連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第11回
4-2 ポピーの誕生とその意味するもの
第10回では、時代背景を知ってもらいたくて、おもちゃの世界からいったん離れて角川書店とサンリオの話をしたが、再びおもちゃの世界に舞い戻って、ファミコン前夜の時代のキャラクター玩具の話をしよう。
いまでは、キャラクター玩具といえばバンダイの専売特許のように言われるが、その礎を築いたのはバンダイの子会社だったポピーだ。といってもポピーがキャラクター玩具の嚆矢(こうし)ではない。マンガ、映画、テレビの人気キャラクターをおもちゃとして販売するという意味では、赤胴鈴之助の『赤サヤの刀』(高徳玩具、1957年)、鉄腕アトムや鉄人28号のおもちゃ(各社、1960年代)など、当然前史がある。
4-1で紹介した『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』は、鉄腕アトムのTVアニメ、その著作権ビジネス、アトムシールの画期的な役割など詳細に分析しているので、興味ある人は読んでみてください。ここでは主旨が違うので飛ばすことにする。
土屋新太郎の『キャラクタービジネス その構造と戦略』(キネマ旬報社、1995年)は、ウルトラマンを、「ビジネスと呼ぶにふさわしい規模で最初に成功を収めたキャラクター」と位置付けるとともに、「ブームを繰り返すたびに、……一度恩恵を受けたメーカーが次のブームの到来の時までに軒並み倒産している」と指摘している。
具体的には、1966年の『ウルトラQ』 と『ウルトラマン』の第1次ブームでマルサン商店がソフビ人形でブレイクしたが、そのブームの陰りとともに倒産(1968年)した。第2次ブームは67年のシリーズ第2弾『ウルトラセブン』、71年の『帰ってきたウルトラマン』でブルマァクがブレイクし、次の怪獣ブームのけん引役となった。
ソフビ人形だけでなく、隊員のヘルメットや制服も売れたというが、やがて類似品が大量に流通し、その後はスポンサーとなった商品が売れずに弱体化した。ブルマァクは新勢力ポピーとの『超合金』戦争に敗れて、1977年に倒産した。ウルトラマンの第3次ブームは1979年の再放送がきっかけで起きたブームで、そのブームを享受したのはポピーだったと土屋は記している。
というわけで、第2次『ウルトラマン』ブームのなかで始まった『仮面ライダー』の『変身ベルト』(1971年)、『マジンガーZ』の『ジャンボマシンダー』(1973年)、『超合金』(1974年)で、ポピーがキャラクター玩具の覇権をとることになる。ちなみに赤胴鈴之助の『赤サヤの刀』でキャラクター玩具市場をリードしていたタカトクトイスが経営破綻するのは1984年だ。
『仮面ライダー』ではタカトクトイスはポピーより先に商品化権を得ていて、実際変身ベルトでも先に商品化していたが、ポピーの回転するリアルな変身ベルトが大ヒットして、東映が同シリーズの独占商品化権をポピーに与え、その後もポピーへの優先が続きタカトクトイスは窮した。
ポピーは、1971年に設立された、バンダイの子会社だ。当時のバンダイは、本社のほかにバンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、バンダイ運輸、バンダイ模型など子会社9社を抱えてグループ経営に移行していた。売り上げは100億円に迫り、従業員は500名に及んだ。ポピーの設立は、バンダイ独自の“のれん分け制度”による、とその社史にある。
「規模が大きくなると起こりがちな動脈硬化を防ぎ、効率の良い1人1人が利益を生む経営をする・・・働くことに意欲と能力と、そして実績を持っている人に、権限と責任を与えて、十二分にその手腕をふるえるようなチャンスを与えるのが“のれん分け”である」
と記されている。
しかし、創業の当初、例えばバンダイ運輸のような業務内容についての明快な指針がポピーにはなかったらしい。だから、キャラクター玩具を主業務とするなどというミッションもなかった。ただ、同じ年の春に『アメリカンクラッカー』の大流行があって、
