連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第23回
今回は『コンプティーク』の企画に即して、思い出深いPCゲーム系ソフトハウスを紹介していこう。
初期の『コンプティーク』の表紙をたびたび飾ったゲームに『ザ・ブラックオニキス』がある。1986年7月号では「いまBPSが最高!」という特集タイトルで、すでに発売されている『ザ・ブラックオニキス』、『ザ・ファイヤークリスタル』、それから発売予告が何度もされながらとうとう発売に至らなかった『ザ・ムーンストーン』の3部作を特集している。
この特集ではBPSを“RPGの家元”と紹介している。日本におけるPC向けRPGの火付け役のような存在が『ザ・ブラックオニキス』(※和製RPGの最古参とも呼べる1本)だった。発売はPC88向けが1984年1月で、当時人気を分けた日本ファルコムの『ドラゴンスレイヤー』が同年10月(PC88)、T&Eソフトの『ハイドライド』が同年12月(PC88)だったから、確かに先駆けていた。
BPS社長のヘンク・ロジャースは、ハワイ大学の学生時代に仲間たちと一緒にテーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』にトチ狂い(と特集号に書かれているママ)、パソコンで遊べるRPGを作ることを志し、日本に移住してから英語教師をしながら仲間とともに『ザ・ブラックオニキス』を作った。
ダンジョンの様子を3Dで描きモンスターとの戦いを中心に据えたシナリオ作りで、明らかに『ウィザードリィ』ライクだが、攻撃の簡略化(魔法は使えない)などによりまだRPGに慣れていないユーザーに好評だった。
これを売り込むために、ヘンクとハワイ大学からの仲間だったコンラッド・小沢がしょっちゅう編集部を訪ねて来ていた。当時の編集部は四谷駅前の小さなビルの一室で、夫婦2人に子どもができたら手狭になるぐらいのスペースだったから、来訪者とは席に座って隣同士でゲーム(あるいは打合せ)をするしかなかった。まるで通いの社員のようにひんぱんに来てはゲームを、そしてアメリカの本場のRPG熱を持ち込んでくれた。
ところで、新海誠監督の『君の名は。』に、四ツ谷駅前の情景が映し出されるシーンがあって、そのなかにぼくたちの入居していたビルも並んでいて驚いた。赤坂にあったコンプティーク社と決別して、勝手に選んだ最初のぼくたちのちっぽけな城、緑色のペンキが塗られた古ーいビルが写し取られていた。
次に日本ファルコム。この会社との関係は多岐にわたった。
80年代の『コンプティーク』の表紙には『ドラゴンスレイヤー』、『ザナドゥ』、『イース』、『ソーサリアン』といったタイトルが絶えずでかでかと表記された。いずれも日本ファルコムのPC向けRPGで、読者の人気が高かった。
日本ファルコム創業者の加藤正幸は、70年代後半まで日野自動車のシステムエンジニアをしていた。その彼が、タイに赴任していたとき、バンコクの展示会で『アップルⅡ』を見て衝撃を受けたという。
彼にとって、それまでコンピュータと言えばレンタル料を毎月何千円も払って扱うもので、しかも冷蔵庫みたいにでかくてキーボードはあったけどモニターもない代物だったから、『アップルⅡ』のたたずまい、パーソナルコンピュータという概念、コンピュータが個人レベルで仕事をしたり遊んだりできるものに変わったことに衝撃を受けたのだった。
で、タイの駐在が明け、日本に戻ってから『アップルⅡ』を購入し、しばらくは雑誌の『ASCII』に掲載されているゲームのプログラムを打ちこんだり、自分でゲームのプログラミングをしたりして遊んでいた。そこから会社を辞め、Appleの販売代理店を開業した。最初は暇で販売用のゲームを遊んだり、そのうち遊びに来る人たちを誘ってゲームを作ったりし始めたのが、ゲームソフトハウスに転身するきっかけだったという。
この“店”が才能の溜まり場となって、この会社から天才プログラマー木屋善夫、ゲームミュージックの古代祐三、アニメーション監督の新海誠、漫画家の都築和彦などが巣立った。パソコンショップやソフトハウス、ゲーム雑誌の編集部などが才能の溜まり場となるパターンはこの時代あちらこちらで見られた現象だ。『コンプティーク』の編集部もそうだった。
日本ファルコムと『コンプティーク』の関係は、人気ゲームを雑誌で紹介するという関係に留まらなかった。社長の加藤正幸がゲームミュージックのレコード化、ゲームのコミック化、小説化、アニメ化、マーチャンダイジングに積極的で、出版に際してはぼくたち『コンプティーク』を組手に指名してくれた。始まりは人気ゲーム『ザナドゥ』のコミカライズ(1987年)で、当時日本ファルコム社員だった都築和彦の作品だった。
『コンプティーク』は、月刊化2号目の1986年2月号から人気アニメーターの麻宮騎亜を起用したマンガ『新星紀ヴァグランツ』の連載が大好評だった。マンガ連載は類誌では初で、跡を追う雑誌が絶たなかった。気をよくして日本ファルコムのアクションアドベンチャーゲーム『ロマンシア』のマンガ連載を始め、マンガ連載2本立てとなったのが1987年新年号から。世界設定とキャラクターはゲームと同じだがストーリーはオリジナルで、大塚英志プロデュース、円英智作画、寺田憲史ストーリーという座組だった。
