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1980年代後半の『コンプティーク』のお話。今で言うと“YouTubeのゲーム実況”にあたる企画を誌面で手掛けた人物がいた。それは…【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第24回

前回に引き続き、1980年代後半の『コンプティーク』およびその周辺の話を振り返っていく。

 ゲームとマンガの親和性に可能性を感じた角川メディア・オフィスは、1987年4月にコミック誌創刊準備室を立ちあげた。この準備室が最初に取り組んだのが、同じ1987年に発売された日本ファルコムのPC向けRPG『ソーサリアン』のコミック化だった。

 『ソーサリアン』はシステムに拡張性があって、次々に拡張シナリオが発売された。これらのシナリオを次々にマンガ化したのが『ドラゴンコミックス ソーサリアンシリーズ』で全12巻。『失われたタリスマン』(吉富昭仁)、『暗黒の魔道士』(羽衣翔)、『不老長寿の水』(迎夏生)、『天の神々たち』(真鍋譲治)などが次々にリリースされ、1988年3月創刊の月刊コミック誌『コミックコンプ』の主力作家の育成に大きく貢献することになった。

 福岡天神にあったシステムソフトは、九州大学の出身者が多かった。シミュレーションゲーム『大戦略』、シミュレーションRPG『ティル・ナ・ノーグ』、それからゲームデザイナーに黒田幸弘を起用したロボット物のシミュレーションゲーム『ロボクラッシュ』、戦国シミュレーションゲーム『天下統一』などで緊密な連携を築いていた。

 少し寄り道する。ぼくが執筆したKADOKAWAの社史(『KADOKAWAのメディアミックス全史 サブカルチャーの創造と発展』2021年)では、あまり触れられなかったのだが、ゲームデザイナーとして活躍された黒田幸弘のことに触れておきたい。

 『コンプティーク』創刊当時、講談社の『ホットドッグ・プレス』という雑誌に、海外ミステリーの翻訳家で、パズルやゲームの研究家でもあった田中潤司の“ゲーム迷宮への招待状”という連載企画があった。このころ百貨店のおもちゃ売り場にアダルトゲームコーナー(大人も楽しめるという意味)が出始めた時期で、田中の連載では海外の珍しいボードゲームやパズルなどを紹介していたから、ぼくは『玩具通信』の記者時代から愛読していた。

 『コンプティーク』でもコンピュータゲームに限定せずに大人が楽しめるゲームの紹介記事がほしくて、ぼくはゲームデザイナーの鈴木銀一郎を訪ね、ゲームエッセイの執筆を依頼した。タイミング悪く氏が手掛けていた百科事典の編集の仕事が佳境で、多忙を理由に断られたのだが、優秀なゲームデザイナーがいるからと紹介されたのが黒田幸弘だった。

 “クロちゃんのRPG講座”は月刊化された1986年新年号から始まった連載コラムだ。海外の最新テーブルトークRPGや内外のコンピュータゲームなどをソフトな語り口でわかりやすく説明する内容で、また中野豪のクロちゃんのキャラクターイラストが面白おかしく、この連載はたちまち人気になった。黒田幸弘の連載は多岐にわたり、後に『D&Dがよくわかる本』(富士見文庫、1987年)。『クロちゃんのRPG見聞録』(富士見文庫、1989年)、『クロちゃんのRPG千夜一夜』(富士見文庫、1989年)などにまとめられシリーズ化された。

 システムソフトは黒田幸弘のゲームデザインによる戦国シミュレーションゲーム『天下統一』(PC98用は1989年)を発売、当然ゲームメディアは『コンプティーク』が主体となった。さらに黒田幸弘が監修した読者参加企画“ロボクラッシュ”のPCゲーム化(1991年)も手掛けた。

 この企画は読者に自分の作ったロボットを応募させ、ロボット同士をトーナメント形式で戦わせてトップを競うというもので、初回から1万通を超える応募があった。その人気はTRPG誌上リプレイ『ロードス島戦記』に次いだから、『コンプティーク』が類誌一番誌になる起爆剤となった。