「そういう極端な流行玩具や、小回りの利く雑玩具を手掛けるにはバンダイという看板は大きくなりすぎていた・・・バンダイ本社ではできないような“雑玩”を、身軽に機動力をもって取り扱っていく仕事もあり得るはずだ、というニュアンスがポピーの設立の背後にはあった」
と社史は説明している。アメリカで大流行した『アメリカンクラッカー』は、アサヒ玩具がその年の春に輸入販売し日本でも大ヒットしたが、たった数カ月で下火となった。“雑玩”というのは駄菓子屋で売るようなおもちゃを指す業界用語で、そういうものは図体が大きくなったバンダイではなく、子会社にやらせよう、というのが意図だったと読めるが、はたしてそれだけか。
確かに、こういうわけのわからないヒットが外部からやってくるのがおもちゃ業界だから、小回りの利く子会社という発想はあり得るが、もっと大きな重要な変化が外部からやって来て、図体が大きくなって保守化した本社がそれを見逃す、という懸念もあったのではないかと、ぼくは想像する。
ポピー設立メンバーの杉浦幸昌は、1960年代のバンダイのヒット商品作りの担い手だったという記述が社史にはあって、だとすれば、バンダイ本社は子会社にエースを投入したことになる。
あらかじめ述べておきたいが、おもちゃ業界、出版業界、ゲーム業界に属するコンテンツで勝負する会社がグループ経営するメリットは、本社に対して“ノー”を突きつけるような子会社を内部に取り込むことだと思う。
これらの業界では、人材はその会社が築いてきたコンテンツの傾向に心酔して新しい人材も集まってくるから、会社が一色に染まりやすい。そうなると誤った道を走り始めても修正が効かなくなる。
バンダイにとってのポピーやバンプレスト、タカラトミーにとってのタカラトミーアーツ、かつてのKADOKAWAにとってのメディアワークスや富士見書房のような会社はちゃんと存在意義があるのだ。
ポピーの発足時メンバーは森連、杉浦幸昌を含む3人で、森、杉浦の2人はバンダイの退職金でポピーの株式を取得したという。資本金は当初1000万円で、30%がバンダイ本社、役員が残りを10~15%ずつ持ち合った。こうして設立されたポピーは、前述のようにキャラクター玩具分野で次々とヒット商品を送り出し、雑玩どころかバンダイグループの屋台骨となる新ジャンルを創造することとなった。
これまでのフラフープやアメリカンクラッカーなどのヒット商品は、わけがわからないまま始まり、わけがわからないうちに去って行くブームだった。それに対しキャラクター玩具は、メディアでの露出とその成否が前提となるから、当然ヒットの蓋然性(がいぜんせい)は高まることになる。
しかし、テレビ宣伝などの投下資本も大きく、競争が激しいだけに前提となるコンテンツ(マンガやアニメや実写映像など)がヒットしなかったときのダメージは大きく、そのために倒産する会社も少なくなかったことは前述したとおりだ。
キャラクター玩具のそういう負の側面を最小化するためにポピーの採った施策は、商品化の手前のコンテンツ制作そのものに参加していくことだった。
「ポピーがキャラクター玩具のマーチャンダイジングを担当し、東映は映画作り、東映動画はテレビ放映用の作品作りをするという、制作段階からの共同作業が、・・・その後のポピーのキャラクター商品の発展を大きく約束することになった」
と社史は記している。創立から5年後の会社案内には、社外ブレーンとして、水野プロダクション、石森章太郎、永井豪、東映TV事業部、東映動画、フジテレビ、講談社、小学館、テレビランドの名前が記載された。5年の間に、作品のクリエイティブから参加し映像、雑誌メディア、テレビ局と手を携えてキャラクター玩具の市場を創造していく。富を再生産できるチーム作りに成功したということだ。
ポピーのこの初期の成功はもちろん始まりに過ぎない。女児玩具の世界ではリカちゃんに対して『キャンディ・キャンディ』、モンチッチにはパンダのぬいぐるみ、トミカにはポピニカというように、他社の人気商品に対しキャラクター玩具のノウハウで対抗して、領域を広げていった。その先には『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』の成功、会社としてバンプレストの登場などが控えていた。
