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トミーの発想の転換。“プロダクトアウト”から“マーケットイン”へと変化した流れを追う【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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佐藤辰男の連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第28回

 円高局面で国内に自社工場を多く持ち、かつ海外でも自社生産にこだわったトミーにも、曲折があった。

 トミーの創業者・富山栄市郎は、東京の江東の地の製造業者を代表する立場にあったことは前に述べた。戦前戦後の製造業者は職方(職人)と呼ばれ、金融や流通を牛耳るお店(たな)(卸商)の支配下にあった。1929年に始まる昭和恐慌の時代に、歩引きや返品条件に耐えられなくなった製造業者を糾合した組合を、結成しようと立ち上がったのが富山栄市郎だったことも前に述べた。

 「日本の玩具業界が世界に伍して戦うためには、玩具製造業者が切磋琢磨し、近代化・合理化を進め、最新の生産技術や設備を開発していかなければならない」という信念を富山栄市郎が持っていたと、『写真集 トミーマジック 世界を驚嘆させたおもちゃたち』(タカラトミー、2019年)には記されている。

 さらに『トミー75年史』(トミー、2000年)を読むと、富山栄市郎のモノづくりへのこだわりは、戦前戦後を通じて自社工場の近代化、合理的な製造工程へのこだわりに発展し、さらに業界こぞっての工場の近代化を希求するようになった。

 栄市郎は、下町一帯の製造業者120社で構成された東京輸出玩具工業協同組合の理事長として、おもちゃ団地を構想する。江東地区に散在するおもちゃ工場を、内陸部の栃木県壬生(みぶ)町に集団で移転させようとするもので、東京オリンピックの年1964年に、総面積26万4千坪の土地の造成が始まり、翌年には操業を開始した。

 江東地区は海抜0メートル地帯で戦後に台風による浸水もあったし、高度成長期に入って土地の高騰もあったから、多くの企業がこれに従った。栄市郎が夢見たのはおもちゃの町ドイツのニュルンベルクだったという。

 ドイツは19世紀末から戦間期(1918年~1939年)まで世界最大の玩具の輸出国で、ニュルンベルクはその一大玩具生産・集散地だった。通称“ニュルンベルク派”と言って、メルクリン、ビング、シュコーなどの玩具会社が集積していた。アメリカほど大規模・大量生産型ではなく、日本ほど零細でない伝統ある金属、木製、布帛(ふはく)の玩具メーカーが労働集約型の経営をしていて、栄市郎の時代にはよい指標であっただろう。

 ニュルンベルクを中心とするドイツのおもちゃがいまでも高級玩具として輝きを失わないのは、15世紀にはヨーロッパの宮廷用の高級玩具として、19世紀には新たに勃興したブルジョア家庭の教育用玩具として発展したからで、優雅なドールハウス、精巧なミニチュアカーや鉄道模型、一生愛玩できそうなぬいぐるみなど、モノづくりにこだわった栄市郎を魅了したことは容易に想像できる。

 しかし、おもちゃ団地は、栄市郎の理想通りの発展はしなかった。円高がそれを阻んだ。それにしても富山栄市郎という人は、まれに見る業界が誇るべき志操堅固の人だったと思う。

 1974年に栄市郎の後を継いだトミー2代目社長・富山允就もものづくりの人だった。プラスチック、ダイキャスト、エレクトロニクスといった素材とその精密加工技術の習得から始め、『プラレール』『トミカ』『ブリップ』『ウォーターゲーム』といった定番商品群を開発し、トミーの黄金期を築いた。

 生産の拡大に合わせ、流山、壬生に工場も新設し、急激な円高を背景に香港、シンガポール、アメリカ(トミー・コーポレーション)にも工場進出した。しかしこれらの工場群が、トミーの経営を圧迫するようになる。

 『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)では80年代のヒット商品を紹介しているが、『機動戦士ガンダム』のプラモデル『Dr.スランプ んちゃ アラレちゃん』『カプセル玩具キン肉マン』『聖闘士星矢 聖闘士聖衣体系(セイントクロスシリーズ)』(いずれもバンダイ)、『トランスフォーマー』『チョロQ』『ジェニー』(いずれもタカラ)、あるいは『ルービックキューブ』(ツクダオリジナル)、『ミニ四駆』(タミヤ)などがあげられているが、トミー商品は『ZOIDS』のみだ。

