連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第3回
1-3うるわしきおもちゃの国、日本
渡辺京二の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)は、幕末から明治期に来日したたくさんの西洋人が残した日本に関する日誌、旅行記をもとに、近代以前の日本がいかに“素朴で絵のように美しい国”だったかを示そうとする本だ。読んでいると心地よいとともに哀惜(あいせき)の念に駆られる。
そのなかに“子どもの楽園”という章があって、幕末から明治にかけての日本のおとなが、どれだけ子どもを慈しんでいるか、子どもがどれだけおおらかに育っているかに驚嘆する西洋人の述懐がたっぷり描かれている。そのなかでおもちゃにも触れており、
「日本ほど子供の喜ぶものを売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」(『明治日本体験記』W.E.グリフィス著、山下英一訳、東洋文庫)
「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュルンベルクのおもちゃ屋にもひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえ何時間でも楽しむことができる」(『江戸幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン著、長島要一訳 新人物往来社)
「おもちゃの商売がこんなに繁昌していることから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」(『日本の断章 江戸絵師に見る歴史と旅』シェラード・オズボーン著、山本秀峰編訳)
などなど記している。幕末明治期に来日した外国人の多くが、日本の子どもがいかにも子どもらしくスクスク育ち、親子関係が親密で、そして日本人の作るおもちゃが優れていることを絶賛している。
西欧人は、なぜ日本人が子どもをかわいがることに驚いたのだろう? 日本人の感覚では首をひねるに違いない。「子どもがかわいいのはあたりまえじゃないか」と。じつは日本人と西欧人の子どもとの接し方は著しく違っていた。17世紀まで西欧には“子ども”という概念がなかった。それに関連して、おもちゃの成り立ちも、西欧と日本ではまったく違うのだ。そのことについては、いずれニュルンベルクの玩具の成り立ちを説明するところで紹介しよう。
たぶんエンタメの世界にも“お国柄”というのがあって、スウェーデンや英国にミステリー小説の名手の伝統があるように、ドイツから優れたボードゲームが次々に生み出されるように、日本はおもちゃの製造が“得意”だったのだ。
日本人は優秀なおもちゃの送り手であり、日本の子どもは優れた受け手だったのだろう。そう思えば、大正期、昭和初期そして戦後と、連綿と日本のおもちゃが世界に愛され、輸出大国として君臨できたことがうなずける。
そのなかに“子どもの楽園”という章があって、幕末から明治にかけての日本のおとなが、どれだけ子どもを慈しんでいるか、子どもがどれだけおおらかに育っているかに驚嘆する西洋人の述懐がたっぷり描かれている。そのなかでおもちゃにも触れており、
「日本ほど子供の喜ぶものを売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」(『明治日本体験記』W.E.グリフィス著、山下英一訳、東洋文庫)
「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュルンベルクのおもちゃ屋にもひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえ何時間でも楽しむことができる」(『江戸幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン著、長島要一訳 新人物往来社)
「おもちゃの商売がこんなに繁昌していることから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」(『日本の断章 江戸絵師に見る歴史と旅』シェラード・オズボーン著、山本秀峰編訳)
