連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第8回
3-3 バンダイの快進撃
前回のコラムでは、1960年代、70年代のトミーはヒットに流されやすい業界の体質を嫌って定番商品作りに成功し、タカラは、ヒット商品を目指しながら結果的には定番商品群を育てていったという話をした。
対してバンダイは、対照的に、あくまで製問の利を活かし、上手に協力工場を使って、そのときそのときのヒット商品を追いかけた。製問とメーカーという“出自の違い”による戦い方の違いが、バンダイと、タカラやトミーの間にはあった。
バンダイは、1963年、64年の『ハンドルリモコン自動車』、1965年の『レーシングカーセット』、1966年夏商戦の『クレイジーフォーム』、同66年末から翌67年を通して売れた宇宙玩具(サンダーバード)、1967年の水中モーターシリーズ、1968年『わんぱくフリッパー』と次々とヒット商品を世に送り出した。
対してバンダイは、対照的に、あくまで製問の利を活かし、上手に協力工場を使って、そのときそのときのヒット商品を追いかけた。製問とメーカーという“出自の違い”による戦い方の違いが、バンダイと、タカラやトミーの間にはあった。
バンダイは、1963年、64年の『ハンドルリモコン自動車』、1965年の『レーシングカーセット』、1966年夏商戦の『クレイジーフォーム』、同66年末から翌67年を通して売れた宇宙玩具(サンダーバード)、1967年の水中モーターシリーズ、1968年『わんぱくフリッパー』と次々とヒット商品を世に送り出した。
60年代のヒット商品の系譜のなかでバンダイが絶えず優位を保った理由の1つめは、量産、量販、そしてメディアの宣伝というダイナミックな販売戦略が継続的に奏功したこと。2つめに優秀なプロデューサーの存在(社史は越野生産部長、杉浦仕入係長がベストセラーづくりの担い手だったと伝えている)。3つめに“製問”として優秀な協力工場を抱え、これをコントロールしてきたことがあげられる。
バンダイ社史『萬代不易』には、昭和39年(1964年1月~12月)の仕入先別ランキングが載っていて、それによると、
1位 新正工業
2位 ビーシー工業(のちのバンダイ工業)
3位 渋谷製作所
4位 三栄社
5位 タカラビニール
6位 関口玩具
・
・
12位 酒井製作所
となっている。
この順位は、同じ社史に掲載されている3年前の協力工場リストとは、一変している。3年前はほとんど金属玩具工場で、8割が輸出向けだった。それが3年後には国内市場向けに多彩な工場がランク入りした。時代の変化に合わせて商社的に協力工場を変えることで、ヒットの連鎖の主役となった。自社工場を持っていたらそうはいかなかった。
1位の新正工業(のちのユタカ)はオリンピックイヤーの1964年のバンダイのヒット商品となった『ハンドルリモコン』シリーズの製造元だ。このシリーズからバンダイの国内市場でのブランドが浸透していく。
5位のタカラビニール(宝ビニール工業所)は言わずと知れたタカラの前身で、当時バンダイに、プールや浮き輪を納品していた。つまり製問バンダイに対する下請けタカラビニール、という関係だったわけだ。当時キャラクターの印刷されたビニールプールなどの、いわゆる“水もの”のブームがあった。
先に紹介した奥出信行の証言によれば、バンダイの創業者・山科直治と佐藤安太の関係は親密で、会社同士もまるで親子のような調子だったと語ってくれた。戦争体験からエポック社の前田竹虎とも親しく、おもちゃを巡る志から意気投合し、バンダイ、タカラ、エポック社玩具三社会(1961年)を結成し共同で見本市を開催するようになった。
ほどなくトミー、学習研究社、ニチガンが加わり玩具六社会(1963年)に発展し、伝統的な製問中心の業界の勢力図を書き換えるきっかけとなった。
6位の関口玩具はのちに『モンチッチ』をヒットさせるセキグチで、ぬいぐるみのメーカーだ。こうした協力工場を多数コントロールしながら、新しい製問の雄、バンダイが成長していく。12位の酒井製作所は、1965年のヒット作『レーシングカーセット』の製造工場で、このヒットのおかげで同社は翌年の対バンダイ仕入先ランキングの1位に躍り出ることになる。
社史には、
「バンダイの営業マンたちが『とうとう製問のトップグループに追いついた』という実感と自信を持つに至ったのは、昭和40年のレーシングブームの年である」
という記述がある。売り上げもこの年から急伸長を遂げた。
製造出身でないバンダイは、ヒット商品に対して果敢だった。1965年末のレーシングブームは、バンダイだけでなく、米澤玩具、浅草玩具、ツクダヤ、野村トーイ、マルサン商店などの製問各社に、当時急増したプラモデルメーカーの各社、日本模型、東宝模型、コグレ、田宮模型、オオタキ、今井科学、日東化学教材、童友社などが参戦し、激烈な競争を展開した。
バンダイの『レーシングカーセット』は、明治製菓の『マーブルチョコレート』のアトムシールに次ぐプレゼントキャンペーンの対象商品となって人気があった。その年末と明くる正月のレーシング玩具は圧倒的な売れ行きを示し、玩具競合のなかでバンダイはトップを走った。
翌1966年の夏のブーム商品は『クレイジーフォーム』だ。要はスプレー式の泡石鹸なのだが、アメリカで大ヒットしたものをバンダイが輸入販売し、その夏240万本を売り尽くした。『クレイジーフォーム』の人気は2年で終わり、1967年のヒット商品は『サンダーバード』に移った。
『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)は、1966年のヒット商品を宇宙玩具と表記しているが、これはソ連の金星ロケットの打ち上げがあって宇宙への関心が高まり、1966年に『ウルトラQ』『ウルトラマン』の放送があって、宇宙玩具の競合は17社にも及んだことを記しているが、その中心が『サンダーバード』だった。
イギリスの人形劇『サンダーバード』は1966年からNHKでテレビ放送された。ぼくはもう中学二年生だったが、恥ずかしながら夢中になって見ていた。『サンダーバード』の人形劇は、子どもの心を刺激するアイコンに満ちていた。奇抜で未来的なビークルと舞台となる秘密基地のジオラマ世界は作りこまれていて、模型少年の心をとらえた。
それから基地や操縦席のいろいろなボタンやレバー、計器の類。子どもはボタンと見ると押したいし、レバーとなれば引きたい。
高校に入学して間もなくのころ、廊下の火災報知機を火事でもないのに押してしまった同級生がいて、英語の教師から“ミスターボタン”とあだ名をつけられ、彼は3年間そう呼ばれていた。超田舎の子だったからボダンが珍しかったのだろう。その気持ちはぼくにもよくわかった。
加えて、『サンダーバード』の“国際救助隊の存在は秘密”という設定。スーパーマンや月光仮面の例にもれず正義の味方は、その真の姿を世界に知られてはいけないのだ。
『サンダーバード』はプラモデルの今井科学が『サンダーバード2号』、『1号』、『4号』、『3号』と矢継ぎ早に新製品を投入し、1966年から独走態勢に入った。
翌年夏から放送がTBSに移行するとバンダイは今井科学と組んでその番組共同スポンサーとなった。そして1967年の年末に向けてハンドルリモコン式の『サンダーバード2号』、『4号』などを投入した。前年の比較的対象年齢の高いプラモ人気が翌年には4歳から6歳まで低下することを見越しての作戦だった。
結果として『サンダーバード』関連のアイテムが年末のベストセラーランキングを埋め、バンダイは図抜けた売り上げを残すことになった。
ところが、好事魔多し、絶好調だったバンダイに影が差す。
翌年1968年初頭の取引先との会合でバンダイは、突如“無返品取引”を提案して業界に大いなるショックを与えた。業界のこれまでの慣習では、不良品はもちろん、良品でも一定程度の比率で柔軟に流通は小売店から返品を受け入れ、メーカーもそれに対応していた。これをバンダイは、業界の健全な発展という建前のもとに受け入れないと通告したわけだ。
これがケチのつき始めだった。その夏は、いわゆる“水もの”が好調で、ビニールプールや水中モーター付き玩具、『わんぱくフリッパー』などがよく売れた。ところがその後、年末年始商戦売り上げベスト10にバンダイ製品はひとつも入らないという事態となった。
バンダイは、ヒット商品に支えられた市場の恐ろしさを痛感することになった。翌1969年3月には、業界を散々揺るがせた“無返品問題”を白紙に戻す事態に。特に有力な小売商からの反発が激しかったからだ。
そして5月になると、三和銀行から役員を招聘(しょうへい)したことから「バンダイは銀行管理に入った」「資金繰りに詰まって9月には倒産する」といった噂が業界にばらまかれた。69年末の商戦でも、バンダイはヒット作に恵まれなかった。
ヒット商品を矢継ぎ早に送り出してきたバンダイが、68年の年末年始商戦でタカラの『人生ゲーム』や『リカちゃん』、エポック社の『野球盤』、69年にはトミーの『ロボット大回転』やアサヒ玩具の『ママ・レンジ』といった、いわば定番商品に後れを取った。
しかし、ピンチとチャンスはコインの裏表だとよく言う。
『サンダーバード』のプロモーションで共同戦線を張った今井科学が、1969年に会社更生法適用を申請したとの情報が入り、噂の渦中にあった山科が動いた。この工場の金型、土地、建物を買い取って、これがのちにガンプラを送りだすバンダイ模型(1971年設立)の礎となった。そして、同じ1971年に子会社ポピーが誕生した。このやんちゃな子会社が、キャラクター玩具という金の鉱脈を発掘する。
バンダイは他の製問同様、激しいヒット商品レースに埋もれるかと思われたが、ジャンルとして定着することになるプラモデル=ガンプラとキャラクター玩具の覇者となって、次の成長フェーズの緒に就くことになる。
バンダイ社史『萬代不易』には、昭和39年(1964年1月~12月)の仕入先別ランキングが載っていて、それによると、
1位 新正工業
2位 ビーシー工業(のちのバンダイ工業)
3位 渋谷製作所
4位 三栄社
5位 タカラビニール
6位 関口玩具
・
・
12位 酒井製作所
となっている。
この順位は、同じ社史に掲載されている3年前の協力工場リストとは、一変している。3年前はほとんど金属玩具工場で、8割が輸出向けだった。それが3年後には国内市場向けに多彩な工場がランク入りした。時代の変化に合わせて商社的に協力工場を変えることで、ヒットの連鎖の主役となった。自社工場を持っていたらそうはいかなかった。
1位の新正工業(のちのユタカ)はオリンピックイヤーの1964年のバンダイのヒット商品となった『ハンドルリモコン』シリーズの製造元だ。このシリーズからバンダイの国内市場でのブランドが浸透していく。
5位のタカラビニール(宝ビニール工業所)は言わずと知れたタカラの前身で、当時バンダイに、プールや浮き輪を納品していた。つまり製問バンダイに対する下請けタカラビニール、という関係だったわけだ。当時キャラクターの印刷されたビニールプールなどの、いわゆる“水もの”のブームがあった。
先に紹介した奥出信行の証言によれば、バンダイの創業者・山科直治と佐藤安太の関係は親密で、会社同士もまるで親子のような調子だったと語ってくれた。戦争体験からエポック社の前田竹虎とも親しく、おもちゃを巡る志から意気投合し、バンダイ、タカラ、エポック社玩具三社会(1961年)を結成し共同で見本市を開催するようになった。
ほどなくトミー、学習研究社、ニチガンが加わり玩具六社会(1963年)に発展し、伝統的な製問中心の業界の勢力図を書き換えるきっかけとなった。
6位の関口玩具はのちに『モンチッチ』をヒットさせるセキグチで、ぬいぐるみのメーカーだ。こうした協力工場を多数コントロールしながら、新しい製問の雄、バンダイが成長していく。12位の酒井製作所は、1965年のヒット作『レーシングカーセット』の製造工場で、このヒットのおかげで同社は翌年の対バンダイ仕入先ランキングの1位に躍り出ることになる。
社史には、
「バンダイの営業マンたちが『とうとう製問のトップグループに追いついた』という実感と自信を持つに至ったのは、昭和40年のレーシングブームの年である」
という記述がある。売り上げもこの年から急伸長を遂げた。
製造出身でないバンダイは、ヒット商品に対して果敢だった。1965年末のレーシングブームは、バンダイだけでなく、米澤玩具、浅草玩具、ツクダヤ、野村トーイ、マルサン商店などの製問各社に、当時急増したプラモデルメーカーの各社、日本模型、東宝模型、コグレ、田宮模型、オオタキ、今井科学、日東化学教材、童友社などが参戦し、激烈な競争を展開した。
バンダイの『レーシングカーセット』は、明治製菓の『マーブルチョコレート』のアトムシールに次ぐプレゼントキャンペーンの対象商品となって人気があった。その年末と明くる正月のレーシング玩具は圧倒的な売れ行きを示し、玩具競合のなかでバンダイはトップを走った。
翌1966年の夏のブーム商品は『クレイジーフォーム』だ。要はスプレー式の泡石鹸なのだが、アメリカで大ヒットしたものをバンダイが輸入販売し、その夏240万本を売り尽くした。『クレイジーフォーム』の人気は2年で終わり、1967年のヒット商品は『サンダーバード』に移った。
