連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第6回
第3章 ヒット商品は天国か地獄か 3-1 戦後のおもちゃのヒット商品分析
トミー、タカラ、バンダイの創業の様子を紹介した前章に続き、その3社の戦後から70年代までを追う。団塊の世代とともにあった好景気の時代だ。景気の波に乗って国内市場が形成され、次々とヒット商品が生まれた時代である。
1968年には国内総生産(GDP)がドイツを抜いて世界第2位となり、1970年には大阪万博があった。輸出を主導した製問と、国内市場の開拓に注力したトミー、タカラ、バンダイ大手3社との違いがこのころ鮮明となる。
ヒット商品は魅力的でときに破滅的で、これを巡り激烈な競争を展開して敗れるものもあり、勝ったとしても、その後が続かず結局敗れるものもあった。ヒット商品から距離を置き、“定番”という独自の道を行くものもあった。ヒット商品の連鎖がやがて市場に定着して“ジャンル”にまで発展する例もあった。いずれにせよ、ヒット商品とどう向き合うかがその後の消長を決した。
なので、この項では、おもちゃのヒット商品の系譜を、その経済的背景とともに紹介することから始めよう。
日本の戦後の経済は、1970年代中盤のオイルショックまでは、ほぼ一直線に成長曲線を描いた。神武景気(1954~1957)、岩戸景気(1958~1961)、オリンピック景気(1962~1964)、いざなぎ景気(1965~1970)と続く好景気は、団塊の世代とともにあった。そのあと、2度のオイルショック(1973~1974、1978~1982)をはさんだバブル景気(1986~1991)以降は、団塊の世代の子どもたちとともにあった。
ぼくが角川書店(現KADOKAWA)で『コンプティーク』の創刊に立ち会った1983年はマイコンブームのさなかで、東京ディズニーランドが開園し、ファミコンが発売された年でもある。そのころと言えば、団塊世代の子どもたちがヒット商品の中心世代(小学校三年生~五年生)に達した時代で、その幕開けに立ち会ったのだという強烈な意識がぼくにはあった。
そしてそれから10年を経た1995年が少子高齢化の幕開け、生産年齢人口(15歳~64歳)よりも従属人口(14歳以下と65歳以上)のほうが多くなる“人口オーナス時代”(その反対を人口ボーナス時代という)へ突入し“失われた30年”などと言われる時代となる。
ぼくなりに整理して……
時代A:団塊の世代とともにあった好景気の時代(戦後から1970年代まで)
時代A’:団塊の世代に遅れた谷間の世代の時代
時代B:団塊の世代の子どもたちとともにあったバブル時代(1980年代)
時代C:人口オーナス時代の失われた時代(1995年以降)
と区分しよう。このなかで時代A´は、ファミコン世代に先駆けるおたくの第一世代の時代として、その重要性はあとで触れる。
第3章と第4章は、もっぱら時代Aの分析に終始する。時代B以降は第5章以降に譲る。
まず、時代Aのおもちゃのヒット商品の系譜を見る。おもちゃはファッション商品と同様、あるいはアニメやマンガのコンテンツ同様、ヒット商品が時代をリードしていくもので、その視点で分析するのが一番いいと思う。ここでは、これまで引用してきた『輝ける~130年』、『昭和玩具文化史』から、時代Aの団塊の世代とともにあった好景気の時代を、ヒット商品とその現象や背景によってみっつのブロックに分ける。
【ブロック1 単発ブーム商品の時代】
まずは、時代Aの初期に、単発のブーム玩具の時代があった。おもちゃはまだ輸出が主流の時代だ。国内市場は未成熟。これをブロック1とする。その代表的なアイテムがこちら。
1956年 ホッピング
1958年 フラフープ
1960年 だっこちゃん
1965年 スーパーボール
1966年 クレイジーフォーム
1971年 アメリカンクラッカー
【ブロック2 ヒット商品競合の時代】
次いで、比重が徐々に国内市場に移り、その競争が激しくなった時代。金属からプラスチック、フリクションから電動、そしてエレクトロニクスにと、素材も多様となった。各社が同じような商品を送り出すヒット商品競合の時代だ。これをブロック2としよう。
1965年 レーシング
1966年 宇宙玩具(サンダーバードなど)
1968年 ブロック玩具
1970年 ボーリングゲーム
1977年 TVゲーム