などなど記している。幕末明治期に来日した外国人の多くが、日本の子どもがいかにも子どもらしくスクスク育ち、親子関係が親密で、そして日本人の作るおもちゃが優れていることを絶賛している。
西欧人は、なぜ日本人が子どもをかわいがることに驚いたのだろう? 日本人の感覚では首をひねるに違いない。「子どもがかわいいのはあたりまえじゃないか」と。じつは日本人と西欧人の子どもとの接し方は著しく違っていた。17世紀まで西欧には“子ども”という概念がなかった。それに関連して、おもちゃの成り立ちも、西欧と日本ではまったく違うのだ。そのことについては、いずれニュルンベルクの玩具の成り立ちを説明するところで紹介しよう。
たぶんエンタメの世界にも“お国柄”というのがあって、スウェーデンや英国にミステリー小説の名手の伝統があるように、ドイツから優れたボードゲームが次々に生み出されるように、日本はおもちゃの製造が“得意”だったのだ。
日本人は優秀なおもちゃの送り手であり、日本の子どもは優れた受け手だったのだろう。そう思えば、大正期、昭和初期そして戦後と、連綿と日本のおもちゃが世界に愛され、輸出大国として君臨できたことがうなずける。
1-4戦後日本と“製問”
さて、江戸時代から続いて来た東京のおもちゃ産業は、戦前まで金属製、セルロイド製玩具を中心に輸出産業として順調に成長したが、1945年の東京大空襲によって壊滅的な打撃を被った。『昭和玩具文化史』(斎藤良輔、住宅新報社、1978年)は、終戦時のおもちゃの街の様子を次のように描く。
「戦争は暑い夏の日に終わった。なにもかも焼き尽くして終わった。・・・東京の玩具問屋街の中心地である浅草橋、蔵前周辺は、まったくの焼け野原のままで、電車通りに立つと隅田川の流れがすぐ目の前に見えた・・・型はすべて供出し、材料もなく、前途はまったく暗澹(あんたん)としていた」
それでも、「(川の向こうの)葛飾、荒川、北区や墨田区の一部など罹災を免れた玩具工場があったこと、さらに進駐軍から放出された缶詰の空き缶類を廃品利用した」ことなどから、東京の玩具生産が徐々に復活するさまを描いている。『昭和玩具文化史』によれば、戦後に日本のおもちゃ産業が復活するきっかけは、
“Made in Occupied Japan”
つまり占領下の日本で製造された輸出玩具として、日本のおもちゃ産業は復活した。戦後の日本は米の凶作も重なり極端な食糧難に見舞われたため、日本政府はGHQに大量の食料輸入を求めた。日本製のおもちゃは、生糸などとともに駐留軍によって“見返り物資”に指定された。
実は、駐留するアメリカの将校に日本のおもちゃや人形などは高く評価されていた。さすがにアメリカでも戦時下はおもちゃの生産は控えられ、金属玩具などは底をついていた。そこでGHQはさまざまな施策で日本のおもちゃ産業を支えて、もっぱらアメリカ向け輸出産業として日本のおもちゃ業界を育成した。本書は、
「日本の玩具の輸出は、まず戦勝国アメリカの子どもたちにプレゼントすることから始まった。・・・玩具輸出は『日本の飢え』を救う代償として重大な役割を担っていた」
と記している。GHQの庇護から始まった玩具輸出はその後も順調に成長するのだが、その原動力になったのは蔵前筋の製造問屋、略して“製問”の主力メンバーで、GHQと渡り合ったのもこの人たちだった。
『玩具通信』の記者時代のぼくが、この“製問”を正しく理解していたかはなはだ怪しい。ぼくの時代(1970年代半ば)にはすでに製問とメーカーが融合した日本玩具協会、日本玩具国際見本市協会の時代で、製問より、玩具六社会(バンダイ、タカラ、エポック社、トミー、学習研究社、ニチガン)のほうが目立っていた。
江戸時代から戦前まで、日本のおもちゃ産業は卸売業者主導で来たことは前に述べたとおりだが、戦後も同様で、ここで言う製問は具体的には、1954年に設立された東京輸出金属玩具製造問屋協同組合、のちの東京輸出玩具製問協同組合(通称・製問組合)とそのメンバーを指す。
ぼくが新聞を配った隅田川の西側の会社、増田屋齋藤貿易、アルプス商事、米澤玩具、野村トーイ、旭玩具などがそれで、新参のバンダイも製問組合の設立メンバーだった。例えば……
