連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第10回
第4章 キャラクタービジネスとメディアミックス、おたくの時代への助走 4-1 角川書店とサンリオ、1970年代後半の時代変化
第6回に掲げた時代区分をもう一度見てほしい。
時代A:団塊の世代とともにあった好景気の時代(戦後から1970年代まで)
時代A′:団塊の世代に遅れた谷間の世代の時代
時代B:団塊の世代の子どもたちとともにあったバブル時代(1980年代)
時代C:人口オーナス時代の失われた時代(1995年以降)
これから話すことは、まだ時代Aのうちの後半の業界の話。つまり時代A′。『おたくの精神史1980年論』(星海社新書)を書いた大塚英志(1958年生まれ)や『サブカル勃興史 すべては1970年代に始まった』(角川新書)を書いた中川右介(1960年生まれ)の青春時代、1970年代半ばからファミコン前夜のおもちゃ業界に起きた変化の話だ。
この時代は、団塊世代が大人となってそのジュニアが生まれる前の狭間の時代だ。ファミコンが発売される1983年には団塊ジュニアが小学校高学年になって、ファミコン、マイコン時代の担い手となるが、その準備期間のような時代でもある。大量生産、大量消費に支えられた高度経済成長の終わりの時代。
カナダのメディア研究者であるマーク・スタインバーグの『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』(KADOKAWA、2015年)で、1970年代は“ポストモダン”の時代といわれたが、“ポスト・フォーディズム”の時代でもあったと指摘した。
「ポスト・フォーディズムは文化状況に限った話ではなく、経済状況のことでもある。より丁寧に言えば、文化の変化をも引き起こす経済の変革であろう」
と記している。フォーディズムとは“アメリカの自動車会社フォードに代表される、耐久消費財の大量生産の時代”を指し、その労働者もその消費者として振る舞い、経済社会の成長の源になるような社会を指す。日本でも、耐久消費財が消費活動の中核を形成し、高度成長を支えた。その時代が終わったのが“ポスト”フォーディズムの時代ということになる。その時代の商品は自動車や家電のような大型消費財ではなく、
「柔軟で流動的で小型で携帯性に優れている、……物質ではなく体験を中心としたものになっていく……“経験財”と呼ぶべき、映画やゲームや旅行やファッションといった、消費者に提供できる体験に価値を置く商品が重視されるようになる」
と、この時代の生産と消費の変化を表現した。
そういう時代を象徴するふたつの事例をあげたい。角川書店とサンリオだ。『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』でマークは、1977年の角川春樹の発言を引用している。
「本にせよ、音楽にせよ、映画にせよ、実体のない商品です。電気製品、自動車というような物質的商品ではない。本もレコードも映画も、幻想そのままが商品だといっていい。その幻想に商品価値がなければ、例えば本は単なる紙とインクになってしまう。このような幻想・幻覚を売るビジネスは私のようなアクティブなニヒリストにふさわしい」
1977年といえば、角川映画が『犬神家の一族』で映画界に鮮烈デビューを果たす翌年に当たり、角川春樹の才気が冴えわたっていた時期だけに、この発言はちょっとかっこいい。角川文庫と角川映画はまさにマークの言うポスト・フォーディズムの時代の産物ということになろう。
同じころ、ポストカードや文具にキャラクターという付加価値を付けて販売するビジネスを発明して急成長したのがサンリオだった。
サンリオの創業者の辻信太郎は、著書『これがサンリオの秘密です。』(扶桑社、2000年)のなかで、
「そもそも、サンリオが創業以来追求してきた『ソーシャルコミュニケーションビジネス』のルーツは、『人間の幸せとはなにか』と子どものころから考えつづけてきて得た私なりの結論―『それは心から話し合える友達を持つことだ』-にあります・・・その延長線上で、『近い将来、著作権ビジネスの時代がくる』と予見し、キャラクターの開発に心血を注いできました」
と、サンリオのビジョンに関わる話を披露している。
