連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第33回
7-4 バンダイ 山科誠の挑戦
本コラムの第27回と第28回で、80年代半ばに始まるタカラ、トミーの苦難を書いた。その“時”には、プラザ合意以降の円高が重なり、トミーは国内工場の閉鎖を強いられた。タカラは『トランスフォーマー』が超大ヒットしたものの、米国ハズブロに製品を納品したその決済はドル建てだったから、円高による直接的な売上減、生産拠点の香港(一部台湾に)への移転など、大きな環境変化への対応を迫られた。
今回スポットを当てるバンダイも例外でなくプラザ合意以降の輸出の落ち込みは激しかったが、製問出自で協力工場比率が高いことから、自ら血を流す度合いは低く、補って余りある国内市場の成長があった。
創業者からの事業承継も1980年と早かった。だから前章におけるバンダイの記述は、80年代半ばから著しい成長(売上推移1982年2月期は約357億円、83年2月期は約640億円、東証1部に昇格した1987年2月期は約684億円、1991年3月期には約1,584億円)を経て、1993年6月のバンダイの方針発表会における山科誠社長の華々しい発言で括ることができた。
そこで山科は“マルチメディアエンタテインメント”の会社となると宣言した。この年(1993年)には、前年に放送され続編が作られるほどの大ヒットとなった『美少女戦士セーラームーン』もあったし、アメリカでの『Power Rangers』 関連商品の超大ヒットもあった。1994年3月にサンライズがグループ会社化されたのも重要な節目だった。
本業の玩具は順風満帆だったし、脱玩具領域のうち文具、雑貨、アパレルなども順調だった。山科は、主力のキャラクター玩具にとって、出版(マンガ)や映像(TVアニメ、劇場アニメ)とのメディアミックスがどれだけ有用かを知っていた。LSIゲーム、TVゲームもメディアミックス(キャラクターのIP展開)の対象として重要視した。
脱純玩具路線の筆頭は出版、エレクトロニクスゲームとTVゲーム、そして“デジタルエンジン構想”に基づく映像事業となった。しかしこれらのどの事業にも、曲折があった。
出版事業がうまくいかなかった経緯は以前触れた。1993年に事業の継続を事実上断念し、9月に出版課員ほぼ全員(5人だったか)がメディアワークスに“出向”し、95年には転籍した。事業はバンダイのPR誌的存在だった『B-CLUB』のみしばらく発行元としてバンダイに残したが、ほかのガンダム系のアンソロジームック、コミックスなどは譲渡され、設立間もないメディアワークスの柱のひとつに成長してくれた。
資本関係のない会社同士で出向や転籍などあるのかと思ったが、互いにメリットのあることなので深くは詮索しなかった記憶がある。それを機に、立ち上がったばかりの電撃文庫の後援をバンダイが引き受けてくれたのだから、山科誠の設立間もない会社への応援の気持ちもあったに違いないと感謝した。
TVゲーム、携帯ゲーム機のプラットフォーマー競争、というかデファクトスタンダード戦争(業界の標準規格となるための企業間の競争)については、タカラが『M5』で、トミーが『ぴゅう太』であっさりと手を引いたのに対し、バンダイは執拗に参戦し続けた。
TVゲーム機、携帯ゲーム機の発売状況を年表ふうに列挙すると以下のようになる。太字になっているのがバンダイ、なっていないものは任天堂ないしソニー、だ。
・(1977年7月任天堂『カラーテレビゲーム6』『カラーテレビゲーム15』複数ゲーム遊べるゲーム内蔵型家庭用TVゲーム機
●1977年10月『TV JACK』複数ゲームを遊べるゲーム内蔵型家庭用TVゲーム機
●1978年7月『LSIベースボール』バンダイ初のLSI携帯ゲーム機
・1980年4月任天堂『ゲーム&ウオッチ』液晶携帯ゲーム機
●1982年7月『インテレビジョン』カセット交換式TVゲーム機
●1983年3月『アルカディア』
●1983年7月『光速船』カセット交換式ゲーム機
・1983年7月任天堂『ファミリーコンピュータ』カセット交換式TVゲーム機
●1983年7月『RX-78 GUNDAM』ゲームパソコン
・1989年4月任天堂『ゲームボーイ』携帯ゲーム機
●1994年9月『プレイディア』CD-ROM次世代機
・1994年12月ソニー『PlayStation』CD-ROM次世代機
●1996年3月『ピピンアットマーク』CD-ROMマルチメディア機
●1996年11月『たまごっち』携帯ゲーム機
●1999年3月『ワンダースワン』携帯ゲーム機
●2000年12月『ワンダースワンカラー』 携帯ゲーム機
・2001年3月任天堂『ゲームボーイアドバンス』携帯ゲーム機
バンダイの社史『萬代不易』には、1980年までのバンダイがゲームジャンルにおいて市場のイニシアティブを取れず、エポック社やタカラの後塵を拝してきたと言い、バンダイが初めてヒットさせたゲームは1977年の『モグラたたきゲーム』だったとの記述がある。それだけにエレクトロニクスという新しい‟素材”の登場は、巻き返しのチャンス、と捉えたのではないか。
しかし、バンダイのこの領域でのチャレンジは、任天堂とソニーのゲーム機にことごとく跳ね返された。任天堂とソニーに対して敗退したのはバンダイだけではないが、それにしても、よくもこれだけプラットフォーマーになろうと果敢に挑戦し続けたものだと、感心すべきかもしれない。
デファクトスタンダードを獲得し、少なくとも5年は市場を支配するためには、自社ソフト戦略、サードパーティの囲い込みなどいろいろ要件があろうが、「生き残るのは一社だけ」という厳しい認識のもとに価格優位を争う覚悟が、任天堂とソニーほどには長けていなかったからだ。戦略のかなめは価格政策だった 。
例えば、最初期のTVゲーム市場戦で任天堂は1977年に『カラーテレビゲーム6』と『カラーテレビゲーム15』を発売した。先行する他のゲーム機の多くが白黒表示で価格も2万円かそれ以上するなかで、カラー表示が可能で価格が9,800円(カラーテレビ6)・15,000円(カラーテレビ15)と安価だったこともあり、両機合わせて80万台(著者注:この販売数には諸説あり)を売り上げた。
日経トレンディ『任天堂ファミコンはこうして生まれた』(2008年9月29日)の記事で、1977年7月発売の『カラーテレビゲーム』開発を具申した上村雅之に、社長の山内溥は販売価格1万円以下という条件を出したという。しかしどう原価計算してもその条件をクリアできず、だから1万円以下の『6』とそれ以上の『15』2機種をほぼ同時に発売するというこのアイデアは、前者を見せ球にする苦肉の策だったと明かした。しかしこれがまんまと当たって、任天堂はこの年の年末商戦の勝者となった。
背景としては、1976年にアメリカのGI(General Instruments)社が開発した家庭用TVゲーム用のチップ“AY-3-8500”の存在がある。このチップはテニス、ホッケー、スカッシュなど6つの遊びができるチップで、この年のアメリカの年末商戦はこのチップを搭載した各社のゲーム機であふれかえった。任天堂のゲーム機も同水準の性能を持つチップを使っているから、差別化は価格付けしかないと、山内はアメリカの市場から学んだのではないか。
時代が下ってファミコンが発売された1983年の日本市場も、すでにバンダイを始め各社が家庭用TVゲームを投入し激しい戦争が待っていた。山内にとって次のTVゲーム機は単品売り切りではなく、5-4で書いたように、ハードとソフトの関係のなかで任天堂を大企業に成長させる戦略商品だった。
