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群雄割拠のファミコン誌たちのこと&ハドソンについての思い出を振り返る【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第25回

6-5 ゲーム業界の形成2:ファミコン周辺に集う

 これまでPCゲームもファミコンゲームもアーケードゲームも均等に扱ってきた『コンプティーク』からファミコン系を排除し、PC系やゲーム系読み物に転換し、ゲーム誌『マル勝ファミコン』を創刊しようと決めるには勇気が必要だった。これだけ大きな転換は読者離れの原因になり得るからだ。

 ファミコン誌創刊のきっかけは、ライバルの徳間書店のPCゲーム誌『テクノポリス』から1985年7月に『ファミリーコンピュータMagazine』が派生的に創刊されたことだった。最初ぼくたちは、この雑誌に懐疑的だった。ファミコンは任天堂のもので、少なくとも広告的にはまったくウマ味がない。いろいろなハードやソフトが競い合ってこそ市場を形成し、雑誌が必要とされると思っていた。

 しばらく静観を決め込んだが、2カ月後に『スーパーマリオブラザーズ』が発売され空気が一変した。KADOKAWAの社史でその衝撃を編集部の塚田正晃が述懐しているので再録したい。

 「(『スーパーマリオブラザーズ』は)とにかくあそこにもここにも発見があって見つけたくて仕方がない。先に行けば新たな発見がある。結果寝る間を惜しんでゲームに没頭する。ゲーム中毒になる感覚。本格的な謎解き攻略法と隠れキャラ情報、マップ情報が求められ、ゲーム雑誌の必要性、重要性を感じる初めてのゲームだった」

 任天堂から試遊用のソフトが到着し、みんなでモニターを囲んで、なにかを発見するたびに歓声を上げた。ファミコン専門の雑誌が必要だと思えるインパクトがあった。結局、徳間書店が1985年7月に月刊で創刊した『ファミリーコンピュータMagazine』を、角川は1986年4月に創刊した『マル勝ファミコン』を月2回刊行にすることで優位に立とうとした。対する徳間書店はこれを隔週刊行で迎え撃つ。そこに『ASCII』が1986年6月にやはり隔週刊行でこれらを追う(1991年7月より週刊誌化)。

 さらに学研やJICC出版局が参戦し、激しいゲーム雑誌戦争が始まった。のちにソフトバンクのゲーム総合誌『Beep』がこの戦争に乗り遅れ勢いを失ったのを見て、背筋が寒くなったのを覚えている。もっとも版元のソフトバンクはすでに出版事業には見切りをつけ始めていたから、たいした問題ではなかっただろうが。

 さて、アタリの失敗が、やはり教訓になったのだろうか。初期の任天堂は、早い時期にサードバーティにゲームソフト開発を許諾するが、製造においても流通においても実に統制が効いていた。許諾料を徴収し、ロムカートリッジの製造を請け負い、流通においては花札の時代から保持していた流通組織“初心会”を通さなければならなかった(ただし初期のナムコは製造と流通は独自だったらしい)。

 任天堂の山内溥は参入するソフトメーカーの経営者への影響力を時に威圧的ともいえる形で保持し、高い品質のソフトの市場投入をサードパーティに求めた。90年代に入ると粗悪品の洪水を阻止するためにサードパーティに対し、発売本数の制限まで課した。

 1989年以降、幕張メッセで“任天堂スペースワールド”と称するイベントが開催されるようになるが、その主催は任天堂でなく初心会だった。サードパーティだけでなく流通に対してもその力は絶大だったことがわかる。こうした統制は一部に不平不満を生んだが、“アタリの失敗”を(たぶん)知っている業界人はこれを受け入れ、巨大なファミコン市場の形成に協力することになった。

 任天堂以外の会社から初めてソフトが発売されたのは、ぼくはナムコやタイトーのようなアーケード系のゲーム会社だと思い込んでいた。家庭用ゲーム機のウリのひとつに“ゲームセンターのゲームが家で遊べる”というキャッチコピーがあって、実際アーケード系ゲームは歓迎された。しかし一番乗りはナムコでもタイトーでもなく、当時札幌でPCゲームの通信販売をしていたハドソンだった。

ハドソンについての記憶を掘り下げてみる

 これは、ファミコンで任天堂と、PCソフトでハドソンと協業していたシャープの取り持つ縁だったようだ。一応書き記しておくと、1984年7月にハドソンの『ロードランナー』、『ナッツ&ミルク』、1984年9月にナムコの『ギャラクシアン』、1985年2月にジャレコの『エクセリオン』、1985年4月にタイトーの『スペースインベーダー』、同4月にコナミの『イー・アル・カンフー』、『けっきょく南極大冒険』といった順だった。