1978年 RC(ラジコン)カー
1980年 男児キャラクター玩具
【ブロック3 時代を超えてジャンルとして定着した玩具】
数あるヒット商品のなかから、単なるヒットに終わらず、それ以降ジャンルとして確立したものがあった。これをブロック3としよう。
1951年~現在 プラモデル
1957年~現在 マスコミ玩具(キャラクター玩具)
(ブロック1)ブロック1に掲げられたヒット商品群のうち、ホッピングやフラフープは、4人兄弟の末っ子だったぼくは、兄や姉と取り合いながら遊んだ。『だっこちゃん』は、“腕に巻いて銀座を闊歩するおねえさん”みたいな見出しの映画館のニュースで盛んに取り上げられていた。わが家の2人の姉たちも腕に巻いていたような記憶がおぼろげにある。
『だっこちゃん』以外のブーム商品は、みなアメリカ生まれだ。一過性が特徴で、爆発的に売れるが大量に偽物が出て、1年程度であっという間にブームが去る、というパターンを繰り返した。
だからこの時代のヒット商品は、いい話ではなくむしろ始末の悪かった話として語り継がれている。
唯一日本発のヒット商品である『だっこちゃん』の生みの親で、タカラの創業者・佐藤安太の伝記『おもちゃの昭和史 おもちゃの王様が語る』(角川書店、2011年)を読むと、『だっこちゃん』ブームは、会社の存在を知らしめる効果は絶大だったが、経営的には利益が出るどころか、痛手を被って終わった様が描かれている。
一世を風靡する大ブームだったが、たった1年の短期間で終わり、かつ大量に偽物が出回ったから、オリジナルの優位が得られなかった。当時“黒いビニール人形”、つまり偽物を含めれば1,000万個以上が売れたらしいが、佐藤ビニール工業の製造した本物は、240万個を売ったに過ぎなかった。
いいことばかりでなかったふたつめの理由は、『だっこちゃん』はアイデアも製造も佐藤ビニール工業所だったが、発売元は製問のツクダ屋で、最初の契約の納品値段の90円を守ったうえに他の問屋に卸さなかったから、売れた割には利益率が低かった。結局1,700万円しか利益はなかったという。
『だっこちゃん』ブームは1年でぱたっと終わってしまった。その1年は『だっこちゃん』に明け暮れて他の仕事は断って『だっこちゃん』だけを作っていたから、ブームが終わったとたんに仕事がなくなった。100名近くいた従業員も雇っているわけにはいかなくなって辞めてもらうしかなかった。
「終わってみると、わたしと妻と二人きり、振出しに戻っちゃった」
と『おもちゃの昭和史』に佐藤安太の述懐が載っている。この時代のヒット商品は、業界を活気づけたが、負の側面も大きかった。第一に、ヒット商品が生まれるとすぐに偽物や類似商品が出回る、当時の業界の体質が問題だった。それもあってか、ブロック1に振り分けられたホッピング、フラフープ、『だっこちゃん』、スーパーボールなどは、一過性のブーム商品として短命だった。
もともとおもちゃはファッション商品だから、湧いて出たかのように出現し一気にバブル化することがあった。そこに確かな消費者ニーズがなくてもだ。この時代の好景気と極端な人口増、テレビや雑誌などマスコミの登場が、ブームを生じさせやすい状況を作ったのかもしれない。
いずれにせよ、終わってみれば、なぜそれが売れたのかが説明できない、今後のマーケティングに生かせるものがない。背景がないから、ヒットの再現性がないことが最大の問題だった。ヒット商品を送り出すことはその裏に地獄が張り付いていた。
この時代、ブーム商品と言われながらも例外的にいまでも改良を重ねて売れ続けているものとして、エポック社の『野球盤』(1958年)がある。時代が変わっても売れ続ける理由が説明できる商品は、定番化する。
(ブロック2)次いでブロック2の商品群は、同じヒット商品でもとくに競合が激しかったもの。輸出中心だったおもちゃも、香港などの追い上げもあって、国内市場の開拓がテーマとなってきた。とくに1970年代から、国内市場における競争が激化した。
ぼくが『玩具通信』にいた70年代中盤以降はその傾向が激しくて、TVゲームやラジコンカーは10社、20社と競合してくるので、新聞では一覧表にして機能比較した記事を載せるのだが、たいして違わないものが並ぶことになる。
例えば1970年のボーリングゲームなどは、その年の玩具見本市に25社から50~60点が、1978年のRCカーブームのときはやはり見本市に20社以上から出品されたと記録にある。