「上村にとって最大の挑戦は技術ではなかった。価格こそ決定的な要素なのだ。山内はこのマシーンを多くの家庭に浸透させたかった。それゆえ、ほとんど誰でも買えるぐらい安くなくてはいけない。当時、市場に出ているマシーンは、エポック社のそれを除いてほかはすべて3万円から5万円で売られていた。山内が設定した目標値は9,800円だった。しかも、機能において日米の他社製品を凌駕していなければならない。」(『ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち』(デヴィッド・シェフ著、篠原慎訳、角川書店、1993年)
ファミコンは1983年7月15日に14,800円という、目標の9,800円よりは少し高い値段で売り出された。それでも他のTVゲーム機を駆逐するには十分だった。ファミコンは発売1年を待たずに1984年5月に100万台を突破した。7-2でソニーのPS1が、発売5カ月後に100万台を突破し、その2カ月後に1万円の値下げ(=29,800円)をして次世代機戦争に勝利するさまを書いた。TVゲーム機はコスト割れに目をつぶってでも、家庭に浸透することを最優先させなければならない、ということを任天堂から学んだ結果だった。
90年代半ばの激烈なTVゲーム市場の争奪戦に、真正面からではなく、マルチメディア機という独特な角度から切り込んできたのが『ピピンアットマーク』だった。
『ピピン』のことは多くを語るまい。1996年3月に発売した『ピピンアットマーク』のコンセプトは、“マイファーストマッキントッシュ”だった。もちろん“マイファーストソニー”のもじり。つまり『ピピン』は、お手ごろ価格のマック(PC)で、ゲームではないデジタルメディアに触れたい人が、最初に買うMacintoshという触れ込みだった。
CD-ROMベースのマルチメディアソフトや、誕生したばかりのインターネットに、ゲーム機なみの気軽さでアクセスできるハードを目指した。巷間言われる次世代ゲーム機ではなかった。確かに、映像や音楽やテキストを一体となって楽しむメディアとして、絵本風、事典風、ミュージックビデオ風、環境ビデオ風のCD-ROMパッケージがいろいろ販売された時期があった。
しかし、マルチメディアの実質的な普及は、インターネットが、PCやスマホで当たり前に使えるようになってからだった。専用の端末と専用の大容量CD-ROMという環境のもとでは開花しなかった。そこで途中からインターネットが使えることをセールスポイントとしたが、それには少し早すぎた。
『ピピン』の販売台数は4万5千台にとどまり、赤字総額は268億円に達した。
少し先の携帯ゲーム機『ワンダースワン』(1999年)のこともここに記しておく。元任天堂の横井軍平を招聘(しょうへい)して開発され、にぎにぎしく登場し、軍平オリジナルの『GUNPEY』、他社の人気ゲーム『ファイナルファンタジー』『三國志』なども発売され評価は高かったが、2001年3月にリリースされた任天堂『ゲームボーイアドバンス』の攻勢に、2003年には事実上の撤退となる。
映像事業は、パッケージ販売事業への進出、パッケージ販売権取得を前提とした制作出資、オリジナル制作、と順調に事業を拡大していくが、1997年発表の“デジタルエンジン構想”によって一頓挫を来たす。デジタルエンジン構想は、最先端のデジタル技術を駆使し、日本初のハリウッドに対抗し得る大型アニメ映画を目指すプロジェクトだった。
その発表会席上で、大友克洋『スチームボーイ』、押井守『G.R.M.』などが紹介されたが、いずれも迷走し、前者はサンライズが制作を引き継ぎ2004年にようやく完成、後者は『ガルム・ウォーズ』として2016年に日の目を見た。
『ピピン』の風向きが怪しくなってきた1997年1月にバンダイとセガ・エンタープライゼスが合併するというニュースが飛び込んできた。山科はその発表会で「本来のマルチメディアエンタテインメント企業に近づきたい。これが合併の一番の目的なんです」と語った。
