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元KADOKAWA社長は昔… “おもちゃの新聞”を作ってたって知ってた?【連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第2回

第1章 おもちゃの新聞の時代 1-1おもちゃの新聞社に入社する

 ぼくは、1976年に大学を卒業し、おもちゃの業界新聞『玩具通信』を発行している日本トイズサービスという会社に就職した。

 1973年の第四次中東戦争を機にアラブ産油国のとった石油戦略によって、日本の産業界は大打撃を受けた。いわゆる“オイルショック”を契機に、日本経済は高度成長から低成長・安定成長へと方向を転換していく。これにともなって、オイルショックの翌年から、新卒者の採用を見合わせたり、採用数を減らしたりする企業が続出した。

 ぼくの卒業した1976年は就職難のピークで、成績優秀だった友人も、希望する就職先に入れず苦戦を強いられていた。まして、1年留年してかろうじて卒業できた落第生のぼくなどは、受けた会社をことごとく落とされ、卒業式直前の2月にこの会社にかろうじて滑り込むことができたのだった。

 本当のことを言えば、オイルショックがあろうがなかろうが、ぼくの就職活動など、うまくいくはずのないものだった。学校の成績は最低ラインなのに、受けた会社は一流出版社ばかりで、当時の一流出版社はみんな数名しか社員を採らない。

 就職する、社会に出る、ということの心構えがなっていない、ただ漠然と好きな活字の世界に携わっていたい、という幼稚な願いしか、ぼくにはなかったのだった。

 『玩具通信』はタブロイド判の週刊新聞で、ぼくの仕事は、バンダイ、タカラ、トミーといったおもちゃメーカーの新製品を紹介したり、その経営陣に業界の見通しなどを取材したり、蔵前の問屋筋から花火やひな人形、浮き輪などといった季節ものの、その年の傾向を聞き出したり、全国の主だったおもちゃ屋さん(アメリカのトイザらスが日本に来るまでは、全国の主要駅の近くの一等地に地元資本の大きなおもちゃ屋さんがあった)を出張取材したり、というものだった。

 社員数は社長を含めても10人余りだったと思う。社員には詩人志望、小説家志望の人、東京芸大出のデザイナーなどがいて、ちょっとした吹き溜まり感のある会社だった。社長の辰巳幸男は、戦前朝日新聞の記者だったが戦後バンダイの役員になって、その後おもちゃの新聞を立ち上げた人で、明るくて磊落(らいらく)な人だった。

 気が向くと、都心のホテルのレストランや浅草の中華店などに社員を引き連れご馳走してくれた。給料はもちろん高くはないが、ぼくには居心地が良くて、結局7年も居ついてしまった。

 さて、週刊の新聞だったから、仕事は週単位のルーティンで、取材→執筆→入稿→出張校正→発行となる。新聞は工場から直接配送されるのだが、大部数をとってくれる大手のメーカーやご近所の問屋街のご贔屓(ひいき)には、いち早く届けたいとの思いから、まだインクの匂いのする刷り上がったばかりの見開きの状態のものの何百部かを会社に届けさせ、自分たちで折って(牛乳瓶でしごいて折った)袋詰めし、自ら車で届けるのだ。これを“配紙”と言った。

 ぼくは免許を持っていたから配紙のときは運転役で、同じ年に入社したK君を軽自動車の隣に乗せて、おもちゃ会社の集まる台東区、葛飾区、墨田区などを走り回った。K君は演劇青年で、シナリオライターを目指していた。道を覚えるまではK君が隣で地図を開いて案内する役なのだが、この人は慌てると右と左の区別ができなくなる。交差点で、右を指さして「左!」と怒鳴ることがしばしばあった。

 それもあって、ぼくは地図を頭に叩き込むことになったわけだ。

 この配紙で、大げさに言えばぼくは、東京の産業(といっても中小企業に限られるのかもしれないが)の地政学を学んだのだ。

1-2配紙で知る東京の地政学

 Googleマップを開いて“蔵前”を検索してほしい。隅田川の西側に南北に走る道路が江戸通りだ。ぼくたちの会社のあった蔵前という土地は、江戸通り沿いにおもちゃ問屋が並ぶ問屋街として有名だった。いまはその面影は薄れたが、浅草橋から蔵前橋、厩橋(うまやばし)までの通りは、人形店、一般玩具問屋、ゲーム問屋、花火問屋などが軒を並べていた。

 蔵前のど真ん中には、戦後の日本の輸出を担った増田屋齋藤貿易(現・増田屋コーポレーション)、アルプス商事、米澤玩具、野村トーイ、旭玩具、浅草玩具などのいわゆる“製問(せいとん)”に属する会社があった。“製問”については、また後の回で触れよう。

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1:日本トイズサービス(玩具通信を発行していた会社。2024年時点では廃業)
2:バンダイ(旧本社ビルの住所。現在のバンダイ第2本社ビル)
3:エポック社(こちらは1991年に竣工したエポック社ビル)
4:増田屋齋藤貿易(増田屋コーポレーション。こちらは1989年に竣工したマスダヤビルディング)
5:旭玩具(旧所在地。2024年時点では廃業)

 そういう大きな会社の合間に、ぼくの好きだった専門問屋として駄菓子(食玩)や花火といった小物玩具卸の小森屋商店(たまに店の前に白い高級輸入車が停まっていた。

 よっちゃんいかの絵がルーフだったかボンネットだったかに、でかでかと描かれていて度肝を抜かれた)、大物玩具卸の三村商店(ぼくにも卸価格でおもちゃを分けてくれた)、ゲーム専門問屋の西口商店(社長がよく取材に応じてくれた)、浅草橋駅前には人形の久月、吉徳があって、厩橋のこちら側(西側の駒形)のたもとには、バンダイとエポック社があった。

