三国志に造詣の深い“KOBE鉄人三国志ギャラリー”館長・岡本伸也氏による、三国志コラム。数多くの書籍が存在するなか、“民間伝承”にスポットを当てて紹介しています。
英傑群像出張版では、わたしが中国各地で集めた三国志武将の民間伝承の古書から、厳選して文章をまとめて紹介しています。
次回に続き、【周倉】の民間伝承をご紹介しています。
⑥周倉、近道の達人
人は便宜上、脇道を通りたがる。その中でも、最も近道をするのが周倉だと言われている。
周倉の足の飛毛を引き抜いて(足の速かった周倉が寝ている隙に関羽に毛を抜かれた)以来、速く走ることができなくなった。
進軍して戦うたびに、彼はいつも関羽の馬の後ろで後れをとり多くの機会を逃した。
関羽は自分が悪いことをしたと分かっていたので、周倉を責めることはできなかった。
ある時、曹操軍が荊州を攻撃しようとした時、関羽は赤兎馬に乗り部隊を率いて抵抗した。
曹操の軍勢があまりに大きいのを見て周倉は不安になった。周倉は、関羽の馬を追いかけ全力で走ったがどんどん遅れていった。
周倉は焦っていたため、慌てふためいてしっかり踏ん張れず、野原に転げ落ち道からかなり遠くまで転がってしまった。
彼は急いで立ち上がり、前方を見た! この転び方は悪くなかった。なんと赤兎馬に近かずたのだ!
この時、曹操軍は洪水のように押し寄せてきていた。関羽はすぐに振り返って「周倉! 刀を持ってこい。」と叫んだ。
周倉は野原を斜めに横切り、関羽に刀を渡した。馬に乗った関羽は、敵に突撃して曹操軍を倒し勝利を得た。関羽は戦いに勝つと、将校や兵士たちを宴会に呼んで成功を祝った。
宴会中、彼は周倉に「今回、曹操軍をお前が私にぴったりついてきてくれたおかげで刀を早く使えた。どうしたんだ、また足のうぶ毛が生えてきたのか?」と尋ねた。
周倉は「いえ、今回は近道をしたんです。」とすぐに答えた。
関羽は微笑み、持っていた弓を掲げて、群衆に向かって「私は馬に乗ってこの弓のように曲がった道を進んだ。周倉は弓の弦のように道なき道を直線で進み近道をしたのだ。」と言った。
人々は、周倉が手柄を立てるために近道をした理由を理解した。
⑦周倉の墓の秘密
周倉墓は、当陽の長坂坡から南東の漢宜公路沿いにある。
武漢や荊州から漢宜公路を宜昌まで走り、丹陽の二江大橋を渡って、右手を見ると、畑の真ん中に塚があり、そこに続く道の墓の前には“漢武烈侯周倉将軍の墓”と刻まれている。
麦城からわずかな距離しか離れていない。周倉はなぜここに葬られたのか?
伝説によると、周倉の足には3本の非常に長い毛が生えており、空を飛ぶように歩いた。
また、周倉は魚と鳥の性質を持っていたとも言われている。彼が水の中にいるとき、足の3本の毛のうち1本は魚のひれに、1本は魚の足に、1本は魚の浮袋に変わった。
ある時、周倉が関羽と共に樊城を攻めていた時、曹操の七軍を水攻めにし、曹操の将軍龐徳が小舟に乗って逃げようとしたところ、周倉が大きな魚になって舟をひっくり返し、龐徳は水の中に落ちてしまった。
龐徳は蟹のように、水中を泳ぐ能力を持っていた。周倉と龐徳は七日七晩水の中で戦い、龐徳が空気を吸いに水から上がった時、ついに龐徳を捕らえた。この戦いで周倉の名声はさらに高まった。
関羽の赤兎馬は全力疾走し、全力追従し、常に一歩も離れない。関羽のそばにはこのような有能な将軍がいて当然、満足だった。
荊州から帰る道で赤兎馬に乗っていた関羽が振り向くと周倉が大刀を持って近くにいるのが見えた。
関羽は周倉疲れを感じていないことをみて周倉に「私の赤兎馬は昼に数千里、夜に800里を旅した。」と尋ねた。
周倉は堂々と「関将軍、私は嘘をついていません、私の足には3本の毛が生えています。」と返した。
これを聞いた関羽は衝撃を受け、慌てて馬を降りて本当かどうか確かめた。そして「この3本の毛を抜けば、もっと速く走れるだろう」と言う。
周倉は関羽の言葉を聞いて信用し、すぐに3本の毛を抜いた。すると突然、体が重くなり、歩けなくなり、走れなくなり、赤兎馬についていけなくなった。