合併が実現すれば連結売上6,000億円超の企業が誕生することになったが、しかしバンダイは5月になって合併の合意を解消する旨を発表する。合併のニュースからわずか4ヶ月後のことだった。存続会社がセガだったこともあって、バンダイ社内から反対の声が上がり部次長クラス、課長クラスから合併再考の嘆願書が提出された。山科誠は父親の直治からの反対にもあって合併を断念、その発表会の席上で自らの退任と茂木隆の代表取締役社長就任を発表した。
今回スポットを当てるバンダイも例外でなくプラザ合意以降の輸出の落ち込みは激しかったが、製問出自で協力工場比率が高いことから、自ら血を流す度合いは低く、補って余りある国内市場の成長があった。
創業者からの事業承継も1980年と早かった。だから前章におけるバンダイの記述は、80年代半ばから著しい成長(売上推移1982年2月期は約357億円、83年2月期は約640億円、東証1部に昇格した1987年2月期は約684億円、1991年3月期には約1,584億円)を経て、1993年6月のバンダイの方針発表会における山科誠社長の華々しい発言で括ることができた。
そこで山科は“マルチメディアエンタテインメント”の会社となると宣言した。この年(1993年)には、前年に放送され続編が作られるほどの大ヒットとなった『美少女戦士セーラームーン』もあったし、アメリカでの『Power Rangers』 関連商品の超大ヒットもあった。1994年3月にサンライズがグループ会社化されたのも重要な節目だった。
本業の玩具は順風満帆だったし、脱玩具領域のうち文具、雑貨、アパレルなども順調だった。山科は、主力のキャラクター玩具にとって、出版(マンガ)や映像(TVアニメ、劇場アニメ)とのメディアミックスがどれだけ有用かを知っていた。LSIゲーム、TVゲームもメディアミックス(キャラクターのIP展開)の対象として重要視した。
脱純玩具路線の筆頭は出版、エレクトロニクスゲームとTVゲーム、そして“デジタルエンジン構想”に基づく映像事業となった。しかしこれらのどの事業にも、曲折があった。
出版事業がうまくいかなかった経緯は以前触れた。1993年に事業の継続を事実上断念し、9月に出版課員ほぼ全員(5人だったか)がメディアワークスに“出向”し、95年には転籍した。事業はバンダイのPR誌的存在だった『B-CLUB』のみしばらく発行元としてバンダイに残したが、ほかのガンダム系のアンソロジームック、コミックスなどは譲渡され、設立間もないメディアワークスの柱のひとつに成長してくれた。
資本関係のない会社同士で出向や転籍などあるのかと思ったが、互いにメリットのあることなので深くは詮索しなかった記憶がある。それを機に、立ち上がったばかりの電撃文庫の後援をバンダイが引き受けてくれたのだから、山科誠の設立間もない会社への応援の気持ちもあったに違いないと感謝した。
TVゲーム、携帯ゲーム機のプラットフォーマー競争、というかデファクトスタンダード戦争(業界の標準規格となるための企業間の競争)については、タカラが『M5』で、トミーが『ぴゅう太』であっさりと手を引いたのに対し、バンダイは執拗に参戦し続けた。
TVゲーム機、携帯ゲーム機の発売状況を年表ふうに列挙すると以下のようになる。太字になっているのがバンダイ、なっていないものは任天堂ないしソニー、だ。
・(1977年7月任天堂『カラーテレビゲーム6』『カラーテレビゲーム15』複数ゲーム遊べるゲーム内蔵型家庭用TVゲーム機
●1977年10月『TV JACK』複数ゲームを遊べるゲーム内蔵型家庭用TVゲーム機
●1978年7月『LSIベースボール』バンダイ初のLSI携帯ゲーム機
・1980年4月任天堂『ゲーム&ウオッチ』液晶携帯ゲーム機
●1982年7月『インテレビジョン』カセット交換式TVゲーム機
●1983年3月『アルカディア』
●1983年7月『光速船』カセット交換式ゲーム機
・1983年7月任天堂『ファミリーコンピュータ』カセット交換式TVゲーム機
●1983年7月『RX-78 GUNDAM』ゲームパソコン
・1989年4月任天堂『ゲームボーイ』携帯ゲーム機
