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【最終回】大正時代の少年が見たおもちゃの夢は、令和の“いま”につながっている【佐藤辰男の連載コラム:おもちゃとゲームの100年史】

文:佐藤辰男

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連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”最終回(第48回)

おしまいに・ニュルンベルクの夢

 この連載は、一貫して、創業者たちが新しいテクノロジーやカルチャーに触発されて事業を立ち上げる姿を、あるいはその後継者が、時代の変化のなかで事業を革新する姿を描いてきた。ここまで来て、この連載の冒頭を飾ったトミーの創業者・富山栄市郎(1903年~1978年)に再登場願って、大正期の少年の夢見たおもちゃとは、どんなものだったか、想像をめぐらせたい。

 100余年前に、わずか9歳で丁稚奉公に出た富山栄市郎が、同室の帝大生のお兄さんに連れられ、日本橋の丸善や神田の古本屋街で、外国のグラビア雑誌から飛行機、自動車、船、汽車などの造形を記憶し、家に帰って図面に落とすことを習いとしていた、と前に書いた。

 長じて“ケトバシ”という金属加工機械と出会った栄市郎は、玩具界の王様になることを夢見る(タカラトミー社史『軌跡~夢をカタチに~』より)というエピソードを紹介した。栄市郎の子ども時代、つまり大正期の少年があこがれるべきは、ドイツのおもちゃだった。

 「大正期の国際玩具の目標は、世界玩具市場に君臨する玩具王国ドイツへの追従にあった。・・・ドイツ製玩具をまねた国産玩具も作られるようになった」

 と『昭和玩具文化史』(斎藤良輔、住宅新報社、1978年)にある。実際栄市郎が最初に作った玩具も、ドイツの汽船からアイデアをもらったポンポン船だったとタカラトミーの社史にある。当時のドイツのおもちゃと日本のそれとはどんな違いがあったのか。 

 東京が日本の玩具の生産・輸出の拠点であったように、ドイツの玩具産業の拠点はニュルンベルクだった。 

 ニュルンベルクは、11世紀ごろから資料に登場してくる、神聖ローマ帝国皇帝の城の傍らに建設された都市で、中世ヨーロッパの国際商業の中心地だった。森良次の『第一次大戦前ドイツ玩具産業の発展と世界市場における位置』(広島大学経済学会、2017年)によると、

 「ドイツでは、・・・ニュルンベルクが15世紀以来玩具生産の本場として知られており、ドイツ各都市の宮廷需要にこたえてドールハウスや飾り棚など豪華で精巧な高質玩具がつくられていた」

 とある。子ども向けの遊び道具というより、大人の収集趣味の対象だったらしい。

 ニュルンベルクは中世期豊かな商業都市で、手工業者の町でもあった。『中世の窓から』(阿部謹也、ちくま学芸文庫、2017年)には、街を支配する参事会(中世の市政機関)のメンバーである大商人一族が、この町の圧倒的な人口比率を占めるさまざまな手工業者のための養老院を無償で提供していたというエピソードが紹介されている。

 この町の(大)商人が、人形師、ろくろ細工工、金属細工工などの手工業者、あるいは周辺のマイニンゲン・オーバーライト、エルツ山地の木製品の職人を使って人形、ドールハウス、飾り棚、木製のさまざまな玩具などをつくらせ、ヨーロッパ中に輸出していた。近代となって、イギリスとアメリカ合衆国では玩具産業も大規模化したが、ドイツは労働集約型の中小規模に留まり、職人の技が生きていたという。

 ニュルンベルクの商人と手工業者の関係は、東京の蔵前の製問業者と川の向こうの職方の関係と、とてもよく似ている。手工業者は、輸出のための財力や流行や市場の変化への対応を商人の力に頼り、商人は、技術力とその伝承を手工業者の力に頼り、その関係は持ちつ持たれつだった。

 ニュルンベルクの玩具産業が急激に伸びたのは、19世紀後半から戦間期(第2次世界大戦前)までだ。近代になってブルジョワ(市民階級、有産階級)が台頭し、これまでなかった、子どもに対する家庭教育の必要性が説かれた。近代の教育思想から、子どもは“家族愛”の観念と結びつき、親の監督のもと自律的な個人、善き市民として育てあげるべき、との考え方が支配的となった。そこから子どもは保育・教育の対象となって、おもちゃは子どもにとってなくてはならないものとして急速に普及した。