「1957年の輸出高は百十九億四千万円、雑貨輸出の中では断然たる首位・・・金属おもちゃは東京に生まれ、東京で育った。全国のメーカー数はおよそ360工場、そのうち300工場までが東京、輸出高でも90パーセントを占め、まさに“東京特産”である」
と『昭和玩具文化史』にある。これを束ねていたのが製問組合のメンバーだった。
製問のなかでも老舗中の老舗である増田屋齋藤貿易の社屋は、ぼくが玩具通信にいた1970年代後半は、低層(2階建てか3階建てだったような)に白壁で、正面の壁面には英文字で社名が書かれた大きな看板があって、昭和レトロなたたずまいだった。ついでに思い出したけれど、この会社の近くの蔵前橋のたもとには、相撲の国技館があって、“蔵前国技館”と呼ばれていた。国技館が両国に新設されたのは1985年だ。
享保年間に創業したという増田屋の6代目を継いだ斎藤晴弘が、戦後の東京輸出玩具製問協同組合の初代理事長で、業界のけん引役だったようだ。戦後まもなくに渡米し、つぶさに日本の輸出玩具の問題を把握し、輸出促進の障害となる品質問題に対処するための検査機関を組織化するなどの功績があった。『昭和玩具文化史』には、戦後の玩具輸出の8割を製問加盟の大手5社、増田屋齋藤貿易、東京玩具貿易、アルプス商事、マルサン商店、米澤玩具で占めていた、としている。
旭玩具(のちのアサヒ玩具)の社長・岸義弘も製問組合のボスの1人だった。この会社も玩具輸出で戦後売り上げを伸ばしたが、ぼくのいたころは、国内向けの女児向け電動台所玩具の『ママ・レンジ』が大ヒットし、そのあとピンク・レディーのマスコミ玩具をヒットさせた。戦後の貿易自由化にともない、同社は1960年にダイキャスト製ミニカーを輸入した。それが戦後最初の輸入玩具だったという記録が『昭和玩具文化史』に記されている。
のちにホビージャパンを創業した佐藤光市は、輸出入に長けたこの会社の出身で、海外のゲームメーカーの事情に通じていた。角川書店(現・KADOKAWA)がのちにゲームの翻訳事業を手掛けた際、『マジック:ザ・ギャザリング』の日本の販売権を巡って、ぼくはホビージャパンと争って負けた。佐藤光市指揮するホビージャパンは、アメリカのボードゲーム人脈に実によく食い込んでいた。
また脱線した。話を戻そう。これら製問各社は、戦後の輸出玩具の急成長期を支えた。1970年代には、国内市場の成熟にいち早く対応したトミー、タカラ、バンダイの成長の陰に隠れたが、電動玩具からレーシング、ラジコンがヒットする時代、マスコミ玩具の初期まではまだ対等に戦うことができていた。製問各社が勢いを失うのは1980年代に入ってからで、トミーやタカラといったメーカーのマーケティング力、そして同じ製問でありながら、商社的嗅覚に優れたバンダイとの競合に一線を譲ることになる。
次回は、トミー、タカラ、バンダイ3社の創業の物語をお届けする。
「戦争は暑い夏の日に終わった。なにもかも焼き尽くして終わった。・・・東京の玩具問屋街の中心地である浅草橋、蔵前周辺は、まったくの焼け野原のままで、電車通りに立つと隅田川の流れがすぐ目の前に見えた・・・型はすべて供出し、材料もなく、前途はまったく暗澹(あんたん)としていた」
それでも、「(川の向こうの)葛飾、荒川、北区や墨田区の一部など罹災を免れた玩具工場があったこと、さらに進駐軍から放出された缶詰の空き缶類を廃品利用した」ことなどから、東京の玩具生産が徐々に復活するさまを描いている。『昭和玩具文化史』によれば、戦後に日本のおもちゃ産業が復活するきっかけは、
“Made in Occupied Japan”
つまり占領下の日本で製造された輸出玩具として、日本のおもちゃ産業は復活した。戦後の日本は米の凶作も重なり極端な食糧難に見舞われたため、日本政府はGHQに大量の食料輸入を求めた。日本製のおもちゃは、生糸などとともに駐留軍によって“見返り物資”に指定された。
実は、駐留するアメリカの将校に日本のおもちゃや人形などは高く評価されていた。さすがにアメリカでも戦時下はおもちゃの生産は控えられ、金属玩具などは底をついていた。そこでGHQはさまざまな施策で日本のおもちゃ産業を支えて、もっぱらアメリカ向け輸出産業として日本のおもちゃ業界を育成した。本書は、