辻が、コミュニケーションの頭に“ソーシャル”を付けたのは、辻の言う“友だち”が、本来の友だちはもちろん、兄弟、親子、夫婦、同級生、同じ県民、すべてを指すとしていると、わざわざ定義していることから冠したと思われるが、いまとなってはシンプルに「サンリオは、“コミュニケーション”というかたちのないものを商品にしてきた」と言えばいいのに……と思う。
余計なお世話だけれど、ソーシャルコミュニケーションというと企業の広報活動みたいだ。人と人のコミュニケーションの手助けとなるカードやギフト、付加価値としてのキャラクターの商品化、そしてそれをライセンスする会社――それがサンリオということでいいのではないかと思う。
それはともかく、サンリオの登場はおもちゃ業界に衝撃を与えた。おもちゃを卒業した少女たちのかわいいものへの愛着の心をつかみ、その少女たちが成人すると、またその子の成長に合わせた新しいコミュニケーション(誕生パーティとかクリスマスギフトとか)が提案されていった。
山梨シルクセンター(1960年創業)から、1973年に株式会社サンリオと社名変更してからの成長はすさまじく、社名変更1年後の74年に売り上げ倍増の49億円超え、75年には100億円に近づき、76年195億円、77年330億円という、まさに破竹の勢いだった。
“ファンシー”とか“ファッション雑貨”という領域が生まれて、おもちゃ業界、文具業界から次々に参入が続いた。
『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)によれば、サンリオが195億円を売り上げた1976年の、おもちゃ業界の第1位のポピー(バンダイの子会社)の売り上げが156億円、第2位のトミーが142億円。ポピーとバンダイの売り上げを足せば250億円となるので、バンダイグループとして見れば上位だが、足元を脅かす存在だったことは間違いない。
サンリオの成長の源はもちろん自社キャラ第1号である『ハローキティ』のヒットとそのライセンスビジネスの開始、直営店“ギフトゲート”やレストランの多店舗展開、ということになるが、もう少し手前の1969年に、アメリカのグリーティングカード大手・ホールマークの日本の代理店になったことが、大きな転機だったのではないかとぼくは思う。
辻信太郎がアメリカに初めて行ったのは、60年代前半で、ホールマークという会社を訪問したと記されている。その時出会ったJoyce Clyde Hall(ジョイス・クライド・ホール / J.C.ホール)会長からソーシャルビジネスコミュニケーションというコンセプトを称賛されたと、書いている。意気投合したのだろう。
ぼくは、初めてアメリカのどこかのショッピングセンターでホールマークの店を見たとき、えらく感動したのを覚えている。70年代の終わりごろは、おもちゃ業界のビジネスツアーではトイザらス、ディズニーランドのギフトショップ、MOAなどのミュージアムショップとともに、ホールマークのカードショップなどを回るのが定番だった。
そこで商品に添えられたキャラクターによる“付加価値”というものを教えられた。ホールマークの店でスヌーピーのカードやラッピング、リボンなどの品ぞろえを見た。それは、日本では見たことがなかったコンセプトで、ギフトやパーティという耳慣れない慣習で商売ができるのか? まさに角川春樹が言うようにカードなど“単なる紙とインク”の“幻想・幻覚を売るビジネス”ではないかと思ったものだ。
辻信太郎も、やっぱり根幹のところでアメリカのディズニーやホールマークから、ビジネスモデルを学んだのだと思う。それでも辻信太郎がユニークなのは、初期の『いちご新聞』を読めばわかる。『いちご新聞』はいまも続く月刊のいわば広報紙だが、“いちごの王様からのメッセージ”という文章があって、『玩具通信』時代にぼくはけっこう愛読していた。
ユーザーである少女に向けて、いちごの王様である辻信太郎が、友情とはなにか、コミュニケーションとはなにか、幸せとはなにかといったことを真剣に語りかけており、ソクラテス、プラトン、マルクス、エンゲルスまで登場する、とても少女向けのメッセージとは思えないディープな内容だった。
出版、映画、ライブエンターテイメントとしてのピューロランドとさまざまな事業に手を出し、多くの失敗も重ねたが、コミュニケーションというかたちのないものを、この会社はいまもテーマに成長している。
ぼくが辻信太郎のことをすごいと思うのは、ピューロランドを黒字事業に転換させたことだ。1990年に開園して以来ずーっと赤字事業だったものを、24年後の2014年に黒字化させた。こういうことはサラリーマン社長にはできない。オーナー社長の“コミュニケーションをビジネスにする”という信念のたまものだ。ピューロランドはサンリオにとって、いまではなくてはならないものになった。
