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プラモデルの成り立ちと、一大ジャンルとなっていくまでの流れを振り返る【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第9回

3-4 ジャンルとなったプラモの歴史

 まずは、プラスチックモデルの成り立ちに触れておきたい。

 アメリカ製プラモデルが、日本に盛んに輸入されるようになったのは1950年代半ばで、その出現にたちまち窮地に追い込まれたのが、静岡に集中していた木製模型の製造業者たちだった。この人たちがこぞってプラモデルに転向したために、静岡がプラモデルの聖地となった。木材加工の盛んな静岡で、ありていに言えばその“木っ端”を加工して木製模型を作っていた人々が、静岡をプラモの地に変えた。

 ちなみに、日本で最初の国産品プラモデルは、マルサン商店が1958年に発売した『ノーチラス号』(アメリカの原子力潜水艦)だと言われている。マルサン商店は隅田川の西側の製問のメンバーで、プラモデル専業ではなく海外の流行に敏感に反応した商社だ。そんな会社がプラモを大々的に宣伝して普及させようとした。『ウルトラマン』ブームに乗ってソフビ怪獣をヒットさせたのもこの会社で、浮沈激しく1968年に倒産してしまった。

 田宮模型(現・タミヤ)の2代目社長・田宮俊作の著書『田宮模型の仕事 木製モデルからミニ四駆まで』(文藝春秋 1997年)の冒頭には、

 「日本の模型メーカーは静岡県に集中している。これは木製模型のころに確立された。もともと木曽材の集散地であったため、木工業が発達しており、家具、ピアノ、雛具(雛具とはなにかをネットで検索してみて、面白いよ)、下駄などが盛んにつくられていた。木製模型に取って代わって各社がプラモデルを手掛けた結果、静岡は田宮模型のほかにフジミ模型、長谷川製作所、アオシマ文化教材社、イマイなどがある。いまやプラモデルは静岡の地場産業のひとつであり、現在、模型の全国シェアの70パーセントが静岡のメーカーで占められている」

 とある。この文章でピンとこない人は多いだろう。木製の飛行機や艦船模型は、戦中まで学校教材だった。ぼくの時代でも副教材扱いだったから、むかしの子どもは木製模型を盛んに作ったのだ。小学校の購買部(懐かしい響き!)でも、駄菓子屋でも木製模型を売っていて、ぼくも作った。だけど木製模型はすごく扱いが難しかった。

 飛行機の翼は竹ひごをろうそくの炎であぶりながら少しずつ曲げるのだけれど、これが難しい。焦がすか、折るかしてしまう。設計図には、「このように曲げなさい」という図が示されているのだが、そのように曲げられないのだ。できた翼に紙を貼るのもひと苦労だった。艦船のボディはバルサ材を貼り合わせるのだけれど、これがすぐ割れたり欠けたりする。

 模型好きの作家・稲垣足穂は、木製模型の艦船を作っていて、仕上げで錨の穴の錆の感じが塗料ではどうしても表現できない。たまたま指の先を小刀かなんかで切ってしまい、思いたって血を穴の下にこすりつけたてみたら、バルサ材が程よく血を吸い意中の表現ができたと、なにかで書いていた。ぼくはそれを読んで、模型道は厳しいと、子ども心に感心したものだ。

 木製模型は厄介だった。だからアメリカからプラスチックモデルというものが入ってくると、その精度の高さや組み立てやすさから、たちまち木製模型は駆逐されてしまったのだ。

 ぼくは静岡県の富士市の出身だけれど、近くに“湖月堂”という模型店があって、その店にアメリカのレベル社の飛行機やデフォルメされたおばけ自動車のプラモデルが入荷されたのをありありと覚えている。店主のおじさんが作った見本がピカピカに輝いていた。「これはかなわない」と木製模型屋さんは思っただろう。

 かくて日本の木製模型メーカーはこぞってプラモデルメーカーに転向し、その結果プラモデルが静岡の地場産業になっていった――というわけだ。

 またわき道にそれるけれど、ぼくは湖月堂のことを思うと、いまでもなんとも言えない甘い郷愁を覚える。模型店は男の子の聖地だった。とても買ってもらえそうもない大型の戦車や艦船のパッケージを撫でさすり、ウィンドウに飾られていた完成作品をうっとり眺めていた。当時の男の子は、みんな『少年マガジン』の『紫電改のタカ』やグラビア特集の小松崎茂の絵を飽かず眺めては、画用紙に飛行機や戦車の絵を描いていた。ぼくだって、紫電改の絵ならいまでも描ける。

 ぼくは湖月堂からなかなか卒業できなかった。店主の面倒見がいいからだ。小学校五年生(1963年)ぐらいには“Uコン飛行機”が大ブームで、放課後の学校の校庭でよく飛ばした。Uコンというのはエンジン付きの木製飛行機を2本のワイヤでつないだコントローラーでぐるぐると回転させながら飛ばす遊びだ。コントローラーがUの字のかたちをしているので、Uコン飛行機と呼ばれる。高価だし組み立てが難しいからぼくは買ってもらえなかったが、湖月堂のおじさんの実演を見たり、クラスのT君の飛行機を飛ばさせてもらったりした。

 プロペラを勢いよく回してエンジンが点火すると、飛行機は小動物のように暴れ、走り出そうとする。それを慎重に押さえて、T君の「Go!」(行け、とか、よし、だったかも)の合図を待つ。手を離すと機体が轟音とともに滑空を始める。あの油の匂いとエンジン音がたまらなく爽快だった。この遊びはしかし、見学者の男の子に誰かの飛行機が激突し、まぶたを切るという事故があって禁止となり、いきなり終わってしまった。以来校庭は、男女がドッジボールをする軟派な遊び場に堕落した。

 レーシングブームのときは、ぼくはもう中学校一年生になっていたけれど、クラスのS君がバンダイのセットを持っていたからよく遊ばせてもらった。バンダイのセットでは飽き足らず、本格的なHOゲージなどのレーシングが見られたのはやっぱり湖月堂だった(と思う)。

 その後のミニ四駆、ラジコンカーなど本格的な遊びを提供するのは、やはり模型店じゃなきゃダメだ。残念ながらぼくが買ってもらえたプラモは、キャラメル箱程度の安い飛行機のシリーズぐらいだったけれど、湖月堂は十分に男の子の社交場だった。

 『玩具通信』で働いていたころ、毎年静岡では5月にホビーショーがあって、この取材は楽しみだった。当時、静岡模型教材協同組合の理事長は、タミヤの創業者の田宮義雄社長で、理事長自ら主催者として取材に応じてくれたのだ。温厚で実直な感じで実に丁寧に質問に答えてくれたと記憶している。

 グループSNEの作家たちが著した『シェアード・ワールド・ノベルズ 妖魔夜行 幻の巻』(角川スニーカー文庫、2001年)に収録されている山本弘の『まぼろし模型』という小説が、かつて模型少年だったぼくの心をわしづかみにした。道に迷った男が、息子を連れてある模型店に迷い込む。その店には、むかしの絶版となった名作プラモデルが、当時の値段のまま売っている。全部買い占めたいが、あいにく持ち合わせがない。男は迷った末に息子を店に置いたまま、駅まで車を走らせる。駅のATMで20万円下ろし、再び模型店を目指すのだが……という展開だ。ドキドキワクワクはストーリーだけでなく、ぼくはそこに出てくる模型の数々に心臓が止まりそうになった。

 またわき道にそれた。

 先に紹介した『田宮模型の仕事』は、トミーの創業者・富山栄市郎の少年時代のワクワクを想起させる、模型少年のモノづくりへのこだわりを感じさせる物語になっている。この本を読めば、プラモデルが単なるブーム商品で終わらずに、おもちゃの一ジャンルに育っていく過程がより詳しくわかる。この本の舞台となる1960年代、70年代は、市場が一挙に拡大しながらも過当競争ゆえに倒産の憂き目を見る企業が続出するという現象も生み出した。

 バンダイが今井科学を買収するに至る物語もそのひとつで、これはバンダイにとって次のステージの入り口となった。
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