 配紙では、まず近場のそうした会社に新聞を配った。江戸通りを南に下ると服の問屋街である馬喰町があって、北に浅草寺に向かって行けば食器の問屋街である合羽橋(かっぱばし)がある。要は隅田川の西側を並行して南北に走るこの通りは、さまざまな生活用品の商いで成り立つところだった。

 『輝ける玩具組合とおもちゃ業界の130年』(東京玩具人形協同組合、2017年)は、江戸時代の文化文政のころ、日本橋から浅草橋、蔵前を通って浅草へ続く道は、いわば浅草寺の表参道で、おもちゃはお参りの土産物として発展し、このあたりが玩具のメッカだったと記している。江戸独自の玩具・人形(“板返し”とか“飛んだり跳ねたり”とか“今戸焼人形”とか、ネットで検索してみてください、楽しいから)が作られ、売られていた。

 また、いわゆる“下りもの”(京都・大坂から江戸に送られた玩具や人形、名品、工芸品など)は隅田川の河口で菱垣廻船から小さな高瀬舟に移され川を上り浅草茅町、浅草橋で荷を下ろしたと書かれている。人形の久月、吉徳、玩具の増田屋齋藤貿易などは江戸時代から続く老舗中の老舗だ。

 東京のおもちゃ産業は、江戸時代のむかしから隅田川の岸のこちら側(西側)の卸売業者がイニシアチブをとって発展してきた。江戸時代、販売流通網を持ち、資金力・金融力のある川のこちらの大店(おおだな)が、川の向こう岸(東側)の職人・職方(下請け)に玩具・人形を作らせていた――という関係だった。先に引用した『輝ける~130年』)にそうある。

 さて、隅田川のこちら側の蔵前問屋街を回ったあとは、吾妻橋や厩橋を渡って墨田区へ、さらに荒川を渡って葛飾区の工場地帯に新聞を配った。配紙のコースは、古今亭志ん朝や六代目三遊亭圓生が得意だった「百年目」で、江戸通り筋の大店の大番頭さんがお忍びで行く花見のコース(柳橋→吾妻橋→枕橋→向島)とほぼ一緒だった。大川(隅田川)のこちらが大店の領域で、川の向こうが職人・職方の領域、また遊郭や芝居小屋もあったという話は落語の重要な設定だ。

 配紙で走る川の向こうは、風景も変わる。小さな町工場や油脂などの大きな工場があった。おもちゃメーカーでは、金属玩具・プラスチック玩具のトミー、ビニール玩具のタカラ、布帛(ふはく)玩具の関口加工(現・セキグチ)、浮き輪やビーチボールなどの中嶋製作所(現・ナカジマコーポレーション)などに新聞を配った。

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1:タカラトミーアーツ(合併前のタカラ本社所在地)
2:タカラトミー 本社(合併前のトミー本社所在地)

 『昭和玩具文化史』(斎藤良輔、住宅新報社、1978年)は、1950年12月の朝日新聞の記事を紹介しているが「貿易再開後“輸出日本”のホープ、輸出おもちゃ……ベストスリーは『金属』『ゴム』『セルロイド』で生産業の8、9割が東京の江東方面に集中している」と記している。おもちゃは東京の地場産業だった。

 配紙をしながら東京についてぼくの得た着想を聞いてほしい。

 フランスの哲学者ロラン・バルトはその著書『表徴の帝国』(宗左近訳、現在は筑摩書房より発刊)の“都市の中心、空虚な中心”のなかで、「西欧の都市のすべてが同心円的な構造につくられている」と指摘し、江戸に始まる東京もそのようだと、江戸の古地図を示して見せる。

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▲文久2年(1862年)に萬屋庄助らによって制作された萬世御江戸繪圖。当時の江戸の様子がわかる。
 バルトは、都市の人々の身体感覚が、都市に中心を求めると考えた。だから、「四角形の、網状の都市(たとえばロサンゼルス)は、深い不快感を生む」と言っている。そういえば、映画『E.T.』でひとりぼっちになったE.T.が高台から見下ろしたロサンゼルスの街は、だだっ広くて捉えどころがなく、さぞE.T.は不安だったろうと思わせた。

 西欧の都市の中心は、真理の場として精神的なあるいは権力や金融といった文明の価値が集中する特別な場となっている。中心に行くということは、社会の真理に出会うことだと、バルトは説明した。そう、パリの中心には凱旋門があって、ベルリンにはブランデンブルク門がある。
 
 おもちゃの歴史物語は、都市の中心(江戸城、のちの皇居、官公庁街など)の対極にある“周辺”の物語だ。近世文学者の廣末保は芝居小屋や廓(くるわ)のあった江戸の周辺地域に着目し、カウンターカルチャーのエネルギーをそこに見出した。中心には秩序と政治の冷徹があり、周辺には混とんと生活の喜怒哀楽がある。いささか強引だが、ぼくは配紙しながらこういう東京の構造を強く意識していた。

 もうしばらく、おもちゃの歴史を見ていきたいと思う。次回は第2次世界大戦の終了後の話。戦後、日本のおもちゃ産業が復活するきっかけなど書こうと思う。
【第20回までは毎日更新! 以降は毎週火曜/金曜夜に更新予定です】

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