電撃オンライン

タカラとトミーは“ヒット商品が抱えるリスク”とどう向き合ってきたのか? その先には『トミカ』や『リカちゃん』があった【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

公開日時:

[IMAGE]

連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第7回

3-2 “定番”を育てたトミーとタカラ

 ファッションの業界であれ娯楽の業界であれ、商品はヒットしてほしいと当たり前に願うもので、商品・作品がヒットすることを警戒するなどということはあり得ないと思われるだろう。

 しかし、ブームの期間があまりに短く競争が激しく偽物が横行し、そのために在庫を多く抱えるとなると、ブーム現象は一挙にリスクに反転する。おもちゃ業界では、いつからか“定番”を育てなければとの声が上がるようになった。

 『玩具通信』にいた時代には“定番”という言葉をずいぶん多用していた。使い方としては「いまこそ流行りに振り回されない定番商品の育成を」とか、「季節ごとの定番商品の陳列がポイント」とか、便利に使っていた。

 いまネットの辞書を引けば、定番商品とは「流行に関わりなく、安定した売り上げが期待できる商品」ということになる。おもちゃでもその定義でよいと思うけど、ぼくの時代の業界の先達は、アメリカとヨーロッパの市場からそれを学び、安定的に継続して販売できるジャンル、自社ブランドを育てようとした。

 少し話はそれるが、戦後から1970年代までの日本の産業界は、欧米、主にアメリカの市場を参考に、追いつき追い越せと競ってきた。だからどの業界も、盛んにアメリカやヨーロッパに視察旅行をしていた。どの業界の社史を読んでも、1950年代、60年代の記述には、市場、商品、新しい技術などを欧米から学んだ、というエピソードが出てくるはずだ。

 ダイエーの創業者である中内功がアメリカからチェーンストアの仕組みを学んだ話は有名だし、出版界でも雑誌協会などが盛んに視察団を組んだ。ぼくの古巣、KADOKAWAの週刊誌『ザテレビジョン』のモデルは、アメリカの『TVガイド』だった。日本の雑誌には、西欧の先行する雑誌をモデルとしたものがたくさんある。

 おもちゃ業界も同様に、アメリカやヨーロッパ市場から多くを学んだ。

 アメリカにはマテル、ハズブロという巨大なおもちゃメーカーがあって流行の先端を行っていたし、フィッシャープライスはプリスクールトイ(幼児向け知育玩具)の見本のような会社だった。世界の2大見本市のひとつニューヨークトイフェアと、同じくニューヨーク5番街のおもちゃ屋FAOシュワルツは、アメリカ出張の定番だった。

 ヨーロッパは、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどが伝統的なおもちゃの生産地で、なかでもドイツは、世界最大のおもちゃショー、ニュルンベルク国際玩具見本市の開催地で、良質な木製玩具のメーカーが多数あった。ドイツ魂が込められた鉄道模型のメルクリン、世界初のテディベアを送り出したぬいぐるみのシュタイフなども有名だった。

 日本の業界人は、こうした欧米のメーカーやトイショーから多くを学んだ。とくに荒れ狂うヒット商品の狭間で、情操教育には欠かせないと思われる積み木・いろいろの木製玩具、人形・ぬいぐるみ、ごっこ遊び道具、ミニチュアの自動車や鉄道のおもちゃ、ゲームやパズルの類などを、定番商品として育てようという機運があった。

 これまで輸出産業として相手国の求めるものを作っていた時代から、戦後10年、20年と経過し国内市場の開拓がテーマとなったとき、資本主義の先を行く市場がおおいに参考になった、ということを表している。 

 『写真集 トミーマジック 世界を驚嘆させたおもちゃたち』(株式会社タカラトミー、2019年)の第1章は、“時代を超えて愛されるものたち”として『プラレール』と『トミカ』を紹介している。

 「1950年代のいわばプラスチック黎明期、欧米では定番だった木製レールトイを「プラスチックで作ればもっとカラフルにできる」と考えて開発されたのが『プラスチック汽車・レールセット』です。のちに匠・富山允就(とみやま まさなり)の代名詞ともなるおもちゃですが・・・発売2年後には電動となって、名称も『プラレール』に変わると、人気が定着しました」