●1994年9月『プレイディア』CD-ROM次世代機
・1994年12月ソニー『PlayStation』CD-ROM次世代機
●1996年3月『ピピンアットマーク』CD-ROMマルチメディア機
●1996年11月『たまごっち』携帯ゲーム機
●1999年3月『ワンダースワン』携帯ゲーム機
●2000年12月『ワンダースワンカラー』 携帯ゲーム機
・2001年3月任天堂『ゲームボーイアドバンス』携帯ゲーム機
バンダイの社史『萬代不易』には、1980年までのバンダイがゲームジャンルにおいて市場のイニシアティブを取れず、エポック社やタカラの後塵を拝してきたと言い、バンダイが初めてヒットさせたゲームは1977年の『モグラたたきゲーム』だったとの記述がある。それだけにエレクトロニクスという新しい‟素材”の登場は、巻き返しのチャンス、と捉えたのではないか。
しかし、バンダイのこの領域でのチャレンジは、任天堂とソニーのゲーム機にことごとく跳ね返された。任天堂とソニーに対して敗退したのはバンダイだけではないが、それにしても、よくもこれだけプラットフォーマーになろうと果敢に挑戦し続けたものだと、感心すべきかもしれない。
デファクトスタンダードを獲得し、少なくとも5年は市場を支配するためには、自社ソフト戦略、サードパーティの囲い込みなどいろいろ要件があろうが、「生き残るのは一社だけ」という厳しい認識のもとに価格優位を争う覚悟が、任天堂とソニーほどには長けていなかったからだ。戦略のかなめは価格政策だった 。
例えば、最初期のTVゲーム市場戦で任天堂は1977年に『カラーテレビゲーム6』と『カラーテレビゲーム15』を発売した。先行する他のゲーム機の多くが白黒表示で価格も2万円かそれ以上するなかで、カラー表示が可能で価格が9,800円(カラーテレビ6)・15,000円(カラーテレビ15)と安価だったこともあり、両機合わせて80万台(著者注:この販売数には諸説あり)を売り上げた。
日経トレンディ『任天堂ファミコンはこうして生まれた』(2008年9月29日)の記事で、1977年7月発売の『カラーテレビゲーム』開発を具申した上村雅之に、社長の山内溥は販売価格1万円以下という条件を出したという。しかしどう原価計算してもその条件をクリアできず、だから1万円以下の『6』とそれ以上の『15』2機種をほぼ同時に発売するというこのアイデアは、前者を見せ球にする苦肉の策だったと明かした。しかしこれがまんまと当たって、任天堂はこの年の年末商戦の勝者となった。
背景としては、1976年にアメリカのGI(General Instruments)社が開発した家庭用TVゲーム用のチップ“AY-3-8500”の存在がある。このチップはテニス、ホッケー、スカッシュなど6つの遊びができるチップで、この年のアメリカの年末商戦はこのチップを搭載した各社のゲーム機であふれかえった。任天堂のゲーム機も同水準の性能を持つチップを使っているから、差別化は価格付けしかないと、山内はアメリカの市場から学んだのではないか。
時代が下ってファミコンが発売された1983年の日本市場も、すでにバンダイを始め各社が家庭用TVゲームを投入し激しい戦争が待っていた。山内にとって次のTVゲーム機は単品売り切りではなく、5-4で書いたように、ハードとソフトの関係のなかで任天堂を大企業に成長させる戦略商品だった。
「上村にとって最大の挑戦は技術ではなかった。価格こそ決定的な要素なのだ。山内はこのマシーンを多くの家庭に浸透させたかった。それゆえ、ほとんど誰でも買えるぐらい安くなくてはいけない。当時、市場に出ているマシーンは、エポック社のそれを除いてほかはすべて3万円から5万円で売られていた。山内が設定した目標値は9,800円だった。しかも、機能において日米の他社製品を凌駕していなければならない。」(『ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち』(デヴィッド・シェフ著、篠原慎訳、角川書店、1993年)
