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タカラ、バンダイの創業を見る。若き日の佐藤辰男が抱いたバンダイの印象とは?【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第5回

2-3ビニール加工に始まるタカラの戦後

 タカラは、京成線立石の隣駅・青砥が最寄り駅で、電車で行くときは隣接する青戸平和公園のなかを突っ切って行った。タカラの社員がこの公園で遊んでいる子どもたちを集めては、発売前のおもちゃを遊んでもらい、マーケティングの一助としていた、という話は業界では有名だった。本社ビルの屋上にはだっこちゃんのマークが掲げられていた。タカラのマークはしばらくビニール人形の『だっこちゃん』だった。

 タカラの創業者である佐藤安太が、戦後初めて出会った技術はビニール加工だった。佐藤安太は、米沢工業専門学校(いまの山形大学工学部)の学生だった戦時中に空襲に遭い防空壕で被弾(といっても隣の人の返り血を浴びただけだったらしい)し、終戦の玉音放送は病院のベッドの上で聞いたという。

 戦後東京に出て製紙会社に勤めるが組合活動に没頭し、いられなくなって20代半ばで退職。職を転々としているときに学校時代の先輩に、“下請け”をやってみないかと誘われる。先輩の会社は、当時新素材として日本でも始まったばかりの塩化ビニールの生産を行っていて、その会社からビニールフィルムを仕入れて製品に加工する仕事だった。

 安太は応用科学科出身だったから石油製品の知識があった。直感的にこれを天職と感じたと、著書『おもちゃの昭和史 おもちゃの王様が語る』(角川書店、2011年)で語っている。

 早速安太は、先輩の会社や同業者の集まる東京葛飾区の宝町に佐藤加工所を旗揚げした。29歳だった。先輩は会社を作るにあたって、「結婚していたほうがいい」と言って、近所の高砂にある染め物工場の長女の美衛子さんを紹介してくれた。

 美衛子さんは職人の扱いに慣れているうえに経理もできた。2年後の1955年には結婚し、社名も有限会社佐藤ビニール工業所に改め、従業員数も30人を超えるまで大きくなったという。美衛子さんはきっと寅さん映画のさくらさんのような人だったのだろうと、勝手に想像する。

 『おもちゃの昭和史』は「従業員たちもまだ10代の若者だから、(親方に)叱られればふてくされることもある。そこを、優しいおかみさんがなだめ、なにかと面倒を見てやる。従業員たちは、おかみさんのために一生懸命働く。それでよかった」などと記している。

 それはともかく、「ビニール製品であればなんでも」が売りで、ビニールの財布、ベルト、雨ガッパなどを作っていた。総合玩具メーカーに発展する素地はまだなかった。発展のきっかけは、『だっこちゃん』だった。

 黒いビニール人形の『だっこちゃん』について説明は不要だろう。1960年に発売するとたちまち大ヒットした。『おもちゃの昭和史』は『だっこちゃん』のヒットの理由をいろいろあげているが、そういう後付けの理由より肝心なのは、発売に至る意志や動機、そしてそのプロセスだろう。

 このころタカラ企画なるオリジナル製品の企画開発の拠点を設けた。下請け工場として、いろいろな空気入りビニール人形の注文を受けていたが、安太が、ここから独自のアイデアでオリジナリティにあふれた玩具を作ろうとした。

 浮き輪やビーチボールなどの当たり前の、注文通りの商品を生産する傍らで、足に滑車を付けた犬の空気入りビニール人形とか、空気入りビニール人形が乗ったエンジンの唸り音を出すプラスチック自動車とか、『おすまし猫』(筆者はどんなものかわからないが)とか、オリジナル製品を世に問うた。

 そういうオリジナル路線のなかに、『木のぼりウィンキー』、通称『だっこちゃん』があった。

 佐藤ビニール工業所は、宝ビニール工業所となり『だっこちゃん』を発売(1960年)、『ジャラ』や『空とぶ鉄人28号』などの、オリジナルのヒット作を生み、1966年には株式会社タカラとなった。

 のちに株式会社タカラの社長となる奥出信行は、富山大学卒業後1966年にまだ宝ビニール工業所だった時代に入社した。まったくの町工場で、周囲には同じような町工場、工場ともいえない家内工業、親方1人で人形をつくっているような職人さんなどがいっぱいいたと、インタビューで話してくれた。ここまでは、ビニールという新素材との格闘の物語だ。その後のタカラがたどる総合玩具メーカーへの物語は、先に譲ろう。

 おもちゃの歴史は素材の変遷で語られると、本章の冒頭で書いたが、例えばブリキのおもちゃは、その特性を極限まで生かされて次のプラスチックに席を譲った。言い換えれば成熟期のブリキのおもちゃはその特性を最大限生かされ、精巧な動きをするものがあった。堅牢性がなくて安価なビニールも、安太のアイデアでその特性を試され尽くしたと言える。これまで紹介した富山栄市郎も佐藤安太も、初期は素材と格闘した製造業の人だった。

 バンダイの創業者の山科直治は、ちょっと色合いが違うスタートを切った。

2-4バンダイの創業者・山科直治は商いの人

 1941年、軍人だった山科直治は、中国北部の戦闘で、手りゅう弾の破片が目に入り右目を失明し、病院を転々としたのち、1945年の終戦を生地の金沢で迎える。すでに結婚していて、終戦時には長男の誠は、生後半年だった。

 バンダイの社史『萬代不易:バンダイグループ三十年のあゆみ』(株式会社バンダイ、1980年)は、人生の転機を求めて山科直治が、終戦から2年経った1947年の年末の押し詰まったころに、雪の降る金沢を夜行列車で発ち、翌朝に上野駅に着くところから始まる。

 金沢の地で、妻の兄が営む繊維問屋が、戦後の新しい事業として玩具の仕入れ販売を選び、直治はその東京の拠点、萬代産業株式会社・東京出張所の責任者として、家族4人(誠の弟が誕生していた)で赴任したのだ。最初の地は蔵前から少し西に行った台東区小島町。玩具問屋が集う蔵前の西の地だ。最初の仕事を……

 「葛飾あたりの群小メーカーから『ガラガラ』、『起き上がり』といった、むかしながらのセルロイド製玩具とピンポン玉といったものを仕入れ、半分は金沢本社に送り、残り半分は東京から直接、札幌の丸井今井と岡山の天満屋デパートに納めることだった」

 と記している。

 バンダイの前身、萬代産業東京出張所は、小物玩具を扱う地方問屋の東京支社としてスタートした。山科は、金沢時代に、繊維問屋の仕事の傍らでおもちゃの商いをしながら、東京のおもちゃ業界の勢力図を学習したという。製造から始めたトミーの富山栄市郎やタカラの佐藤安太と違って、山科の目標は“製問”の地位を確立することだった。

 金沢の本社が繊維問屋に専念することになって、1950年に山科は独立を果たし、玩具問屋として萬代屋を創業した。扱い商品も金属玩具、乗り物の三輪車、ゴム製浮き輪など拡大させていった。

 金属玩具発売の第1号となったのは、フリクション動力で双発プロペラが回転して走る『B26』飛行機だった。製造を墨田区平川橋の真通製作所(社長は直治の妹の夫)に委託した。これが製問デビューの第1号だ。この金型の投下資金回収のために同じ金型を使った『F80』飛行機など次々に新製品を送り出し、主力を小物から金属玩具に移し仲間卸に力を入れた。また協力工場の数を増やし輸出に力を入れ、製問としての力を付けていった。

 『萬代不易』には初期の3年間(1952年~55年)の急成長ぶりを紹介する記述があって、そこでは、

 「無名の地方卸問屋から製問に仲間入りして、先輩の大手製問(増田屋齋藤貿易、野村トーイ、米澤玩具の名前をあげている)に伍して戦っていくには、石にかじりついてでも、という気構えが必要であった」

 と記している。

 山科直治は製造出身の先の2人と違って、商い、今風に言えばマネジメントに力点を置いた発言が目立つ。「出荷迅速」、「商売の利益は回転の速度である」、「利益率を重んじる効率経営」などの山科語録は、バンダイ創業期の金言だった。

 老舗の製問は、しかし目標からいつの間にか乗り越える相手となったのではないか。社史は、初期のころの記述で、盛んに「未経験者ばかりの集団で逆に言えば業界の伝統にとらわれない自由な発想」を持っていたことを強調する。それが『BC(バンダイカンパニー)ニュース』の創刊と『赤函BC保証玩具』の発売だったと、社史にある。

 『BCニュース』は小ぶりの6ページのパンフレットで、デパートや玩具小売店に配布された。内容は新製品の紹介と扱い問屋のリストが主だが、創刊号には青年山科直治の主張が記されていた。

 類似の新型を矢継ぎ早に出すことを止めよう、他店の追従を許さぬ耐久力のある良品を市場に出したい、玩具はアイデアとデザインで売るのだから、化粧品や薬のように十分な宣伝費をかけ同一製品の販売量を増やし、デパートや小売りを潤すこと。業界をあげてニューヨークのトイフェアのようなものを開催したい、とうたった。同紙は月刊で、年を追うごとにページ数と情報量を増やした。早くから“情報”の重要性に気づいていたということだろう。

 創刊号で示した理想の実現のひとつが、“保証玩具”だった。壊れない安全玩具、壊れたら修理してお返しします、ということをうたった。このころのおもちゃには安かろう悪かろうと言われても仕方ないものも多かった。“保証玩具”は、そういう業界への提言であった。

 1961年には萬代屋からバンダイに社名変更した。これを機に大増資を行い、取引先や小売店にも株を引き受けてもらった。社員には、それ以前から愛社精神を持たせるためにある程度の株を持たせるように仕向けていた。だから株式の上場(1986年に東証二部上場)への道も容易だったに違いない。ぼくが記者だった時代にもバンダイはオーナー企業というより、社員に“侍”の多い、闘争心のある会社のイメージだった。

 ビジョナリーという英語は、先見性や未来志向を指す言葉だが、バンダイはこの時点ですでに“ビジョナリー・カンパニー”の萌芽があった。製問を目指し製問を超え、のちに商社的な嗅覚で次々に関連する企業を買収していったバイタリティが、このころすでにあったというべきだろう。

 さて次回は、“ヒット商品”についてのお話。誰もが欲するヒット商品だが、それがもたらすのは天国だけ……というわけではない。続きは次回をお楽しみに。
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