[IMAGE]
▲『プラスチック汽車・レールセット』
 『プラレール』はその後改良に改良を重ね、ロングセラー商品に育った。最初のプラスチックの『汽車レールセット』が1959年に発売されたのに対し、ダイキャスト製ミニカー『トミカ』の発売は、1970年。素材として、プラスチックと並行して富山允就はダイキャストの研究も進めていたが、こちらはこだわるあまりにローンチまで時間がかかったようだ。デザイン、品質、精巧なディテール、ギミックにこだわった。こだわった分だけ、発売と同時に『トミカ』は大ヒットしたと記している。

 鉄道模型のブランドTOMIXが立ち上げられたのは1976年。鉄道模型といえば、当時銀座の天賞堂か関水金属(KATO)が老舗で、O(32mm)ゲージ、HO(16.5mm)ゲージが主流の高級ホビーとして小さな市場を守ってきたが、N(9mm)ゲージでデビューしたトミーのおかげで、一気に大衆化した。

 1970年代後半から鉄道模型のジオラマ展示は、百貨店催事の花形だった。『プラレール』が誰もが一度は通る幼児のおもちゃだとすれば、TOMIXは団塊世代を巻き込んだ大人のホビーとなった。タイトーがアーケードゲームでヒットさせた『電車でGO!』(1996年)は、その後ブームが一回りして、親子で遊べる『ミニ四駆』の同類となった。

 『だっこちゃん』で知られるようになった宝ビニール工業所は、東京オリンピックから2年経った1966年に社名を株式会社タカラに変更し、創業者の佐藤安太はビニール玩具の会社から脱皮し総合玩具メーカーを目指すことを宣言する。同年入社の奥出信行(のちにタカラの社長となる)はこのときに立ち会っている。

 「(1966年)年末に全社員を集め、・・・と言っても畳敷きの部屋に収まるくらい、数十人、ほとんど工員さんですが、社長が、ビニールの会社から総合玩具メーカーになる、と宣言しました。そのためにタカラはマーケティング会社として私が先頭に立つ」

 年末のある日に社員の前でそう宣言したと、インタビューで話してくれた。タカラが町工場から脱皮し、下請け工場から、企画とマーケティングの会社に転身した瞬間だった。

 まず手掛けたのが『リカちゃん』(1967年)で、これが同社の快進撃の始まりとなった。佐藤安太はその自伝で、『だっこちゃん』は偶然起こったブームだったから、『リカちゃん』は、自分でブームにしたいと考えていた、と語っている。

 『リカちゃん』は発売とともに増産に追われるほどの売れ行きで、まさにブームとなったが、2年目になって問屋の反応は、「去年売れたものが今年売れるはずがない」というものだったという。当時の業界の常識がどういうものだったかがよくわかる。

[IMAGE]
▲『リカちゃん人形』
 そこで安太は“永遠に売れる”商品の改良とブランド戦略を決意することになる。『リカちゃん』が発売前も発売後も“永遠に売れる”ためにさまざまなマーケティング施策が打たれたアイテムであることは『リカちゃん生まれます』(小島康宏、集英社、2009年)に詳しい。

 少し先走れば、このあと佐藤安太は『人生ゲーム』(1968年)、『変身サイボーグ』(1972年)、『ミクロマン』(1974年)、『チョロQ』(1980年)と、次々にヒット商品を生み出していったが、その道のりは、玩具総合メーカーとして、女児玩具、男児玩具、ゲームの世界の代表となる定番商品を送り出して、経営の安定を図った軌跡ともいえる。

[IMAGE]
▲『人生ゲーム』
[IMAGE]
▲『ミクロマン』
[IMAGE]
▲『チョロQ』
 リカちゃんも、トミーの例のように先行例としてすでにマテルのバービー人形があった。男児玩具にもハズブロのGIジョーがあったし、人生ゲームはアメリカのミルトン・ブラッドレー社(ハズブロに買収された)の『THE GAME OF LIFE』の翻訳だった(マテルとハズブロはアメリカの2大おもちゃメーカーだ)。海外に範があったことは間違いなかった。

 しかしこれは模倣ではない。先行する資本主義社会の市場から生まれた製品を参考にして、日本の市場に受け入れられる製品づくりとマーケティングに、どの商品でも多大な努力を傾注しなければならなかった。あらゆるオリジナリティとはそのように、先行するもの、範となるものを、新しい技術で新しい時代に合わせて提供することを言うのだ。

 今回はタカラとトミーに焦点を当てたが、次回はバンダイの話を書こうと思う。バンダイの戦い方は、この2社と実に対照的だった。
【第20回までは毎日更新! 以降は毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

前回のコラムはこちら

第1回はこちら

    本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります