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トミー創業の物語。ひたむきにモノづくりに没頭していく少年の姿がそこにはあった【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第4回

第2章 トミー、タカラ、バンダイ、それぞれの創業物語 2-1技術革新とカルチャーの波に乗る

 戦後のおもちゃの歴史は、素材の変遷として語られることが多い。紙、土、木、布帛といった自然素材に始まりセルロイド、ブリキを経て、戦後はビニール、プラスチック、ダイキャスト、動力源としてはゼンマイからフリクションへ、そして電動へと変化していく。電動も有線から無線へ、エレクトロニクスへ、そしてマイクロプロセッサーの発明によるTVゲームへの道がある。いずれも技術革新による変化だ。

 それとは別に、社会の変化、文化状況の変化への対応がある。戦後からたどれば、電動玩具を中心に輸出で潤った時代、経済の高度成長と団塊世代の成長に合わせて、目まぐるしくヒット商品が入れ替わる時代、マスコミ(キャラクター)玩具、ファンシー雑貨の登場など、年齢層の拡大、嗜好の多様化に合わせた市場の変化があった。

 これから登場する各社の創業物語は、結局そういう新技術や社会の変化の波に乗れたかどうかが、端緒となる。時代が下って、団塊の世代の子どもたちの成長に合わせるようにファミコンやPC、そしてその後のスマホの登場するぼくたちの時代でも同じことで、結局誰もが時代の子なのだ。

 ここでは、そういう時代の子である創業者のなかで、隅田川の向こうにあっておもちゃ工場からスタートしたトミー、タカラ、手前の蔵前にあって製問からスタートしたバンダイ、この出自の違いがその後どう影響していくかについても触れていく。

2-2富山栄市郎“ケトバシ”と出会う

 僕がかつて作っていたおもちゃの新聞“玩具通信”の取材でトミーを訪ねるのは楽しみだった。

 会社のあった台東区蔵前からは浅草線で地下から隅田川を潜り、確か曳舟あたりで電車は地上に出て、荒川の橋梁をガタゴトと渡り京成立石駅に着く。駅階段を降りてトミーの本社までの道は、むかしから飲兵衛通りだった。商店の低い軒先の並ぶ通りに煮炊きの匂いが漂い、行きかう人は寅さんの映画に出てくるような昭和感を漂わせていた。

 八百屋、惣菜屋、スーパーなどがあるなかで、居酒屋、スナック、パブの比率が異常に高く、できるだけ午後遅くに出かけて、取材のあとは場所をほの暗いところに移すのが習わしだった。

 駅前開発が進んだいまは、あの景色は幻と消えてしまった。

 立石駅から5分も歩けばトミーの本社に着くのだが、最初に“富山”の表札のかかった木造の家が目に飛び込んできた。要は下町の工場に社長宅が食い込んでいた。あえて失礼を顧みずに言えば、規模こそ違え、『寅さん』シリーズに出てくるとらやさんの裏の印刷工場のようなものだ。

 
「工場から出て家の扉を開けたら、すぐそこがお風呂。工員さんが毎日入りに来て・・・住み込みのお手伝いさんが大きな釜でご飯を炊き、工場に住む工員さんらに賄い(まかない)を出す」、町の様子も「町工場がたくさんあって、集団就職で出てきた若い工員さんがいっぱい。床屋さんに行くとどこも満杯で並んでいました」と、いずれもタカラトミーの富山幹太郎会長(富山栄市郎の孫)が日経新聞でむかしを懐かしんでいた描写だ。

 タカラトミーの公式サイトに
社史『軌跡~夢をカタチに~』が掲載されている。この社史の創業者の少年時代の物語がとても良い。知識をどん欲に吸収して、機械の魅力にひかれてひたむきにモノづくりに没頭していく少年の姿が清新だ。

 冒頭を要約すると、トミーの創業者の富山栄市郎は、明治35年(1902年)埼玉県に生まれる。家業の荒物問屋が没落し、わずか9歳(!)で、東京・日本橋の製本工場に丁稚(でっち)奉公に出される。栄市郎は、奉公先で一緒に寝起きする帝大生のお兄さんから英語を習い、日本橋の丸善や神田の古本屋街に連れられ、外国のグラビア雑誌から飛行機、自動車、船、汽車などの造形を記憶し、家に帰って図面に落とすことを習いとしていたという。

 11歳で、台東区松ケ谷の玩具製作会社に奉公先を変える。ここで若い親方に育てられ、モノづくりの魅力に引き込まれていく。栄市郎は早くからフートプレスという機械の操作を任される。フートプレスは、俗に“ケトバシ”という金属の加工成型機械で、ブリキのおもちゃの製造に使われた。

 
「金型によってブリキの板に圧力を加えると即座にさまざまなカタチができあがる、栄市郎はフートプレスに向かうたび、どんなものでも生み出せる無限の可能性を感じずにはいられませんでした」
 
「玩具界の王様になる・・・奉公に出てわずか5年、栄市郎の視線の先には本人さえも想像できないほどの大きな大きな夢が広がっていたのです。」(いずれも『軌跡~夢をカタチに~』より)

 16歳のときには親方に製作所の切り盛りを任されるほどに成長し、トミーの前身となる富山玩具製作所を、21歳(1924年)で巣鴨に創設した。間口3間ほどの土間にフートプレス2台とプレス機1台があるだけの小さな作業場だったという。そう、トミー(タカラトミー)は今年2024年に、100周年を迎えたのだ。