(ブロック3)マスコミ玩具(キャラクター玩具)とプラモデルは、ブロック2の商品群同様、ヒット商品として激しい競争を演じたが、やがて時代を超えたジャンルとして定着した。一時のブームで終わらず市場が拡大した。その覇者となって市場を支配するものが現れたが、撤退を余儀なくされたものも数多くあった。
ここで一旦これまでのプレイヤーの栄枯盛衰の話をすると、伝統的な製問のメンバーは、ブロック2のヒット商品の競合の時代まではプレイヤーの一員として互角に戦ったが、しかしこの競合の勝者は同じ製問仲間のバンダイであることが多かった。それについてはあとで触れる。
ブロック3のプラモデルにおいてもマスコミ玩具においても、参戦するも主流となれずに撤退するものも多かった。さらに、プラモデルは生産地が静岡に移って東京は舞台ではなくなった。
撤退例をあげれば、製問の有力企業だったマルサン商店は、プラモデルを日本で最初に発売し、ソフビ怪獣でも一世を風靡したが、いずれも早い時期に撤退した。アサヒ玩具は『ママ・レンジ』のほか、『ベルサイユのばら』やピンク・レディーのキャラクター玩具などをヒットさせた優良企業だったが、モスクワオリンピックのマスコット人形『こぐまのミーシャ』に大きく賭けて在庫を残し、1982年に廃業。
タカトクトイスも、赤胴鈴之助に始まり『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、『ウルトラマン』、『サンダーバード』などのキャラクター商品で次々にヒットを飛ばし、この世界ではバンダイに先行していたが、後発のポピー(バンダイグループ)との激しい市場争いに敗れ撤退した。
さらにその先のTVゲームの時代になると、ひとり勝ちの任天堂の陰で製問の各社は、転身を迫られる。野村トーイは米国ハズブロに買収(1992年)されハズブロージャパン株式会社に、米澤玩具はセガに買収(1994年)されセガトイズ(2024年4月にセガフェイブに名称変更)となった。
対して、トミーとタカラは、ブロック1のヒット商品の暗黒面を教訓に、ヒットに左右されない“定番商品”を武器に勝ち残る。そしてバンダイは、ヒット商戦を連勝し、ブロック3のプラモデルとマスコミ玩具の覇者となる。
ここから先は、伝統的な製問の話を離れ、トミーとタカラ、バンダイ、これに加えて田宮模型のファミコン以前の時代までの物語に移って行こう。
1968年には国内総生産(GDP)がドイツを抜いて世界第2位となり、1970年には大阪万博があった。輸出を主導した製問と、国内市場の開拓に注力したトミー、タカラ、バンダイ大手3社との違いがこのころ鮮明となる。
ヒット商品は魅力的でときに破滅的で、これを巡り激烈な競争を展開して敗れるものもあり、勝ったとしても、その後が続かず結局敗れるものもあった。ヒット商品から距離を置き、“定番”という独自の道を行くものもあった。ヒット商品の連鎖がやがて市場に定着して“ジャンル”にまで発展する例もあった。いずれにせよ、ヒット商品とどう向き合うかがその後の消長を決した。
なので、この項では、おもちゃのヒット商品の系譜を、その経済的背景とともに紹介することから始めよう。
日本の戦後の経済は、1970年代中盤のオイルショックまでは、ほぼ一直線に成長曲線を描いた。神武景気(1954~1957)、岩戸景気(1958~1961)、オリンピック景気(1962~1964)、いざなぎ景気(1965~1970)と続く好景気は、団塊の世代とともにあった。そのあと、2度のオイルショック(1973~1974、1978~1982)をはさんだバブル景気(1986~1991)以降は、団塊の世代の子どもたちとともにあった。
ぼくが角川書店(現KADOKAWA)で『コンプティーク』の創刊に立ち会った1983年はマイコンブームのさなかで、東京ディズニーランドが開園し、ファミコンが発売された年でもある。そのころと言えば、団塊世代の子どもたちがヒット商品の中心世代(小学校三年生~五年生)に達した時代で、その幕開けに立ち会ったのだという強烈な意識がぼくにはあった。
そしてそれから10年を経た1995年が少子高齢化の幕開け、生産年齢人口(15歳~64歳)よりも従属人口(14歳以下と65歳以上)のほうが多くなる“人口オーナス時代”(その反対を人口ボーナス時代という)へ突入し“失われた30年”などと言われる時代となる。
ぼくなりに整理して……
時代A:団塊の世代とともにあった好景気の時代(戦後から1970年代まで)
時代A’:団塊の世代に遅れた谷間の世代の時代
時代B:団塊の世代の子どもたちとともにあったバブル時代(1980年代)
時代C:人口オーナス時代の失われた時代(1995年以降)
と区分しよう。このなかで時代A´は、ファミコン世代に先駆けるおたくの第一世代の時代として、その重要性はあとで触れる。
第3章と第4章は、もっぱら時代Aの分析に終始する。時代B以降は第5章以降に譲る。
まず、時代Aのおもちゃのヒット商品の系譜を見る。おもちゃはファッション商品と同様、あるいはアニメやマンガのコンテンツ同様、ヒット商品が時代をリードしていくもので、その視点で分析するのが一番いいと思う。ここでは、これまで引用してきた『輝ける~130年』、『昭和玩具文化史』から、時代Aの団塊の世代とともにあった好景気の時代を、ヒット商品とその現象や背景によってみっつのブロックに分ける。
【ブロック1 単発ブーム商品の時代】
まずは、時代Aの初期に、単発のブーム玩具の時代があった。おもちゃはまだ輸出が主流の時代だ。国内市場は未成熟。これをブロック1とする。その代表的なアイテムがこちら。
1956年 ホッピング
1958年 フラフープ
1960年 だっこちゃん
1965年 スーパーボール
1966年 クレイジーフォーム
1971年 アメリカンクラッカー
【ブロック2 ヒット商品競合の時代】
次いで、比重が徐々に国内市場に移り、その競争が激しくなった時代。金属からプラスチック、フリクションから電動、そしてエレクトロニクスにと、素材も多様となった。各社が同じような商品を送り出すヒット商品競合の時代だ。これをブロック2としよう。
1965年 レーシング
1966年 宇宙玩具(サンダーバードなど)
1968年 ブロック玩具
1970年 ボーリングゲーム
1977年 TVゲーム
1978年 RC(ラジコン)カー
1980年 男児キャラクター玩具
【ブロック3 時代を超えてジャンルとして定着した玩具】
数あるヒット商品のなかから、単なるヒットに終わらず、それ以降ジャンルとして確立したものがあった。これをブロック3としよう。
1951年~現在 プラモデル
1957年~現在 マスコミ玩具(キャラクター玩具)
(ブロック1)ブロック1に掲げられたヒット商品群のうち、ホッピングやフラフープは、4人兄弟の末っ子だったぼくは、兄や姉と取り合いながら遊んだ。『だっこちゃん』は、“腕に巻いて銀座を闊歩するおねえさん”みたいな見出しの映画館のニュースで盛んに取り上げられていた。わが家の2人の姉たちも腕に巻いていたような記憶がおぼろげにある。
『だっこちゃん』以外のブーム商品は、みなアメリカ生まれだ。一過性が特徴で、爆発的に売れるが大量に偽物が出て、1年程度であっという間にブームが去る、というパターンを繰り返した。
だからこの時代のヒット商品は、いい話ではなくむしろ始末の悪かった話として語り継がれている。
唯一日本発のヒット商品である『だっこちゃん』の生みの親で、タカラの創業者・佐藤安太の伝記『おもちゃの昭和史 おもちゃの王様が語る』(角川書店、2011年)を読むと、『だっこちゃん』ブームは、会社の存在を知らしめる効果は絶大だったが、経営的には利益が出るどころか、痛手を被って終わった様が描かれている。
一世を風靡する大ブームだったが、たった1年の短期間で終わり、かつ大量に偽物が出回ったから、オリジナルの優位が得られなかった。当時“黒いビニール人形”、つまり偽物を含めれば1,000万個以上が売れたらしいが、佐藤ビニール工業の製造した本物は、240万個を売ったに過ぎなかった。
いいことばかりでなかったふたつめの理由は、『だっこちゃん』はアイデアも製造も佐藤ビニール工業所だったが、発売元は製問のツクダ屋で、最初の契約の納品値段の90円を守ったうえに他の問屋に卸さなかったから、売れた割には利益率が低かった。結局1,700万円しか利益はなかったという。
『だっこちゃん』ブームは1年でぱたっと終わってしまった。その1年は『だっこちゃん』に明け暮れて他の仕事は断って『だっこちゃん』だけを作っていたから、ブームが終わったとたんに仕事がなくなった。100名近くいた従業員も雇っているわけにはいかなくなって辞めてもらうしかなかった。