時代A:団塊の世代とともにあった好景気の時代(戦後から1970年代まで)
時代A′:団塊の世代に遅れた谷間の世代の時代
時代B:団塊の世代の子どもたちとともにあったバブル時代(1980年代)
時代C:人口オーナス時代の失われた時代(1995年以降)
これから話すことは、まだ時代Aのうちの後半の業界の話。つまり時代A′。『おたくの精神史1980年論』(星海社新書)を書いた大塚英志(1958年生まれ)や『サブカル勃興史 すべては1970年代に始まった』(角川新書)を書いた中川右介(1960年生まれ)の青春時代、1970年代半ばからファミコン前夜のおもちゃ業界に起きた変化の話だ。
この時代は、団塊世代が大人となってそのジュニアが生まれる前の狭間の時代だ。ファミコンが発売される1983年には団塊ジュニアが小学校高学年になって、ファミコン、マイコン時代の担い手となるが、その準備期間のような時代でもある。大量生産、大量消費に支えられた高度経済成長の終わりの時代。
カナダのメディア研究者であるマーク・スタインバーグの『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』(KADOKAWA、2015年)で、1970年代は“ポストモダン”の時代といわれたが、“ポスト・フォーディズム”の時代でもあったと指摘した。
「ポスト・フォーディズムは文化状況に限った話ではなく、経済状況のことでもある。より丁寧に言えば、文化の変化をも引き起こす経済の変革であろう」
と記している。フォーディズムとは“アメリカの自動車会社フォードに代表される、耐久消費財の大量生産の時代”を指し、その労働者もその消費者として振る舞い、経済社会の成長の源になるような社会を指す。日本でも、耐久消費財が消費活動の中核を形成し、高度成長を支えた。その時代が終わったのが“ポスト”フォーディズムの時代ということになる。その時代の商品は自動車や家電のような大型消費財ではなく、
「柔軟で流動的で小型で携帯性に優れている、……物質ではなく体験を中心としたものになっていく……“経験財”と呼ぶべき、映画やゲームや旅行やファッションといった、消費者に提供できる体験に価値を置く商品が重視されるようになる」
と、この時代の生産と消費の変化を表現した。
そういう時代を象徴するふたつの事例をあげたい。角川書店とサンリオだ。『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』でマークは、1977年の角川春樹の発言を引用している。
「本にせよ、音楽にせよ、映画にせよ、実体のない商品です。電気製品、自動車というような物質的商品ではない。本もレコードも映画も、幻想そのままが商品だといっていい。その幻想に商品価値がなければ、例えば本は単なる紙とインクになってしまう。このような幻想・幻覚を売るビジネスは私のようなアクティブなニヒリストにふさわしい」
1977年といえば、角川映画が『犬神家の一族』で映画界に鮮烈デビューを果たす翌年に当たり、角川春樹の才気が冴えわたっていた時期だけに、この発言はちょっとかっこいい。角川文庫と角川映画はまさにマークの言うポスト・フォーディズムの時代の産物ということになろう。
同じころ、ポストカードや文具にキャラクターという付加価値を付けて販売するビジネスを発明して急成長したのがサンリオだった。
サンリオの創業者の辻信太郎は、著書『これがサンリオの秘密です。』(扶桑社、2000年)のなかで、
「そもそも、サンリオが創業以来追求してきた『ソーシャルコミュニケーションビジネス』のルーツは、『人間の幸せとはなにか』と子どものころから考えつづけてきて得た私なりの結論―『それは心から話し合える友達を持つことだ』-にあります・・・その延長線上で、『近い将来、著作権ビジネスの時代がくる』と予見し、キャラクターの開発に心血を注いできました」
と、サンリオのビジョンに関わる話を披露している。
辻が、コミュニケーションの頭に“ソーシャル”を付けたのは、辻の言う“友だち”が、本来の友だちはもちろん、兄弟、親子、夫婦、同級生、同じ県民、すべてを指すとしていると、わざわざ定義していることから冠したと思われるが、いまとなってはシンプルに「サンリオは、“コミュニケーション”というかたちのないものを商品にしてきた」と言えばいいのに……と思う。