『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)は、1966年のヒット商品を宇宙玩具と表記しているが、これはソ連の金星ロケットの打ち上げがあって宇宙への関心が高まり、1966年に『ウルトラQ』『ウルトラマン』の放送があって、宇宙玩具の競合は17社にも及んだことを記しているが、その中心が『サンダーバード』だった。
イギリスの人形劇『サンダーバード』は1966年からNHKでテレビ放送された。ぼくはもう中学二年生だったが、恥ずかしながら夢中になって見ていた。『サンダーバード』の人形劇は、子どもの心を刺激するアイコンに満ちていた。奇抜で未来的なビークルと舞台となる秘密基地のジオラマ世界は作りこまれていて、模型少年の心をとらえた。
それから基地や操縦席のいろいろなボタンやレバー、計器の類。子どもはボタンと見ると押したいし、レバーとなれば引きたい。
高校に入学して間もなくのころ、廊下の火災報知機を火事でもないのに押してしまった同級生がいて、英語の教師から“ミスターボタン”とあだ名をつけられ、彼は3年間そう呼ばれていた。超田舎の子だったからボダンが珍しかったのだろう。その気持ちはぼくにもよくわかった。
加えて、『サンダーバード』の“国際救助隊の存在は秘密”という設定。スーパーマンや月光仮面の例にもれず正義の味方は、その真の姿を世界に知られてはいけないのだ。
『サンダーバード』はプラモデルの今井科学が『サンダーバード2号』、『1号』、『4号』、『3号』と矢継ぎ早に新製品を投入し、1966年から独走態勢に入った。
翌年夏から放送がTBSに移行するとバンダイは今井科学と組んでその番組共同スポンサーとなった。そして1967年の年末に向けてハンドルリモコン式の『サンダーバード2号』、『4号』などを投入した。前年の比較的対象年齢の高いプラモ人気が翌年には4歳から6歳まで低下することを見越しての作戦だった。
結果として『サンダーバード』関連のアイテムが年末のベストセラーランキングを埋め、バンダイは図抜けた売り上げを残すことになった。
ところが、好事魔多し、絶好調だったバンダイに影が差す。
翌年1968年初頭の取引先との会合でバンダイは、突如“無返品取引”を提案して業界に大いなるショックを与えた。業界のこれまでの慣習では、不良品はもちろん、良品でも一定程度の比率で柔軟に流通は小売店から返品を受け入れ、メーカーもそれに対応していた。これをバンダイは、業界の健全な発展という建前のもとに受け入れないと通告したわけだ。
これがケチのつき始めだった。その夏は、いわゆる“水もの”が好調で、ビニールプールや水中モーター付き玩具、『わんぱくフリッパー』などがよく売れた。ところがその後、年末年始商戦売り上げベスト10にバンダイ製品はひとつも入らないという事態となった。
バンダイは、ヒット商品に支えられた市場の恐ろしさを痛感することになった。翌1969年3月には、業界を散々揺るがせた“無返品問題”を白紙に戻す事態に。特に有力な小売商からの反発が激しかったからだ。
そして5月になると、三和銀行から役員を招聘(しょうへい)したことから「バンダイは銀行管理に入った」「資金繰りに詰まって9月には倒産する」といった噂が業界にばらまかれた。69年末の商戦でも、バンダイはヒット作に恵まれなかった。
ヒット商品を矢継ぎ早に送り出してきたバンダイが、68年の年末年始商戦でタカラの『人生ゲーム』や『リカちゃん』、エポック社の『野球盤』、69年にはトミーの『ロボット大回転』やアサヒ玩具の『ママ・レンジ』といった、いわば定番商品に後れを取った。
しかし、ピンチとチャンスはコインの裏表だとよく言う。
『サンダーバード』のプロモーションで共同戦線を張った今井科学が、1969年に会社更生法適用を申請したとの情報が入り、噂の渦中にあった山科が動いた。この工場の金型、土地、建物を買い取って、これがのちにガンプラを送りだすバンダイ模型(1971年設立)の礎となった。そして、同じ1971年に子会社ポピーが誕生した。このやんちゃな子会社が、キャラクター玩具という金の鉱脈を発掘する。
バンダイは他の製問同様、激しいヒット商品レースに埋もれるかと思われたが、ジャンルとして定着することになるプラモデル=ガンプラとキャラクター玩具の覇者となって、次の成長フェーズの緒に就くことになる。
ついにプラモデルが顔を出してきたが、次回はそんなプラモデルの成り立ちに触れていきたいと思う。