初期の『コンプティーク』の表紙をたびたび飾ったゲームに『ザ・ブラックオニキス』がある。1986年7月号では「いまBPSが最高!」という特集タイトルで、すでに発売されている『ザ・ブラックオニキス』、『ザ・ファイヤークリスタル』、それから発売予告が何度もされながらとうとう発売に至らなかった『ザ・ムーンストーン』の3部作を特集している。
この特集ではBPSを“RPGの家元”と紹介している。日本におけるPC向けRPGの火付け役のような存在が『ザ・ブラックオニキス』(※和製RPGの最古参とも呼べる1本)だった。発売はPC88向けが1984年1月で、当時人気を分けた日本ファルコムの『ドラゴンスレイヤー』が同年10月(PC88)、T&Eソフトの『ハイドライド』が同年12月(PC88)だったから、確かに先駆けていた。
BPS社長のヘンク・ロジャースは、ハワイ大学の学生時代に仲間たちと一緒にテーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』にトチ狂い(と特集号に書かれているママ)、パソコンで遊べるRPGを作ることを志し、日本に移住してから英語教師をしながら仲間とともに『ザ・ブラックオニキス』を作った。
ダンジョンの様子を3Dで描きモンスターとの戦いを中心に据えたシナリオ作りで、明らかに『ウィザードリィ』ライクだが、攻撃の簡略化(魔法は使えない)などによりまだRPGに慣れていないユーザーに好評だった。
これを売り込むために、ヘンクとハワイ大学からの仲間だったコンラッド・小沢がしょっちゅう編集部を訪ねて来ていた。当時の編集部は四谷駅前の小さなビルの一室で、夫婦2人に子どもができたら手狭になるぐらいのスペースだったから、来訪者とは席に座って隣同士でゲーム(あるいは打合せ)をするしかなかった。まるで通いの社員のようにひんぱんに来てはゲームを、そしてアメリカの本場のRPG熱を持ち込んでくれた。
ところで、新海誠監督の『君の名は。』に、四ツ谷駅前の情景が映し出されるシーンがあって、そのなかにぼくたちの入居していたビルも並んでいて驚いた。赤坂にあったコンプティーク社と決別して、勝手に選んだ最初のぼくたちのちっぽけな城、緑色のペンキが塗られた古ーいビルが写し取られていた。
次に日本ファルコム。この会社との関係は多岐にわたった。
80年代の『コンプティーク』の表紙には『ドラゴンスレイヤー』、『ザナドゥ』、『イース』、『ソーサリアン』といったタイトルが絶えずでかでかと表記された。いずれも日本ファルコムのPC向けRPGで、読者の人気が高かった。
日本ファルコム創業者の加藤正幸は、70年代後半まで日野自動車のシステムエンジニアをしていた。その彼が、タイに赴任していたとき、バンコクの展示会で『アップルⅡ』を見て衝撃を受けたという。
彼にとって、それまでコンピュータと言えばレンタル料を毎月何千円も払って扱うもので、しかも冷蔵庫みたいにでかくてキーボードはあったけどモニターもない代物だったから、『アップルⅡ』のたたずまい、パーソナルコンピュータという概念、コンピュータが個人レベルで仕事をしたり遊んだりできるものに変わったことに衝撃を受けたのだった。
で、タイの駐在が明け、日本に戻ってから『アップルⅡ』を購入し、しばらくは雑誌の『ASCII』に掲載されているゲームのプログラムを打ちこんだり、自分でゲームのプログラミングをしたりして遊んでいた。そこから会社を辞め、Appleの販売代理店を開業した。最初は暇で販売用のゲームを遊んだり、そのうち遊びに来る人たちを誘ってゲームを作ったりし始めたのが、ゲームソフトハウスに転身するきっかけだったという。
この“店”が才能の溜まり場となって、この会社から天才プログラマー木屋善夫、ゲームミュージックの古代祐三、アニメーション監督の新海誠、漫画家の都築和彦などが巣立った。パソコンショップやソフトハウス、ゲーム雑誌の編集部などが才能の溜まり場となるパターンはこの時代あちらこちらで見られた現象だ。『コンプティーク』の編集部もそうだった。
日本ファルコムと『コンプティーク』の関係は、人気ゲームを雑誌で紹介するという関係に留まらなかった。社長の加藤正幸がゲームミュージックのレコード化、ゲームのコミック化、小説化、アニメ化、マーチャンダイジングに積極的で、出版に際してはぼくたち『コンプティーク』を組手に指名してくれた。始まりは人気ゲーム『ザナドゥ』のコミカライズ(1987年)で、当時日本ファルコム社員だった都築和彦の作品だった。
『コンプティーク』は、月刊化2号目の1986年2月号から人気アニメーターの麻宮騎亜を起用したマンガ『新星紀ヴァグランツ』の連載が大好評だった。マンガ連載は類誌では初で、跡を追う雑誌が絶たなかった。気をよくして日本ファルコムのアクションアドベンチャーゲーム『ロマンシア』のマンガ連載を始め、マンガ連載2本立てとなったのが1987年新年号から。世界設定とキャラクターはゲームと同じだがストーリーはオリジナルで、大塚英志プロデュース、円英智作画、寺田憲史ストーリーという座組だった。