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タカラという会社を時代の流れとともにたどる。天才型社長の後を継ぐことの難しさがわかる【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第27回

 60年代、70年代とタカラは順調に業績を伸ばし、80年代はさらに成長を加速した。『タカラの山 老舗玩具メーカー復活の軌跡』 (竹森健太郎、朝日新聞社、2002年)に、「安太は、1960年の『だっこちゃん』を皮切りに、67年の『リカちゃん』、80年の『チョロQ』と大ヒットを連発し、玩具業界で“おもちゃの神様”と称された」とある。

 佐藤安太はヒットメーカーであり、タカラという会社はマーケティングに長けた会社、というのがぼくのイメージだった。

 ファミコンが発売された後だったと思うが、当時『コロコロコミック』の副編集長だった平山隆(3代目編集長)にいろいろ話を伺う機会があった。その中に『チョロQ』をめぐってさまざまな企画を仕込んだエピソードがあった。わざと車体の何かが違うとか、ギアの色が違うとか、ゲームソフトでいえば‟バグ情報”のようなものを仕込んで読者に投稿させる、というような話だった。タカラと『コロコロ』はじつにWin-Winの関係だった。

 タカラはその後、1984年には株式の店頭公開。1985年の『トランスフォーマー』の日・米における超大ヒットを経て、1986年には東証2部に上場した。1988年には、音に反応してくねくねと花が踊る『フラワーロック』をヒットさせた。「創業者の安太が仕掛けた最後の大ヒット玩具」、「ライフエンタテインメント玩具の先駆け」といった言葉が『タカラの山』に記されている。

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▲フラワーロック
 その安太が、店頭公開(1984年、60歳)のころから次の時代を見据えて第一線から引き始める。長男の博久が1980年、次男の慶太が1982年入社で、長男である博久に後任を託すことを前提に、80年代末には博久が副社長に就任し、安太、博久の2頭体制に移行した。博久は安太のワンマン体制から“組織経営”へ体質改善を図る。1988年には、玩具から脱却し“複合多角経営”への変革を図る“業革計画”を発表、1991年東証第1部上場、1994年4月に、安太は会長に退き佐藤博久社長時代となる。このとき安太70歳、博久38歳。

 タカラの業績はしかし、91年3月期をピークに下り坂で、93年3月期には赤字転落し、博久が社長に就任した95年3月期の決算では経常利益で2億円の黒字転換だったが、96年には経常損失17億円、最終損失37億円の赤字転落となった。博久が社長就任の翌年に掲げた“新生タカラ中期3か年計画”は実質的なリストラ策で、人材流出が止まらなくなった。

 しかし、業績悪化の兆候は『トランスフォーマー』の大ヒットした1985年にすでに現れていたのだ。1985年のタカラの売り上げ500億円のうち、200億円以上が『トランスフォーマー』だったと、『タカラの山』にある。その年プラザ合意があって急な円高になった。当時米国ハズブロ向けに『トランスフォーマー』の開発を担っていた奥出信行は、このように振り返っている。

 「1985年に対米ドル240円だった為替が、1987年には160円まで急速に円高が進みました。当時の『トランスフォーマー』の売り上げが1億ドルでしたから、円換算で240億円あったものが160億円になった。さらに国内で生産していたのでは、出値が5割も上がってしまうから商談にならない。国内の協力工場を切って、海外(当時は香港と台湾)に生産を移さなければならなかった。生産の大転換でした」

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▲トランスフォーマー(コンボイ)
 そのうえ変わらぬテーマに少子化対策があったから、これまで育んできた定番商品だけでなくライフエンタテインメントへの大転換を図らなければならなかった。その第1弾が安太の『フラワーロック』だったわけだが、その後安太は開発の第一線から身を引いてしまう。それは父子合意のことだったのかもしれない。安太社長在任中から業績悪化の兆候があったから、博久は方向転換を図る必要があっただろう。