 ハドソンについて掘り下げよう。ニセコ出身の工藤裕司、浩兄弟は、1973年に札幌でアマチュア無線の店を開業したがパッとせず、パソコンショップに転身してからマイコン少年がたむろするようになり活気づいた。アルバイトで雇った北大生の中本伸一が社員となってゲーム開発を始めたのが飛躍のきっかけとなった。シャープMZ80-K用のゲームソフトを最初は店頭売りしていたが、1979年にシャープの後押しもあってパソコン誌に広告を掲載し、通信販売をするようになって全国区になった。

 ぼくが初めてハドソンの東京の事務所を訪ねたのは、おそらく『コンプティーク』創刊時の1983年の秋から冬、あるいは1984年に入っていたかもしれない。最初の東京の事務所は麹町にあった。雑誌への広告掲載をお願いすべく、ぼくは東京事務所の大里幸夫を訪ねた。

 大里はのちにハドソンの専務取締役に昇格するが、初めて会ったときは博報堂から転職したばかりだったと思う。そこで広告をもらえた記憶はないが、大里は、ぼくがおもちゃ業界の出身であることを知ると、ぼくと同じようにおもちゃ業界の雑誌社からフリーとなって子ども向けのガジェットのライターをしているある人を紹介してほしいと頼まれた。じつはおもちゃ業界、とりわけファミコンの流通について知りたいのだと言う。おもちゃ業界のことならぼくのほうが詳しい。ぼくに聞いてくれと、初対面で売り込んだ。

 そこからハドソンとの濃密な関係が始まった。ぼくは大里の要望するレポートを何日かかけて仕上げた。おもちゃ業界のあらまし、商習慣や初心会のことなど。そうして信頼を得た。

 そのうち、開発途上にあったファミコンで作動するゲームを見せられた。ランナー君というキャラを操り、いくつかの階層にわかれた床とハシゴによって構成された地下鉱脈にある金塊を集めるという、アクションにパズル性を加えたゲームだった。アメリカのブローダーバンドの『ロードランナー』だ。

 『ロードランナー』はすでに1983年秋にはシステムソフトからPC版が発売されていた。これがファミコンに移植されたらどれだけ売れるか専門家の意見を聞きたいとのことだった。折しも晴海の見本市会場(お台場に移転する前だ)で、玩具見本市が開催され、全国から流通業者が東京に集まるタイミングだった。

 当時、『玩具通信』の時代に親しくしていた全国の玩具店の店主の2世たちの勉強会があって、近くのホテルで総会をやるという。その総会の合間の時間を使って、ゲームを見てもらうようぼくが手配した。総会の議題が終了した頃合いに会場に機材を持ち込み、中本伸一が実演をして見せた。会場に集まった若い玩具店の店主たち10人ぐらいが熱心にその様子を見守った。

 ひととおりの試技を終え、さてこれはどのくらい売れるだろうかと、恐る恐る中本が問うた。「中本さんはどれぐらい売りたいのですか」と逆に誰かが問いかけた。中本は(ぼくのおぼろげな記憶では)2~3万本ぐらいの数字を口にしたと思う。当時のPCゲームの初速ではありえない数字だったはずだが、誰ともなく笑いが漏れた。そして誰かが、

 「これなら50万本は間違いなく売れます。もっと自信を持ちなさい」

 そう言って中本を励ました。その場にいたハドソン側の一同が嬉しさ交じりの驚愕の表情を見せた。当時のおもちゃ屋さんはラジコン、LSIゲーム、TVゲームと、大量販売のできるヒット商品の規模を、子どもマーケットの爆発力を知っていた。PCのゲームはまだ市場が生まれたばかりで、なにも規範となるものがなかったから、見当もつかなかった、ということではなかったか。そこから発売までのハドソンの動きは、実に見事だった。ともあれ、これを機に一挙にファミコンのサードパーティが増えた。

 そんなことがあって、ぼくは大里や中本からずいぶん優遇された。初期のハドソンのパッケージデザインと取説の仕事を請け負ったりした。1985年6月発売の『スターフォース』のときは、大好きだった漫画家の板橋しゅうほう先生にパッケージイラストをお願いしに京都まで出張した記憶がある。板橋しゅうほう先生には新手の仕事で喜んでくださったと記憶している。