関羽を守るために忠義を尽くした周倉は、後の人は周倉のやり方を“近道を殺す(殺捷路)”と言った。
関将軍は荊州を失った時、周倉に麦城の警護を任せ脱出を計った。周倉はひざまずき、関羽にと「命を捨ててもいい、黒い顔の周倉がここにいる限り、私は麦城を失わない!」誓った。
その夜中、周倉は関羽が羅漢峪で危機に瀕していることを聞き、不安のあまり羽を広げて飛んで関羽を救おうとした。
しかし、その術を使うことができず、包囲網から飛び出し小道を通って羅漢峪に急行するしかなかった。また、以前のように走ることもできず、わずか3、4里走ったところで東呉の兵士に追いつかれてしまった。
周倉は死を恐れず、呉軍に捕らえられたくなかったので、自ら喉を切って水郷の蓮ノ池の地で倒れた。
この忠義の将軍を記念するため、彼が倒れた場所に周倉墓を建てた。
⑧橋を架けるために石を運ぶ
周倉は背が高く体格もよく、力も驚くほど強かった。ある年、彼が太湖河(四川省綿陽の西)を旅していたとき、河が氾濫し、両岸の人々が河を渡ることができなくなった。
周倉はとても親切で、その人たちを担いで川を渡ろうとした。彼は川のこちら側で一人、川の向こう側で一人を担いで往復して渡った。人々が彼の名前を尋ねると、彼は自分の名前は周倉だと答えた。
結局、川の両岸には数人の女子が残った。周倉は、「彼女たちをどうやって運べばいいのだろう?」と考えた。そしてその日の暗いうちに、彼は橋を架けるための石を運ぶために遠くへ行った。
一つ目の石を対岸の大竹坪まで運んだ後、二つ目の石を運ぼうとした。彼は二つ目の石をこちら側まで運ぼうとしたが、鶏が鳴くと何故か彼は仕事ができなくなり、石を背中から投げ捨てて立ち去った。
翌朝、人々はその二つの石がどこから来たのかわからず、驚きを隠せずに見に行った。二つの石はまるで山のようで、石を運ぶときに入れた指穴が二つあった。
また石を運ぶとき、木の葉を背中と石の間にいれたようで、まだ木の葉の跡が残っていた。
人々は昨日、周倉という男がこの川で人を運んで渡ったことを思い出し、この二つの石は周倉が橋を架けるために運んだものだと気づいた。
⑨水を運ぶ周倉
孔明の軍隊が茂県(四川省)で曹操軍に包囲され、数昼夜が過ぎても救援がなかったため、孔明の兵士たちは飲む水がなく、周倉に水を湔江河から運ばせたという。
曹操軍はそれに気づくと、兵を連れてきて周倉を襲撃した。周倉は水桶を抱え、飛び上がって走った。
走って、走って、石龕青康砦まで走ったが、荷を滑らせて、対岸に飛んで溝になった。
桶は水京平に落ち、石の水槽になり、人間一人分以上の高さになった。二人が手をつないで囲むほどの大きさになり、今でも青康砦の青康水京群にある
まとめ
いかがだったでしょうか?
周倉の能力が落ちてしまった物語と墓の逸話でした。
⑥、⑦のお話、周倉の特殊能力をつぶしてしまったのはどうも関羽の様です。なんだか勿体ないことをしてしまったと思わざるを得ませんね。
一般に、足が速く泳ぎが得意といわれている周倉。“周倉は鳥と魚の能力”があったから、早く移動できて、水中で強かったんですね。これらの民間伝承が元だったのかもしれません。
そして、⑧⑨は周倉が輸送をした物語。
共に四川省周辺で伝わる周倉のお話。 三国志演義の原点『三国志平話』では周倉はなんと北伐で孔明の部下として登場します。それになにか繋がる部分があるのかもしれないなあと思いました。
数回にわたり、周倉の分析と民間伝承をたくさん紹介しました。
今回かなり時間をかけて日本で知られていないものを多数調べてまとめましたが、周倉はほんと奥が深い人物だなあとつくづく思いました。
単なる架空人物として片づけることは出来ない人物だと思います。興味をもっていただけたらうれしいです。
岡本伸也:英傑群像代表。「KOBE鉄人三国志ギャラリー」館長。元「KOBE三国志ガーデン」館長。三国志や古代中華系のお仕事で20年以上活動中。三国志雑誌・コラム等執筆。三国志エンタメサイトや三国志グッズを取り扱うサイトを運営。「三国志祭」などイベント企画。漫画家「横山光輝」氏の故郷&関帝廟(関羽を祀る)のある神戸で町おこし活動中!