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80年代のバンダイを振り返る。山科誠への社長交代はどんな影響をもたらしたのか?【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:電撃オンライン

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第26回

6-6 創業者から渡されたバトンは? おもちゃ大手3社

 80年代のおもちゃ大手3社のあらましを描いて、6章を締めくくる。

 80年代に、各社は創業者から2代目・3代目への事業の承継があった。本連載の重要なテーマは“創業の地・創業の時・そして転換”だが、各社が転換の時を迎えたわけだ。その転換のときには、3社それぞれのドラマがあった。

 背後でドラマの演出を担ったのは、1985年のプラザ合意に始まる円高で、このときドルに対して250円だった為替は1987年には150円を割り、1995年4月19日には79円75銭まで上がって日本の輸出企業を締め上げた。さらに1973年を出生数の第2のピーク(団塊ジュニア)として以降、少子化は着実に進行し、その後の玩具業界には継続的に脅威であり続けた。

 バンダイの創業者・山科直治から長男の山科誠への社長交代は1980年5月。同年7月にガンプラ『1/144ガンダム』と『1/100ガンダム』の発売、1981年にドールや消しゴムなど、マンガ『Dr.スランプ』の一連のマーチャンダイジング、1983年に『カプセル玩具キン肉マン』通称“キン消し”などが大ブームになって、『少年ジャンプ』、東映アニメ、ないしは日本サンライズ、創通エージェンシーと組んだキャラクター玩具路線が花開いた。

 山科誠新政権は順調な滑り出しを見せた。その戦略の目玉は、“事業の多角化”で、1981年玩具菓子、1983年アパレル事業、1987年生活雑貨、カプセルトーイ『ガシャポン』、1988年カードゲーム『カードダス』など、次々に玩具からの脱領域を進めた。付け加えれば、1983年3月には、株式上場に向けて、ポピーやバンダイ模型を含むグループ会社7社をバンダイに統合、CI(コーポレート アイデンティティ)を導入し新生バンダイの理念を明確化、“夢・クリエイション”をスローガンとし、1986年に東証2部上場を果たした。

 2024年現在のバンダイナムコグループ公式サイトにあるIR情報から中期戦略をひもとくと“IP軸戦略”という言葉が出てくる。ゲーム業界に精通した人なら、“IP(Intellectual Property の略。知的財産を意味する)”という言葉はゲーム大手の多くが企業メッセージのなかで使っていると承知している。首相官邸が2003年に立ち上げた“知的財産戦略本部”の知財(IP)戦略計画などから、“IP”という言葉が流布されるようになった。そして“IP軸戦略”はバンダイナムコ時代になって、石川祝男社長時代から使われ始めたと記憶する。

 その源流は、かつて“キャラクター玩具”と呼ばれていたものを、映像や出版といったメディアにも進出させ、そしてマーチャンダイジングの幅もファッションや雑貨にも拡大するという、山科誠の事業の多角化戦略にあったと思う。

 山科誠の事業の多角化戦略のなかでひときわ輝いていたのは、エレクトロニクスへの進出だが、ここではアニメを中核とする映像事業と、個人的に思い出深い出版事業を取り上げたい。

 1980年代に入るころから、アメリカではライブビデオやミュージックビデオのパッケージ化が人気となり、ビデオテープレコーダーの需要が高まっていった。山科誠のインタビューが、2021年の
4Gamer.netの記事に掲載されているが、そのなかで山科は、

 「バンダイで映像事業をやってみようと思ったのは、ちょうどそのころのことです。簡単に言えば、バンダイ独自でキャラクタービジネスを強化しようという狙いです。同じ目的で、漫画雑誌をやってみようと思いました。『週刊少年ジャンプ』の人気が急上昇していたころですね。ただ、キャラクタービジネスを手掛けるうえで重要なのは、やっぱり映画とテレビなので、映画かテレビ業界に入っていくしかないんです」

 と語っている。この思考回路は間違いではないが、同時代の空気からすれば、とてつもなく困難なことをこともなげに言っている、という印象だ。

 コンテンツの世界では出版でも映画でも音楽でもそれぞれの業界に“本業意識”というのがあって、この敷居を“本気で”乗り越えるには、トップの指導力と内部の協力が不可欠だ。もっと率直に言えば、おもちゃを本業とする社内の大勢の抵抗は大きかったのではないか。