 それならゲーム雑誌として情報的に優遇されたかと言えば、実はそうでもなかった。ハドソンがえらかったのは、低年齢層を開拓するためにゲーム雑誌より『コロコロコミック』との関係を強めていった。『ドラえもん』の版権がほしかったからだ。これはやむを得なかったが少し悔しかった。

 しかし、のちにハドソンが、ファミコンの次世代機としてNECと組んでPCエンジン(1987年)を発売したときは、対象年齢を上に設定していたこともあって、情報的にも優遇され、ぼくたちの『マル勝PCエンジン』は早い時期に類誌一番誌になることができた。PCエンジンのシェア拡大を狙った戦略的なソフト『天外魔境』は、当時角川メディア・オフィスの社員だった岩崎啓眞(ひろまさ)のプロジェクトとして組成された。

 札幌のハドソンを訪ねると、ビリヤード台、麻雀台をはじめ遊び道具が散乱していた。屋上には蒸気機関で走る鉄道模型があって、春になれば会長自らまたがって走らせる。高橋名人は蒸気機関車のメンテナンス要員だったと、本人から聞いた。敷地内に焼き物の窯があって、中本は陶器を焼いていた。とにかく自由過ぎる社風だった。いまはもうあんな空気を醸し出す会社はないだろうと思う。

 福嶋康博がゲーム事業に参入するのは1982年と遅く、また先に紹介した人々のようにパソコンやゲームに魅せられたわけでもなかった。最初から事業で成功することを目指し、中野ブロードウェイの情報誌や公団情報誌の発行、持ち帰り専門の寿司事業、オフィスコンピュータの代理店など、さまざまな事業を手掛けたその先に、ゲームという新規事業を発見し、エニックスを創業した。

 福嶋は、自分は好き嫌いで事業をやったことがない、時代の変化を見て、そのなかで何が求められているかを見極めるんだ、とよく言っていた。アイデアとして秀逸だったのは、アマチュアのゲームプログラムコンテストから始めたことだった。アマチュアがパソコン雑誌に自作のプログラムを投稿して掲載されれば満足、という時代に優勝賞金100万円(準優勝50万円、入賞10万円)は魅力的だった。入選作をそのまま商品化せずに、ブラッシュアップして完成度を高めてから発売したことも、事業の目的をよくわきまえていた証拠だ。なんであれ、新人賞を催しと捉えるかビジネスと捉えるかで大きく取り組みが変わってくるものだ。

 そこから中村光一の『ドアドア』(1983年)、堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』(1983年)が生まれ、さらに2人が力を合わせて開発した『ドラゴンクエスト』(1986年)につながる。

 ゲーム事業のみにこだわることなく、福嶋は『ドラゴンクエスト』のキャラクターマーチャンダイジングの一環として文具とマンガ出版も手掛けた。マンガ出版は『ドラゴンクエスト』の公式ガイドブックに始まり、『4コママンガ劇場』、そして『月刊少年ガンガン』の創刊(1991年)と発展していった。

 『月刊少年ガンガン』の創刊に当たって、賞金総額1,000万円の新人賞を仕掛けたときは、こんな大胆な少年誌の創刊の仕方があるのかとぼくは感心した。ぼくたち角川メディア・オフィスは、すでに『コミックコンプ』を1988年に創刊していたが、そのデビューはもっと慎重かつ臆病だった。新人発掘に時間がかかったからだ。新人は”小集講”(小学館・集英社・講談社)に集まると、業界では言われていた。大手マンガ出版社が作家という富を独占していたから、ぼくたちは、足を使って作家をかき集めなければならなかった。

 新人発掘に賞金1,000万円を投じるという方法は、小集講に集まる富の独占に風穴を開ける有効できわめて合理的な方法だった。うろ覚えだが、コンテストの宣材ポスターには、ドラクエのスライムの絵と1,000万円の文字が輝いていた。当時福嶋は『少年ジャンプ』とフジテレビが組んだことが勝利の方程式だ、と語っていた。鳥山明の描くキャラの魅力とTVアニメの訴求力も成功の重要なカギだった。

 PC系からファミコン市場に参入したゲームメーカーの創業者は、みな個性的だった。ヘンク・ロジャース、襟川陽一・恵子、それにエニックスの福嶋康博、スクウェアの宮本雅史など、ありえないほどのスピードで成長し、あっという間に資産家になっていったが、みんなどこかやんちゃで自由な空気をまとっていた。心の芯に、楽しいものに夢中になった創業時の思い出があるからだろうか。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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