 最初の製品はゼンマイ仕掛けの赤い競争自動車『インディアン号』。これは飛ぶように売れたという。その後数多くの飛行機玩具を製作し、“飛行機の富山”の名声を業界に確立した。

 工場も移転と拡大を繰り返した。巣鴨から問屋街に近い隅田川対岸の本所太平町、さらに1927年には墨田区の寺島に工場を作った。この工場は栄市郎自ら図面を引いた。業界初となる流れ作業方式で、工場内に玩具研究部門を設けたのも画期的だった。

 しかし、寺島に工場を移した2年後の1929年に、日本の産業は世界恐慌の余波として昭和恐慌に見舞われた。このとき製造業者の立場を守るべく立ち上がったのが栄市郎だった。

 
「メーカーは生産そのものに携わることで精いっぱい、輸出販売にともなう販売機能、多額の資金をともなう新製品の開発、宣伝、リスク負担は製問が担う。問屋金融は必然的に問屋の優位性を確立し、輸出はもちろん問屋の手を通じなければならない。メーカーは下請け的存在だった」

 と『昭和玩具文化史』にもある。そういう製問主導体制の業界で、経済的に弱い立場にあった玩具製造業者の多くが倒産した。同業者の苦境を目の当たりにして栄市郎は製造業者の団結を呼びかけ、東京玩具工業同志会を設立。製造業者が価格決定などのリーダーシップを握るべく、大勢に棹を差そうとした。最終的には工業組合の設立を企図したが、製問側の強い反対で、この試みは頓挫する。

 川のこちら側と向こう側の関係は、当然“持ちつ持たれつ”の関係なのだが、ときにはこうして鋭く対立することもあったのだ。あえて刺激的な言い方をすれば川のこちらの大店(製問)の旦那衆に、威勢のいい血気盛んな職人衆が反旗を翻したようなものだったろう。栄市郎は卸商と対等の地位に立とうとする製造側の急先鋒だった。

 時代を戦後に飛ばせば『写真集 トミーマジック 世界を驚嘆させたおもちゃたち』(株式会社タカラトミー、2019年)に、以下のような記述がある。

 
「昭和26年、『B-29』で玩具製造を本格的に再開させたトミー(中略)の金属玩具は、輸出主導による発展の中心的役割を担った製造問屋を介し次々と海を渡っていきました。その後プラスチック玩具全盛の時代を迎えると、自らの力で海外市場を開拓していきます」

 この一連の記述はなにげなくて読み飛ばしてしまいそうだが、江戸時代から一貫して立場の弱かった製造側の、製問に対抗する意識と矜持(きょうじ)が見えて興味深い。戦後、金属玩具の輸出時代は製問を頼った。『輝ける~130年』にも、昭和30年代、トミー製品の大半は米澤玩具を通じてアメリカへ輸出されていた、との記述がある。しかし、プラスチックの時代になったら自ら販売網を確立したと言っている。

 アメリカで大ヒットした『B-29』だが、製問(米澤玩具)に言われるままに増産したものの、いきなり売れなくなって減産をするという苦い経験をして、栄市郎は自らの力で市場動向を把握する重要性に気づく。さらに自ら作ったものは自ら売るべきだとも。

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▲『B-29』
 そこで当時専務だった長男の允就と允就の友人だった岩船浩が海外の市場調査を実施した。それが自立への第一歩となった。さらに允就は販売会社である富山商事株式会社設立(1959年)を提案したと『トミー75年史』(トミー、2000年)にある。金属玩具からプラスチック玩具への転換の時期にそういうことがあったと記されている。

 トミーは、金属玩具からプラスチック玩具へ、フリクション玩具から電動玩具へ、という戦後のおもちゃのイノベーションにいち早く取り組んだ。金属とプラスチックは製造工程がまったく違う。プラスチックの射出成形機をいち早く導入するも、製品化するに値するものができるまでに3年かかった。最初の商品が1957年に発売された『シャボン玉を吹く象』で、ニューヨークのトイフェアで人気を博した。シャボンを入れるバケツ(コップ)に、プラスチックが使われた。(後に電動で動く象の鼻先にもプラスチックが採用された)

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▲『シャボン玉を吹く象』
 オールプラスチックの最初の商品は、1959年発売の『スカイピンポン』。ぼくが子どものころは、子どものいる家庭ならどこでもあったのではないか。ラッパ状をしたラケット(?)からバネの力でピンポン球を飛ばし、それを同じ道具を持った相手が受ける、という遊び。当時おもちゃでは珍しかったTV宣伝を投下し、大ヒット商品に仕上げた。

 『スカイピンポン』は販売会社の富山商事の第1号商品となった。1960年からは富山商事は海外への輸出業務も手掛けることになった。製問に頼らずとも、作ったものは自分で売る、輸出する、これを実行に移して成功した。

 さて、『写真集 トミーマジック』は、もっぱら2代目社長の富山允就(まさなり)の事績が描かれているが、そのなかのコラムは、允就が挑んだものが①プラスチック樹脂(プラレール)②ダイキャスト(トミカ)③エレクトロニクス(ぴゅう太)だったとしている。

 そして先代・栄市郎の「おもちゃ屋は新しいもの好きでなければならない」との言葉を紹介し、允就が常に新しい素材、新しい技術、新しいやり方、さまざまな分野に挑戦し続けたと綴る。親子2代にわたってモノづくりに掛けた人生だったことが理解できる。3代目の幹太郎の時代には、また新しい潮流にまみれることになるが、まだ語るのは早い。

 存外に長くなってしまったので、タカラとバンダイの創業は次回振り返る。
【第20回までは毎日更新! 以降は毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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