 シミュレーションゲームのトップメーカー光栄の『信長の野望』(1983年)、『三国志』(1985年)、『蒼き狼と白き女鹿』(1988年)の歴史三部作、各々のシリーズ続編は、『コンプティーク』掲載の常連ゲームだった。

 こうした人気シミュレーションゲームについて、『コンプティーク』は、他のゲーム誌とはまったく違うアプローチで誌面紹介をした。ライター・榊涼介、イラスト・盛本康成のコンビで“秋葉原(アキバッパラと読ませた)シリーズ”とも呼ぶべき企画で、ゲームをリプレイ形式、あるいは小説化して読ませたのだ。単なる攻略法だけでなく、“リプレイ”“小説化”がゲームユーザーのニーズにマッチしているという発見は先行したテーブルトークRPGを誌上再現した『ロードス島戦記』で実証済みだった。

 いまで言えばYouTubeのゲーム実況のようなもので、この見せ方の発明者は、グループSNEの安田均だった。

 秋葉原くんが活躍するシリーズは、盛本康成の描くシミュレーション研究所のドクター四谷と大顔の秋葉原助手、御茶ノ水教授、それからイヌボンなどのキャラが躍動し人気企画となった。1990年3月号では、文庫版『秘本三国志Ⅱ』が付録となった。劉備玄徳や曹操などあらかじめ用意されたキャラクターのほかに新国王、つまり自分のキャラを作れるという機能を使ってアキバッパラたちが覇権を争うという趣向。のちに偽書シリーズ『偽書信長伝』(角川スニーカー文庫、1992年)などが文庫化された。

 光栄の創業者シブサワ・コウこと襟川陽一は、30歳の誕生日に奥さんの恵子にシャープの『MZ-80C』をプレゼントされ、そこからプログラミングを覚えゲーム作りにハマっていく。慶応大学の学生だったころ、日吉の下宿先のお嬢さんの恵子と知り合い、24歳で結婚する。

 大学を卒業後はサラリーマンをしていたが、父に呼び戻され、足利にある家業の染料工業薬品の卸問屋を引き継ぐことになった。時代は繊維産業斜陽のころで、取引先の倒産が相次ぎ、陽一は家業の廃業を看取るという、つらい仕事を引き受けた。父の会社は閉じたが、やはり悔しくて、自分の会社として染料販売の会社として光栄を立ち上げたのが、1978年。28歳になろうとしていた。しかし、逆風のなかにある繊維産業の一角で、染料卸の仕事を継続することは難しかった。時代の流れに抗うことはできない。経営書を読みあさり、出口を探る日々が続いた。そんなときにパソコンと出会った。

 最初は自分の仕事に役立つように、在庫管理システムや見積書の計算ソフトなどを作っていたが、仕事が終わると自分でゲームソフトを作るようになった。そしてプログラミングの練習がてらに作った『川中島の合戦』(1981年)が、ゲームソフト会社としての光栄の出世作となった。

 父の会社の資産処分をする毎日が続いたときに貸借対照表、損益計算書など財務諸表の何たるかを身をもって学んだと、その著書『シブサワ・コウ 0から1を創造する力』(シブサワ・コウ、PHP、2017年)で記している。また『信長の野望』のヒットについて、戦国武将を経営者という視点でとらえたことがゲームをリアルにした、と述べている。いわゆるウォー・シミュレーションゲームは、局地戦の戦闘を競うものが多かった。信長の魅力は戦争に強いだけでなく経営者としての創造性と革新性にある。これをシステムに取り込んだことで革新的なゲームの創造につながった。廃業から創業という忍苦の時代がここで生きたのだろう。

 光栄という会社は開発のシブサワ・コウと、それ以外の財務や営業、商品デザインをパートナーの襟川恵子が分担するという二人三脚でやってきた。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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