「日本の玩具の輸出は、まず戦勝国アメリカの子どもたちにプレゼントすることから始まった。・・・玩具輸出は『日本の飢え』を救う代償として重大な役割を担っていた」
と記している。GHQの庇護から始まった玩具輸出はその後も順調に成長するのだが、その原動力になったのは蔵前筋の製造問屋、略して“製問”の主力メンバーで、GHQと渡り合ったのもこの人たちだった。
『玩具通信』の記者時代のぼくが、この“製問”を正しく理解していたかはなはだ怪しい。ぼくの時代(1970年代半ば)にはすでに製問とメーカーが融合した日本玩具協会、日本玩具国際見本市協会の時代で、製問より、玩具六社会(バンダイ、タカラ、エポック社、トミー、学習研究社、ニチガン)のほうが目立っていた。
江戸時代から戦前まで、日本のおもちゃ産業は卸売業者主導で来たことは前に述べたとおりだが、戦後も同様で、ここで言う製問は具体的には、1954年に設立された東京輸出金属玩具製造問屋協同組合、のちの東京輸出玩具製問協同組合(通称・製問組合)とそのメンバーを指す。
ぼくが新聞を配った隅田川の西側の会社、増田屋齋藤貿易、アルプス商事、米澤玩具、野村トーイ、旭玩具などがそれで、新参のバンダイも製問組合の設立メンバーだった。例えば……
「1957年の輸出高は百十九億四千万円、雑貨輸出の中では断然たる首位・・・金属おもちゃは東京に生まれ、東京で育った。全国のメーカー数はおよそ360工場、そのうち300工場までが東京、輸出高でも90パーセントを占め、まさに“東京特産”である」
と『昭和玩具文化史』にある。これを束ねていたのが製問組合のメンバーだった。
製問のなかでも老舗中の老舗である増田屋齋藤貿易の社屋は、ぼくが玩具通信にいた1970年代後半は、低層(2階建てか3階建てだったような)に白壁で、正面の壁面には英文字で社名が書かれた大きな看板があって、昭和レトロなたたずまいだった。ついでに思い出したけれど、この会社の近くの蔵前橋のたもとには、相撲の国技館があって、“蔵前国技館”と呼ばれていた。国技館が両国に新設されたのは1985年だ。
享保年間に創業したという増田屋の6代目を継いだ斎藤晴弘が、戦後の東京輸出玩具製問協同組合の初代理事長で、業界のけん引役だったようだ。戦後まもなくに渡米し、つぶさに日本の輸出玩具の問題を把握し、輸出促進の障害となる品質問題に対処するための検査機関を組織化するなどの功績があった。『昭和玩具文化史』には、戦後の玩具輸出の8割を製問加盟の大手5社、増田屋齋藤貿易、東京玩具貿易、アルプス商事、マルサン商店、米澤玩具で占めていた、としている。
旭玩具(のちのアサヒ玩具)の社長・岸義弘も製問組合のボスの1人だった。この会社も玩具輸出で戦後売り上げを伸ばしたが、ぼくのいたころは、国内向けの女児向け電動台所玩具の『ママ・レンジ』が大ヒットし、そのあとピンク・レディーのマスコミ玩具をヒットさせた。戦後の貿易自由化にともない、同社は1960年にダイキャスト製ミニカーを輸入した。それが戦後最初の輸入玩具だったという記録が『昭和玩具文化史』に記されている。
のちにホビージャパンを創業した佐藤光市は、輸出入に長けたこの会社の出身で、海外のゲームメーカーの事情に通じていた。角川書店(現・KADOKAWA)がのちにゲームの翻訳事業を手掛けた際、『マジック:ザ・ギャザリング』の日本の販売権を巡って、ぼくはホビージャパンと争って負けた。佐藤光市指揮するホビージャパンは、アメリカのボードゲーム人脈に実によく食い込んでいた。
また脱線した。話を戻そう。これら製問各社は、戦後の輸出玩具の急成長期を支えた。1970年代には、国内市場の成熟にいち早く対応したトミー、タカラ、バンダイの成長の陰に隠れたが、電動玩具からレーシング、ラジコンがヒットする時代、マスコミ玩具の初期まではまだ対等に戦うことができていた。製問各社が勢いを失うのは1980年代に入ってからで、トミーやタカラといったメーカーのマーケティング力、そして同じ製問でありながら、商社的嗅覚に優れたバンダイとの競合に一線を譲ることになる。
次回は、トミー、タカラ、バンダイ3社の創業の物語をお届けする。