 この時代は、バンダイのキャラクター玩具とタカラのヒット商品、それからここには掲載されていないがファミコンのゲームソフトとサンリオ商品が全盛だった。

 『トミー75年史』に紹介されているこの時代のトミーの代表的な商品は、『ぴゅう太』も『オムニボット』も、優れた技術とアイデアが盛り込まれた商品だが、いかんせん値段が高すぎた。

 国内工場の利益を考慮したコスト積み上げ式の価格設定は、ハードとしてのファミコンの価格設定の対極にあった。『おりひめ』、『あむあむ』などは、ホビー商品として優れているが、サンリオのようなコミュニケーション性、女児向け玩具に必要なキラキラ感に欠ける。エレクトロニクスゲームも不発だった。いずれも“プロダクトアウト”の発想の悪い面が露呈した結果だった。

 トミーの業績は、1980年ごろまで順調に推移したが、その後84年2月期から86年2月期まで3期連続の赤字を計上することになった。そんなときに現会長の富山幹太郎が副社長に就任し、“第三創業”を唱えた。そして翌1986年には社長となって、プラザ合意後の経営改革を主導することになった。

 幹太郎が真っ先に取り組んだのがアメリカにあるトミー・コーポレーションの米国コレコへの売却と、東京、流山の2工場を閉鎖し、壬生、栃木の2工場に集約・一本化すること、その代替として、生産基地を香港、シンガポールなどアジア7カ所に移転することだった。

 国内工場の閉鎖を決めた当時のことを富山幹太郎は、日経新聞のインタビュー(2020年3月6日付)で、次のように語っている。

 「当時、売り上げ高の半分以上は北米だった。ただでさえ価格競争力が弱っていたところに、急激に円高が進む。「トミーは潰れる」という声まで聞こえ始めた。だが父は「いつか円安に戻るかもしれないし」などと言う。「おやじは、何よりも日本の工場を守りたかったんです。そりゃそうですよ、手塩にかけた職人さんがいっぱいいるんだもの」

 ・・・富山さんの示した計画に父は激高した。「何でそんなこと言えるんだ。閉めたとしても絶対1つだけだ」。温厚な父が、毎晩酒を飲みながら怒鳴り散らす。・・・

 リストラは社員の6割にあたる600人の削減もともなう。労組と交渉し銀行に説明する苦しい日々。工場閉鎖にはすべて立ち会った。「何とも言えない皆の目がぐさっと突き刺さるのを感じながら」紙に書いた挨拶文を読みあげるのがやっとだった。」

 幹太郎は、モノづくりにプライドをかけてきた“プロダクトアウト”の発想を“マーケットイン”に転換した。戦略的に外部開発会社やデザイン会社など多くの企業と提携しながら、“情報付加価値”を提供していく、という事業スタイルへの転換だ。他社が権利を持つキャラクタービジネスへの挑戦や、おもちゃを切り口にしたアニメーションなどの複合的なメディア展開に取り組んだ。それについて同じインタビューで次のように語る。

 「バンダイが大ヒットさせていた『キン肉マン消しゴム』を手に開発本部に乗り込んだ。「何だ、ただの消しゴムじゃないですか。動きもしない。うちのやる仕事じゃないですよ」と担当者は言い放つ。「たかが消しゴムが今、されど1億個も売れる。その理由を考えずに技術をひけらかす開発なんて」。父の誇ったものづくりの総本山の解体を決めた。分野ごとに外部の会社と組み、時流に乗った製品を出せばいい。

 その集大成が、苦心の末に96年に商品化の権利を取得した『ポケットモンスター』の玩具だった。「すごいのが出せましたねえ」。取引先の称賛で沸くお披露目の場に来た父は、ピカチュウを見て一言「なんだこの黄色いのは。わかんねえな」。「勝った、と思いました。おやじがいいとも悪いとも言えないものが出せた。会社が変われたんです」

 いい話だと思う。

 富山幹太郎は、1995年、玩具・雑貨・マルチメディアの3本柱に注力する「事業の多角化戦略」を発表した。これまで“本業”に徹してきた純玩具主義からの大きな転換だった。キャラクタービジネスへの挑戦や米国ハズブロ社との業務提携など、次々と新たな施策を展開した。

 トミーは、店頭公開が1997年、東証二部上場1999年、東証第一部昇格が2000年と、タカラ、バンダイからは後れを取った。いずれにせよ、リードカンパニー3社がそろって一部上場企業となり、おもちゃ業界に対する認知度は格段とアップして21世紀の幕を開けた。
【毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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