だからポピーの誕生は、バンダイの成長の大きな節目だった。次回はよりつぶさに、バンダイという会社を見ていきたいと思う。
いまでは、キャラクター玩具といえばバンダイの専売特許のように言われるが、その礎を築いたのはバンダイの子会社だったポピーだ。といってもポピーがキャラクター玩具の嚆矢(こうし)ではない。マンガ、映画、テレビの人気キャラクターをおもちゃとして販売するという意味では、赤胴鈴之助の『赤サヤの刀』(高徳玩具、1957年)、鉄腕アトムや鉄人28号のおもちゃ(各社、1960年代)など、当然前史がある。
4-1で紹介した『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』は、鉄腕アトムのTVアニメ、その著作権ビジネス、アトムシールの画期的な役割など詳細に分析しているので、興味ある人は読んでみてください。ここでは主旨が違うので飛ばすことにする。
土屋新太郎の『キャラクタービジネス その構造と戦略』(キネマ旬報社、1995年)は、ウルトラマンを、「ビジネスと呼ぶにふさわしい規模で最初に成功を収めたキャラクター」と位置付けるとともに、「ブームを繰り返すたびに、……一度恩恵を受けたメーカーが次のブームの到来の時までに軒並み倒産している」と指摘している。
具体的には、1966年の『ウルトラQ』 と『ウルトラマン』の第1次ブームでマルサン商店がソフビ人形でブレイクしたが、そのブームの陰りとともに倒産(1968年)した。第2次ブームは67年のシリーズ第2弾『ウルトラセブン』、71年の『帰ってきたウルトラマン』でブルマァクがブレイクし、次の怪獣ブームのけん引役となった。
ソフビ人形だけでなく、隊員のヘルメットや制服も売れたというが、やがて類似品が大量に流通し、その後はスポンサーとなった商品が売れずに弱体化した。ブルマァクは新勢力ポピーとの『超合金』戦争に敗れて、1977年に倒産した。ウルトラマンの第3次ブームは1979年の再放送がきっかけで起きたブームで、そのブームを享受したのはポピーだったと土屋は記している。
というわけで、第2次『ウルトラマン』ブームのなかで始まった『仮面ライダー』の『変身ベルト』(1971年)、『マジンガーZ』の『ジャンボマシンダー』(1973年)、『超合金』(1974年)で、ポピーがキャラクター玩具の覇権をとることになる。ちなみに赤胴鈴之助の『赤サヤの刀』でキャラクター玩具市場をリードしていたタカトクトイスが経営破綻するのは1984年だ。
『仮面ライダー』ではタカトクトイスはポピーより先に商品化権を得ていて、実際変身ベルトでも先に商品化していたが、ポピーの回転するリアルな変身ベルトが大ヒットして、東映が同シリーズの独占商品化権をポピーに与え、その後もポピーへの優先が続きタカトクトイスは窮した。
ポピーは、1971年に設立された、バンダイの子会社だ。当時のバンダイは、本社のほかにバンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、バンダイ運輸、バンダイ模型など子会社9社を抱えてグループ経営に移行していた。売り上げは100億円に迫り、従業員は500名に及んだ。ポピーの設立は、バンダイ独自の“のれん分け制度”による、とその社史にある。
「規模が大きくなると起こりがちな動脈硬化を防ぎ、効率の良い1人1人が利益を生む経営をする・・・働くことに意欲と能力と、そして実績を持っている人に、権限と責任を与えて、十二分にその手腕をふるえるようなチャンスを与えるのが“のれん分け”である」
と記されている。
しかし、創業の当初、例えばバンダイ運輸のような業務内容についての明快な指針がポピーにはなかったらしい。だから、キャラクター玩具を主業務とするなどというミッションもなかった。ただ、同じ年の春に『アメリカンクラッカー』の大流行があって、
「そういう極端な流行玩具や、小回りの利く雑玩具を手掛けるにはバンダイという看板は大きくなりすぎていた・・・バンダイ本社ではできないような“雑玩”を、身軽に機動力をもって取り扱っていく仕事もあり得るはずだ、というニュアンスがポピーの設立の背後にはあった」
