棘を持っていた。まるで病気を治して帰ってきたばかりのようだった。
彼は優しい表情で彼らに「緑色の煉瓦も釉薬のかかった瓦も、金や玉も必要ない。私の人生は苦しみばかりだった。きれいな瓦のお堂であれば世の中の人々を助けられるのだ。」と優しい表情で言った。
神医がこう言ったので、誰もが同意した。曹操はもちろんそれに従った。そこで彼は、清潔な廟を市内に建て“華佗寺”と名付けた。それは今日まで保存されている。
まとめ
いかがだったでしょうか?
華佗と曹操の相容れない関係、日本の戦国の豊臣秀吉と千利休の関係のようだなあと思ってしまいました。
共に為政者と能力者の関係は、残念ながらそれが悪化すると為政者が能力者を殺すことで終焉があるようです。
その1で華佗は、曹操が喜ぶ手紙に途中で変更して出します。他の民間伝承では、相手を怒らせることで病気を治したりする心理カウンセラー的側面もみせる華佗。
もしかしたら医師として曹操の心の傷をいやしたのかもしれません。
その2で登場した、この許昌にある華佗墓に以前いったことがあります。(徐州にもあり)
「許昌の川のほとりにあり、舟で華佗の遺体を故郷へ運ぶ途中で、遺体が腐るのを危惧して埋葬した。」と、その場所に墓がある理由を地元の人から聞きました。その話とは少し違った異説の民間伝承でした。
その3については、華佗は殺されても、夢の中で曹操を治すあたりまさに“神医”!だなあと感心します。しかし頭痛が再発した事を考えると、一時的な幻覚であったのがわかりますね。
今回はここまでとなります。来週も引き続き、曹操と華佗の民間伝承をご紹介しますので、お楽しみに!
桃園の智会 第8回は8/11(日)に開催!
【テーマを決めて順に一言発言】というルールで、初参加、恥ずかしがり屋さんでも平等に楽しめる三国志交流会“桃園の智会 第8回”を8/11(日)に実施します。
まだ少し先ですが、ご興味があればぜひ参加してみてくださいね。
桃園の智会第8回 開催概要
日時:8/11(日)16時~19時半ごろ
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お問い合わせ:三国志ギャラリーまで(078-641-3594)
コラム未公開! 関羽の民間伝承パネル展示中
春の三国志会で初公開した、本コラムで未公開の関羽の民間伝承が掲載されているパネルですが、こちらは引き続き展示を継続しております。
7月末位までは展示しておくつもりですので、KOBE鉄人三国志ギャラリーのお近くに来られた際は、ぜひお立ち寄りくださいね!
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!