三つ子の魂百までと言われますが、幼少期に限らず、ゲームを遊んだ思い出は脳に深く刻まれるもの。
何年、何十年たっても、「なんでオレ、こんなこと覚えてるんだろ…」と愕然とするような記憶が残りがちでして。
何年、何十年たっても、「なんでオレ、こんなこと覚えてるんだろ…」と愕然とするような記憶が残りがちでして。
そんな脳のメモリ(記憶・容量)を無駄づかいしている例を語ります! 今回は、33年前にSFC(スーパーファミコン)で登場した『ファイナルファンタジーIV』について紹介します。
ストーリー&キャラ重視のRPGに抵抗を感じつつも、最終的には感動巨編に納得
“太古”の作品である『ザ・ブラックオニキス』や『ウィザードリィ』でロールプレイングゲーム(RPG)の魅力を知った筆者的に、RPGといえば“キャラメイクした自分の分身を成長させつつ闘う物語”という不文律がありました。
日本が誇る2大RPGシリーズの『ドラゴンクエスト』&『ファイナルファンタジー』も、それぞれ3作目までは基本的にこの法則どおりで、主人公たちの設定はあるものの口数は少なく(特にドラクエ)、自分自身がその世界で冒険しているような没頭感を楽しませてくれたのです。
特に各『III』はキャラメイクのシステムが秀逸で、試行錯誤しながら自分のパーティを育成するのが非常に面白く、今でもシリーズ最高傑作だと思っています。
しかし、スーパーファミコンの美麗なグラフィックで登場した『FF4』は、私の“RPG観”を大きく揺るがすものでした。
まず、キャラクターがかなり個性的で、それぞれ勝手に行動するし、勝手にしゃべりまくる。
しかも、ストーリー進行に応じていなくなったり追加されたりするため、これまでのRPGのように“自分のパーティで闘っていく”という感覚が薄く、移動やバトルの操作はできるものの、おおむね“テレビドラマや小説を見ているだけ”という受け身の感覚がぬぐえなかったんですよね。(FF2もキャラが入れ替わりますが、フリオニール、マリア、ガイは固定で4キャラ目が入れ替わるシステムでした)
さらにはストーリーが進むにつれてゲーム内の世界も変貌していくため、“以前いた場所に戻れない(宝箱とか見逃してたら取り返しがつかない)”という不自由な思いもあり(これはFF2やFF3にもあったかもですが)、ここでも自由に冒険している感覚が疎外され、「思ってたのと違う……」という気持ちを常にかかえながらプレイしていたような気がします。
しかし、そんなネガティブな感情とは裏腹に、プレイ意欲がめちゃくちゃ高かったのも事実。
ゲームとしての自由度が(比較的)低いぶん、ストーリーの面白さやキャラの魅力は抜群で、まさに面白いテレビドラマや小説にハマっているときのように、「次はどうなっちまうんだ⁉」という“先の見たさ”がハンパなかった覚えがあります。
今でもふんわり記憶に残っているインパクトのあるシーンも多く、定番のパロム&ポロムのあのシーン、テラやシドのあのシーンでは、さすがに感情が大きく揺さぶられましたね……(※一応ネタバレなしにて、未プレイの方は今からでもぜひ!)。
ゴルベーザという強大なライバルキャラの描き方も見事で、そのラストシーンも含めて大きな存在感を示していました。もちろん主人公のセシル、親友のカインほか、さまざまな仲間たちとの重厚な人間ドラマがあってのことですが!
というわけで、当時19歳だった筆者が疑惑のまなざしでスタートした本作のプレイは、最終的に「これはこれでアリ!」という結論になりました。まあ、どちらかというと前述のとおり『FF3』のほうが好きなんですが(笑)、まったく別のジャンルとして『FF4』も好き、という感覚です。
余談ですが、ゴルベーザ四天王の“土のスカルミリョーネ、水のカイナッツォ、風のバルバリシア、火のルビカンテ”という中二心をくすぐるネーミングセンス……当時のスクエニRPGでよく同様案件を見かけた気もしますが、めっちゃ好きです! このあとしばらくは、よくRPGの自キャラに“〇〇(漢字)の△△△(カタカナ)”などとつけてニヤニヤしていましたね(やや黒歴史)。
栗田親方:ゲーセン黎明期からゲームにハマり、ハイスコアラー⇒格闘ゲーマーと転身しつつゲーム人生を楽しんでいます。生涯現役。