 博久は、創業者のワンマン経営から、カリスマに頼らない“組織経営”を提唱した。組織を細分化し権限を持たせ、部署単位で競争させる。不採算分をカットし、利益率が高いものや売り上げの多いものに生産を集中させる。時代の節目節目でヒット商品を生み出し成長してきた先代の経営が行き詰まったから、「大ヒットはいらない、ヒットに左右されない安定経営をめざす」と社員に説いたという。「モノへの愛着にこだわり過ぎてはいけない」とも言ったという。いずれもそれまでとは正反対の考え方だった。そこで多くの社員のやる気がそがれたという。

 博久は、1994年に社長の座に就いた。私見ではあるが、まさにこのときバトンを渡された後継者が、いったん業績の落ちた会社を蘇生させるのは至難の業だったと思う。経営の知識が豊富な博久のような管理系の社長が活躍するには、あまりにタイミングが悪かったのではないか。

 さらに1995年から、日本のあらゆる消費が右肩下がりになる。生産年齢人口が減少に転じたからだ。出版界も90年代半ばから、大手から中小まで苦い逆風を味わった。盤石に思われた小学館、集英社、講談社の大手3社さえ、とめどなく売り上げを落とし始めた時期だ。おもちゃ業界は出版業界よりも逆風が強かったと思う。

 戦後、輸出産業として立ち上がったおもちゃ業界は1985年以降の円高により国内に生産拠点を置くことが許されず、工場を海外に移転せざるを得なかった。ましてタカラはこのとき『トランスフォーマー』のアメリカ人気で一気に売り上げの海外比率が上がってしまった。ちなみに円高はその後も進み、1995年の春には83円~87円程度の円高となった。その影響は輸出企業には甚大だった。

 安太の時代は団塊の世代とともにあり、80年代半ばはその子どもたちとともにあった。その時代に安太は、ヒット商品を次々と生み出すことでタカラを成長させたが、『だっこちゃん』を通じていっときのブーム商品で終わることの恐ろしさをよく知っていた。だから安太のヒット商品には、男児向け玩具、女児向け玩具、ゲーム、それぞれのジャンルの“定番商品化”というマーケティングの裏付けがあったから、単なる一発商品では終わらなかった。

 『だっこちゃん』で泡と消えてしまうブーム商品の恐ろしさを知っていたから、ヒット商品でありながら定番として永遠に売れるものを目指した。定番商品とは“その年齢の子どもにはなくてはならない商品”のことで、団塊世代の成長とともに提供できたからヒット商品に化けることができた。

 タカラトミーという会社になってから、安太の時代だけでなく、旧来からのタカラ、トミーの定番商品の売れ行きが加速している。グローバル市場にそれらが受け入れられ、国内では2世代、3世代に定番商品が受け入れられているからだ。

 タカラの『フラワーロック』に始まるライフエンタテインメント商品群は、少子化時代に適応した優れたヒット商品だったけれど、あくまでファッション商品でありブーム商品で、安太の時代のヒット商品のように定番化する類のものではなかった。次々とヒットと失敗を繰り返さなければならないものだ。タカラの業績は、ヒットメーカーである次男の慶太の復帰で2000年代に回復するが、波乱が終わったわけではなかった。

 それにしても組織というものはむずかしい。とくに天才型社長をトップに戴く組織は。

 安太の天才は安太1人のもので、承継できない。しかも天賦の才も時代の子で、時代が変われば陳腐化することがある。安太はヒット商品を定番化できる時代に才能を発揮できた。組織が継承すべきは、時代が変わっても“富を再生産できる仕組みを組織の中に内在できるか”で、ニーズがある限り当たり前に富を再生産できる普通の製造業が当たり前にやっていることだが、おもちゃのようなファッション性のある産業は時にそれが難しい。

 出版もそういう面があるから、ぼくもいつもそのこと(富を再生産できる仕組みが組織に内在しているか)をチェックしなければならなかった。結果はどうだったか、いまだにわからない。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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