ファミコンは1983年7月15日に14,800円という、目標の9,800円よりは少し高い値段で売り出された。それでも他のTVゲーム機を駆逐するには十分だった。ファミコンは発売1年を待たずに1984年5月に100万台を突破した。7-2でソニーのPS1が、発売5カ月後に100万台を突破し、その2カ月後に1万円の値下げ(=29,800円)をして次世代機戦争に勝利するさまを書いた。TVゲーム機はコスト割れに目をつぶってでも、家庭に浸透することを最優先させなければならない、ということを任天堂から学んだ結果だった。
90年代半ばの激烈なTVゲーム市場の争奪戦に、真正面からではなく、マルチメディア機という独特な角度から切り込んできたのが『ピピンアットマーク』だった。
『ピピン』のことは多くを語るまい。1996年3月に発売した『ピピンアットマーク』のコンセプトは、“マイファーストマッキントッシュ”だった。もちろん“マイファーストソニー”のもじり。つまり『ピピン』は、お手ごろ価格のマック(PC)で、ゲームではないデジタルメディアに触れたい人が、最初に買うMacintoshという触れ込みだった。
CD-ROMベースのマルチメディアソフトや、誕生したばかりのインターネットに、ゲーム機なみの気軽さでアクセスできるハードを目指した。巷間言われる次世代ゲーム機ではなかった。確かに、映像や音楽やテキストを一体となって楽しむメディアとして、絵本風、事典風、ミュージックビデオ風、環境ビデオ風のCD-ROMパッケージがいろいろ販売された時期があった。
しかし、マルチメディアの実質的な普及は、インターネットが、PCやスマホで当たり前に使えるようになってからだった。専用の端末と専用の大容量CD-ROMという環境のもとでは開花しなかった。そこで途中からインターネットが使えることをセールスポイントとしたが、それには少し早すぎた。
『ピピン』の販売台数は4万5千台にとどまり、赤字総額は268億円に達した。
少し先の携帯ゲーム機『ワンダースワン』(1999年)のこともここに記しておく。元任天堂の横井軍平を招聘(しょうへい)して開発され、にぎにぎしく登場し、軍平オリジナルの『GUNPEY』、他社の人気ゲーム『ファイナルファンタジー』『三國志』なども発売され評価は高かったが、2001年3月にリリースされた任天堂『ゲームボーイアドバンス』の攻勢に、2003年には事実上の撤退となる。
映像事業は、パッケージ販売事業への進出、パッケージ販売権取得を前提とした制作出資、オリジナル制作、と順調に事業を拡大していくが、1997年発表の“デジタルエンジン構想”によって一頓挫を来たす。デジタルエンジン構想は、最先端のデジタル技術を駆使し、日本初のハリウッドに対抗し得る大型アニメ映画を目指すプロジェクトだった。
その発表会席上で、大友克洋『スチームボーイ』、押井守『G.R.M.』などが紹介されたが、いずれも迷走し、前者はサンライズが制作を引き継ぎ2004年にようやく完成、後者は『ガルム・ウォーズ』として2016年に日の目を見た。
『ピピン』の風向きが怪しくなってきた1997年1月にバンダイとセガ・エンタープライゼスが合併するというニュースが飛び込んできた。山科はその発表会で「本来のマルチメディアエンタテインメント企業に近づきたい。これが合併の一番の目的なんです」と語った。
合併が実現すれば連結売上6,000億円超の企業が誕生することになったが、しかしバンダイは5月になって合併の合意を解消する旨を発表する。合併のニュースからわずか4ヶ月後のことだった。存続会社がセガだったこともあって、バンダイ社内から反対の声が上がり部次長クラス、課長クラスから合併再考の嘆願書が提出された。山科誠は父親の直治からの反対にもあって合併を断念、その発表会の席上で自らの退任と茂木隆の代表取締役社長就任を発表した。