「終わってみると、わたしと妻と二人きり、振出しに戻っちゃった」
と『おもちゃの昭和史』に佐藤安太の述懐が載っている。この時代のヒット商品は、業界を活気づけたが、負の側面も大きかった。第一に、ヒット商品が生まれるとすぐに偽物や類似商品が出回る、当時の業界の体質が問題だった。それもあってか、ブロック1に振り分けられたホッピング、フラフープ、『だっこちゃん』、スーパーボールなどは、一過性のブーム商品として短命だった。
もともとおもちゃはファッション商品だから、湧いて出たかのように出現し一気にバブル化することがあった。そこに確かな消費者ニーズがなくてもだ。この時代の好景気と極端な人口増、テレビや雑誌などマスコミの登場が、ブームを生じさせやすい状況を作ったのかもしれない。
いずれにせよ、終わってみれば、なぜそれが売れたのかが説明できない、今後のマーケティングに生かせるものがない。背景がないから、ヒットの再現性がないことが最大の問題だった。ヒット商品を送り出すことはその裏に地獄が張り付いていた。
この時代、ブーム商品と言われながらも例外的にいまでも改良を重ねて売れ続けているものとして、エポック社の『野球盤』(1958年)がある。時代が変わっても売れ続ける理由が説明できる商品は、定番化する。
(ブロック2)次いでブロック2の商品群は、同じヒット商品でもとくに競合が激しかったもの。輸出中心だったおもちゃも、香港などの追い上げもあって、国内市場の開拓がテーマとなってきた。とくに1970年代から、国内市場における競争が激化した。
ぼくが『玩具通信』にいた70年代中盤以降はその傾向が激しくて、TVゲームやラジコンカーは10社、20社と競合してくるので、新聞では一覧表にして機能比較した記事を載せるのだが、たいして違わないものが並ぶことになる。
例えば1970年のボーリングゲームなどは、その年の玩具見本市に25社から50~60点が、1978年のRCカーブームのときはやはり見本市に20社以上から出品されたと記録にある。
(ブロック3)マスコミ玩具(キャラクター玩具)とプラモデルは、ブロック2の商品群同様、ヒット商品として激しい競争を演じたが、やがて時代を超えたジャンルとして定着した。一時のブームで終わらず市場が拡大した。その覇者となって市場を支配するものが現れたが、撤退を余儀なくされたものも数多くあった。
ここで一旦これまでのプレイヤーの栄枯盛衰の話をすると、伝統的な製問のメンバーは、ブロック2のヒット商品の競合の時代まではプレイヤーの一員として互角に戦ったが、しかしこの競合の勝者は同じ製問仲間のバンダイであることが多かった。それについてはあとで触れる。
ブロック3のプラモデルにおいてもマスコミ玩具においても、参戦するも主流となれずに撤退するものも多かった。さらに、プラモデルは生産地が静岡に移って東京は舞台ではなくなった。
撤退例をあげれば、製問の有力企業だったマルサン商店は、プラモデルを日本で最初に発売し、ソフビ怪獣でも一世を風靡したが、いずれも早い時期に撤退した。アサヒ玩具は『ママ・レンジ』のほか、『ベルサイユのばら』やピンク・レディーのキャラクター玩具などをヒットさせた優良企業だったが、モスクワオリンピックのマスコット人形『こぐまのミーシャ』に大きく賭けて在庫を残し、1982年に廃業。
タカトクトイスも、赤胴鈴之助に始まり『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、『ウルトラマン』、『サンダーバード』などのキャラクター商品で次々にヒットを飛ばし、この世界ではバンダイに先行していたが、後発のポピー(バンダイグループ)との激しい市場争いに敗れ撤退した。
さらにその先のTVゲームの時代になると、ひとり勝ちの任天堂の陰で製問の各社は、転身を迫られる。野村トーイは米国ハズブロに買収(1992年)されハズブロージャパン株式会社に、米澤玩具はセガに買収(1994年)されセガトイズ(2024年4月にセガフェイブに名称変更)となった。
対して、トミーとタカラは、ブロック1のヒット商品の暗黒面を教訓に、ヒットに左右されない“定番商品”を武器に勝ち残る。そしてバンダイは、ヒット商戦を連勝し、ブロック3のプラモデルとマスコミ玩具の覇者となる。
ここから先は、伝統的な製問の話を離れ、トミーとタカラ、バンダイ、これに加えて田宮模型のファミコン以前の時代までの物語に移って行こう。