 バンダイの映像事業の取っ掛かりは、六本木にビデオレンタル店を開店したことに始まる、とぼくは思っているが、あまり主観に流れるのもなんなので、バンダイナムコホールディングスのIR・投資情報のページにある『ファクトブック2023』の年表から、この時代の映像事業への進出の跡を追ってみよう。

  • 1982年10月 アニメーション、映画制作部門としてフロンティア事業部発足
  • 同年11月 (株)エモーション設立。日本ビデオ協会公認第1号のビデオショップ“エモーション”オープン
  • 1983年12月 業界初のオリジナル・ビデオ・アニメーション『ダロス』発売
  • 1984年4月 オリジナルビデオソフトの音楽と映像から作り出された『エアーコンディション・シリーズ』発売
  • 1987年5月 ウォルトディズニー社と契約。ビデオ作品を販売
  • 1988年4月 メディア事業部新設。映像事業への本格的な進出
  • 1989年10月 音楽分野に進出(“エモーション”レーベル発足)
  • 1992年10月 バンダイの映像事業をバンダイビジュアル(株) へ移管
  • 1994年3月 (株)サンライズをグループ会社化

 年表の冒頭にあるフロンティア事業部は、バンダイの中でまさに当時“辺境”だった映像事業、出版事業、パソコン事業を手掛けた部署だった。このときオープンしたというビデオショップは、六本木のロアビル近くのアネックスビルにあった。実際はビデオショップ、つまりセルだけでなく、レンタルショップもあったし、コミックショップ、レストラン、航空機のフライトシミュレーターなどもあった。

 『玩具通信』の記者時代の最後のころ、ぼくはこの六本木のビルにフロンティア事業部長を訪ねた覚えがある。発売前のパソコン『RX-78 GUNDAM』の実機を見せてもらいに行ったのだ。PCの発売が1983年7月だから、ぼくが訪ねたのは開店から数カ月経っていたかもしれない。このショップは六本木にふさわしい華やかさがあったが、いかにもメーカーのパイロットショップというたたずまいだった。つまり輝いて見えるけど実際の財布は緩まない感じ。

 ガンダムの名前を冠したパソコンは残念ながら短命に終わり、一時は30店舗に拡大したレンタルビデオの事業も赤字だった。CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ。TSUTAYAの運営などで知られる)やゲオがビデオレンタルを始めるのはもっと先のことで、時代を先取りしすぎた。この赤字をなんとかせねばと、バンダイは国内のいろいろな映像版権元から販売権を得て、映像パッケージ販売という新規ビジネスを確立した。

 さらに、レンタルビデオ事業で、ロイヤルティーを支払ったことを契機に、ディズニーの映像コンテンツパッケージを日本で販売できる契約を結んだ。ディズニーとの契約は2年で終わるが、1988年、これを機にメディア事業部を新設し、本格的な映像制作を開始する。

 本格開始前の映像制作は、『ダロス』(1983年)が日本で最初のOVAだったし、そのあとにある『エアーコンディション・シリーズ』というのはいわゆる環境音楽のシリーズで細野晴臣の『マーキュリック・ダンス』(1985年)などがあった。なにせこの時代のフロンティア事業部(あるいはエモーションレーベル、のちのバンダイビジュアル)はやたらと尖っていた。

 バンダイ初の劇場アニメ映画は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で1987年、OVAシリーズとしては大ヒットを記録した『機動警察パトレイバー』は1988年から。同年に東証1部上場、89年には3事業部制から、玩具第1・第2、ホビー、新規第1・新規第2,メディアの、6事業部制に拡大した。1994年のサンライズのグループ入りを機にバンダイの映像事業はさらに成長を加速する。

 私見だが、この時代のバンダイは、社長が大きな絵を描いて事業を拡大し、そのなかには大きな失敗もある、しかし先代のときから杉浦幸昌、村上克司といった実務家がこれを支え、宮河恭夫、渡辺繁、鵜之澤伸といったやんちゃな次世代が新規事業に取り組み、失敗のなかで成功を呼び込んだ、という印象が強い。

 映像事業同様に出版事業についても『ファクトブック2023』の年表から引用すると、1976年に『動く絵本』シリーズを刊行し、1978年には株式会社バンダイ出版を設立し出版事業に本格参入する。この会社は1983年の8社合併の際に本社に吸収されバンダイ出版部に衣替えした。新卒で小学館に入社し、出版事業に思い入れの深かった山科誠がトップダウンで立ち上げた。その出版活動は、当時のアイドルやパンダの写真集、『スター・ウォーズ』関連書など多岐にわたった。しかし、おもちゃと出版の流通の違いを考慮せずに大量生産したため、膨大(ぼうだい)な返品を食らうことになった。

 業界のことを知らない読者のために寄り道をして、おもちゃ業界と出版業界の違いとして“返品”の問題にも触れておく。おもちゃはメーカーが価格を指示しながら、返品については原則無返品という、メーカー有利の業界だった。もちろん慣行により不良返品の名のもとに数%の返品は許容されていたが、出版のように30%を超えるようなことはなかった。

 書籍・雑誌が返品自由なのは、販売委託制度があるからで、書店に並ぶ商品は、その時点ではいまだ出版社の財産であり、これが販売された時点で書店に売り上げが立つという理屈だから、書店は売れ残った商品を自由に出版社に返品できる。

 これに対しおもちゃは、一般商品同様に販売側が仕入責任を負うから、おおっぴらに返品はできない。バンダイの人たちは、出版業界は当たり前に返品を受け付け、丁寧に改装して再出荷するという習慣があることを知らなかった。おもちゃ業界の返品は原則不良品で、在庫は悪だ。その後、出版業界の習慣を知っても採用する気はなかったらしい。

 そういう本社の動きとは別に、静岡のバンダイ模型の現場から、いわばボトムアップ的に出版事業が始まった。定型封筒サイズの販促用の冊子『模型情報』(冊子名は『CROSS OVER FANZINE』)からスタートし、模型情報誌『B-CLUB』発行(1985年)に至る流れがあった。最初は模型店でのみ販売していた『B-CLUB』は、好評につき取次に卸すことになり、模型のデザイン部・模型情報編集係が東京に移動し、ほぼ返本対応しかしていなかった浅草の出版課(部から格下げされた)と合流し“新規事業部2部・出版課”となる。

 これ以降のバンダイの出版物は、『B-CLUB』、販促物としての『模型情報』、派生するアニメ・特撮ムック、月刊マンガ誌『サイバーコミック』の発行など、ホビー、アニメ系に特化し一定の地位と評価を得るが、ビジネス的には赤字が続いた。1993年10月に創業間もないメディアワークス(つまりぼくたちの会社)に、事業を移管することになる。

 メディアワークスとの関係については次章に譲ることにして、バンダイの出版事業が大きくはじけることがなかった理由は、講談社、小学館、集英社といった大手出版社からライセンスを受ける立場としては、当然だったかもしれない。集英社の『少年ジャンプ』で『キン肉マン』の連載開始が1979年、『Dr.スランプ』が1980年、小学館『コロコロコミック』の創刊が1977年、『機動戦士ガンダム』のマンガ連載があった講談社『コミックボンボン』の創刊が1981年だ。これ以降は、特にライセンスを受けて商品開発をする現場としては、大手出版社とまともにぶつかる雑誌コンテンツ(マンガやホビー情報など)の掲載、あるいは少年マンガ誌の創刊などは難しかっただろう。

 おのずと商品ラインナップはニッチな書籍扱いに限られた。

 第11回に1993年の山科誠社長のバンダイ方針発表会の発言を掲載した。その一部を採録すれば「これからバンダイが進める事業を総称すれば『マルチメディアエンタテインメント』だ。21世紀に生き残り、成長するためにはデジタルの技術、開発力を持つことが不可欠だ。これからはインターナショナルでなければ生き残れない」と言っている。
 おもちゃ業界の範囲内で言えば、『たまごっち』のようなエレクトロニクス玩具、『ワンダースワン』のような携帯ゲーム機、TVゲームソフトの開発などが“守備範囲”となろう。1993年のあいさつでも、エレクトロニクスへの取り組みが少子化対策として奏功したと発言した。しかし山科誠の構想は、その守備範囲を超えていく。

 山科は1996年にマルチメディア端末の『ピピンアットマーク』を発売し、新時代を切り拓こうとした。さらに1997年1月には、セガとの合併が社内からの反発を受け破談となり、その責任を取る形で同年5月には社長職を引くことになった。

 そんなことがあったから、その後のバンダイが混乱のうちに企業活動が衰退したかと言えば、むしろその後、弾みをつけるように成長しバンダイナムコグループへ発展する。この時代があったからこそ、人材も育ちM&Aの機会にも恵まれ、その後のバンダイナムコグループがあった。失敗と成功の振れ幅が大きいのがバンダイの特徴で、この先も話題は満載だ。

 バンダイの話が思わず長くなった。タカラに話を移そう。
【毎週火曜/金曜に更新予定です】

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