余計なお世話だけれど、ソーシャルコミュニケーションというと企業の広報活動みたいだ。人と人のコミュニケーションの手助けとなるカードやギフト、付加価値としてのキャラクターの商品化、そしてそれをライセンスする会社――それがサンリオということでいいのではないかと思う。
それはともかく、サンリオの登場はおもちゃ業界に衝撃を与えた。おもちゃを卒業した少女たちのかわいいものへの愛着の心をつかみ、その少女たちが成人すると、またその子の成長に合わせた新しいコミュニケーション(誕生パーティとかクリスマスギフトとか)が提案されていった。
山梨シルクセンター(1960年創業)から、1973年に株式会社サンリオと社名変更してからの成長はすさまじく、社名変更1年後の74年に売り上げ倍増の49億円超え、75年には100億円に近づき、76年195億円、77年330億円という、まさに破竹の勢いだった。
“ファンシー”とか“ファッション雑貨”という領域が生まれて、おもちゃ業界、文具業界から次々に参入が続いた。
『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)によれば、サンリオが195億円を売り上げた1976年の、おもちゃ業界の第1位のポピー(バンダイの子会社)の売り上げが156億円、第2位のトミーが142億円。ポピーとバンダイの売り上げを足せば250億円となるので、バンダイグループとして見れば上位だが、足元を脅かす存在だったことは間違いない。
サンリオの成長の源はもちろん自社キャラ第1号である『ハローキティ』のヒットとそのライセンスビジネスの開始、直営店“ギフトゲート”やレストランの多店舗展開、ということになるが、もう少し手前の1969年に、アメリカのグリーティングカード大手・ホールマークの日本の代理店になったことが、大きな転機だったのではないかとぼくは思う。
辻信太郎がアメリカに初めて行ったのは、60年代前半で、ホールマークという会社を訪問したと記されている。その時出会ったJoyce Clyde Hall(ジョイス・クライド・ホール / J.C.ホール)会長からソーシャルビジネスコミュニケーションというコンセプトを称賛されたと、書いている。意気投合したのだろう。
ぼくは、初めてアメリカのどこかのショッピングセンターでホールマークの店を見たとき、えらく感動したのを覚えている。70年代の終わりごろは、おもちゃ業界のビジネスツアーではトイザらス、ディズニーランドのギフトショップ、MOAなどのミュージアムショップとともに、ホールマークのカードショップなどを回るのが定番だった。
そこで商品に添えられたキャラクターによる“付加価値”というものを教えられた。ホールマークの店でスヌーピーのカードやラッピング、リボンなどの品ぞろえを見た。それは、日本では見たことがなかったコンセプトで、ギフトやパーティという耳慣れない慣習で商売ができるのか? まさに角川春樹が言うようにカードなど“単なる紙とインク”の“幻想・幻覚を売るビジネス”ではないかと思ったものだ。
辻信太郎も、やっぱり根幹のところでアメリカのディズニーやホールマークから、ビジネスモデルを学んだのだと思う。それでも辻信太郎がユニークなのは、初期の『いちご新聞』を読めばわかる。『いちご新聞』はいまも続く月刊のいわば広報紙だが、“いちごの王様からのメッセージ”という文章があって、『玩具通信』時代にぼくはけっこう愛読していた。
ユーザーである少女に向けて、いちごの王様である辻信太郎が、友情とはなにか、コミュニケーションとはなにか、幸せとはなにかといったことを真剣に語りかけており、ソクラテス、プラトン、マルクス、エンゲルスまで登場する、とても少女向けのメッセージとは思えないディープな内容だった。
出版、映画、ライブエンターテイメントとしてのピューロランドとさまざまな事業に手を出し、多くの失敗も重ねたが、コミュニケーションというかたちのないものを、この会社はいまもテーマに成長している。
ぼくが辻信太郎のことをすごいと思うのは、ピューロランドを黒字事業に転換させたことだ。1990年に開園して以来ずーっと赤字事業だったものを、24年後の2014年に黒字化させた。こういうことはサラリーマン社長にはできない。オーナー社長の“コミュニケーションをビジネスにする”という信念のたまものだ。ピューロランドはサンリオにとって、いまではなくてはならないものになった。