と社史は説明している。アメリカで大流行した『アメリカンクラッカー』は、アサヒ玩具がその年の春に輸入販売し日本でも大ヒットしたが、たった数カ月で下火となった。“雑玩”というのは駄菓子屋で売るようなおもちゃを指す業界用語で、そういうものは図体が大きくなったバンダイではなく、子会社にやらせよう、というのが意図だったと読めるが、はたしてそれだけか。
確かに、こういうわけのわからないヒットが外部からやってくるのがおもちゃ業界だから、小回りの利く子会社という発想はあり得るが、もっと大きな重要な変化が外部からやって来て、図体が大きくなって保守化した本社がそれを見逃す、という懸念もあったのではないかと、ぼくは想像する。
ポピー設立メンバーの杉浦幸昌は、1960年代のバンダイのヒット商品作りの担い手だったという記述が社史にはあって、だとすれば、バンダイ本社は子会社にエースを投入したことになる。
あらかじめ述べておきたいが、おもちゃ業界、出版業界、ゲーム業界に属するコンテンツで勝負する会社がグループ経営するメリットは、本社に対して“ノー”を突きつけるような子会社を内部に取り込むことだと思う。
これらの業界では、人材はその会社が築いてきたコンテンツの傾向に心酔して新しい人材も集まってくるから、会社が一色に染まりやすい。そうなると誤った道を走り始めても修正が効かなくなる。
バンダイにとってのポピーやバンプレスト、タカラトミーにとってのタカラトミーアーツ、かつてのKADOKAWAにとってのメディアワークスや富士見書房のような会社はちゃんと存在意義があるのだ。
ポピーの発足時メンバーは森連、杉浦幸昌を含む3人で、森、杉浦の2人はバンダイの退職金でポピーの株式を取得したという。資本金は当初1000万円で、30%がバンダイ本社、役員が残りを10~15%ずつ持ち合った。こうして設立されたポピーは、前述のようにキャラクター玩具分野で次々とヒット商品を送り出し、雑玩どころかバンダイグループの屋台骨となる新ジャンルを創造することとなった。
これまでのフラフープやアメリカンクラッカーなどのヒット商品は、わけがわからないまま始まり、わけがわからないうちに去って行くブームだった。それに対しキャラクター玩具は、メディアでの露出とその成否が前提となるから、当然ヒットの蓋然性(がいぜんせい)は高まることになる。
しかし、テレビ宣伝などの投下資本も大きく、競争が激しいだけに前提となるコンテンツ(マンガやアニメや実写映像など)がヒットしなかったときのダメージは大きく、そのために倒産する会社も少なくなかったことは前述したとおりだ。
キャラクター玩具のそういう負の側面を最小化するためにポピーの採った施策は、商品化の手前のコンテンツ制作そのものに参加していくことだった。
「ポピーがキャラクター玩具のマーチャンダイジングを担当し、東映は映画作り、東映動画はテレビ放映用の作品作りをするという、制作段階からの共同作業が、・・・その後のポピーのキャラクター商品の発展を大きく約束することになった」
と社史は記している。創立から5年後の会社案内には、社外ブレーンとして、水野プロダクション、石森章太郎、永井豪、東映TV事業部、東映動画、フジテレビ、講談社、小学館、テレビランドの名前が記載された。5年の間に、作品のクリエイティブから参加し映像、雑誌メディア、テレビ局と手を携えてキャラクター玩具の市場を創造していく。富を再生産できるチーム作りに成功したということだ。
ポピーのこの初期の成功はもちろん始まりに過ぎない。女児玩具の世界ではリカちゃんに対して『キャンディ・キャンディ』、モンチッチにはパンダのぬいぐるみ、トミカにはポピニカというように、他社の人気商品に対しキャラクター玩具のノウハウで対抗して、領域を広げていった。その先には『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』の成功、会社としてバンプレストの登場などが控えていた。
だからポピーの誕生は、バンダイの成長の大きな節目だった。次回はよりつぶさに、バンダイという会社を見ていきたいと思う。