 それ以前の子どものおもちゃがどんなだったかは、中世のネーデルランドの画家ブリューゲルの『子供の遊戯』を見ればわかる。そこには、250人以上の子どもがめいめい80種類以上の遊びをしている姿が描かれていて、そこに親の監視の目はない。

 子どもの遊び場は「無秩序な路上」だったと、『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(フィリップ・アリエス、みすず書房、1980年)に記されている。

 そもそも中世ヨーロッパには、“子ども”という概念がなかったと、本書に記されている。子ども期に相当する期間は“小さな大人”で、できるだけ早い時期から大人と一緒にされ、大人と仕事や遊びをともにした。でなければ放っておかれて無秩序な路上で勝手に遊んでいた。それが近代になると、母親の監視下にある遊び部屋(子ども部屋)へと移され、教育的意義を付与された子ども向け玩具が誕生し、玩具生産を主業とする地位が確立された。つまり業界が生まれた。

 それでは栄市郎の子ども時代(大正時代)の日本はどうだったか。柳田国男の『こども風土記』(角川文庫、1960年)を読んでもらえばわかる。

 『こども風土記』は、アメリカの大学の先生から柳田宛の1通の手紙が寄せられたことをきっかけに、子どもの遊びの全国分布を調べるという内容の本だ。「How many horns has the buck?(いかに多くの角を牡鹿が持つか=柳田本人の訳)」、こう唱えながら指の数を当てさせる遊戯が世界中に存在する。もしや日本にも同様の遊びがないか、という問い合わせがあった。
柳田が朝日新聞を通じて調査したところ滋賀県の「鹿・鹿・角・何本」と唱えながら遊ぶ馬乗り遊びなど、全国各地から同様の遊びがあるという報告が多数寄せられた。本書にはそれ以外にも多数の子どもの遊びが報告されているが、遊び自体も遊びの道具もブリューゲルの遊びの域を出ず、まさに中世期の“無秩序な路上”で遊ぶ、おもちゃという言葉の起源となった、”弄び物(もてあそびもの)“の域を出なかった。

 もうひとつ、おもちゃの起源で柳田は、お宮参りの”御宮笥(おみやげ)“から発生するおもちゃに触れている。東京のおもちゃは、浅草寺の表参道で、お参りの土産物として発展した、と以前書いた。江戸の享保の時代、増田屋齋藤貿易(現・増田屋コーポレーション)の創業も浅草寺の西で土人形や紙、竹、布のおもちゃを売っていた土産物屋だったとどこかで読んだ。栄市郎の時代には子どもの遊びもその道具も世界共通の自然発生あるいは宗教的な起源を持つものに過ぎなかった。

 ヨーロッパでは、19世紀後半から、子どもは産みっぱなしでよい対象ではなく、限られた数の子を産んで学校で教育を施し家庭でしつけるという新しいブルジョワ社会の規範が生まれた。明らかにそうした教育思想から生まれたニュルンベルクのおもちゃは、ヨーロッパ中に輸出され、日本のおもちゃが台頭する戦間期まで輸出世界一を維持した。教育性の高い、精巧な高級品として、世界に輸出されていた。

 世界的な鉄道模型製造会社・メルクリン社(創業1859年)、ブリキ玩具のビンク兄弟社(創業1866年)、蒸気機関車模型や幻灯機のエルンスト・プランク社(創業1880年)、そしてテディベアで知られるぬいぐるみのマルガレーテ・シュタイフ社(創業1880年)などもこの時期に誕生し、輸出により急速に経営発展を遂げたという。

 1970年代にぼくが初めてメルクリンの精巧な鉄道模型やシュタイフのぬいぐるみを見たときの感動はいまでも覚えている。Zゲージの機関車は精巧で走る宝石のようだったし、シュタイフのテディベアの抱き心地は別格でたちまち心を癒すものだった。

 ニュルンベルク創業のシュコーのフォルクスワーゲン車の写真を掲載する。あまりかわいらしくてつい買ってしまったが、確か15,000円もした。まして大正年間に10歳そこそこの少年の見たドイツ製ブリキのおもちゃはどんなにピカピカに見えたか、想像してもらいたい。

 先日昔のメディアワークスの仲間によるゴルフコンぺがあった。部下だった直吉君が駅まで迎えに来てくれて、ゴルフ場まで一緒に行ったのだが、車中で彼が、タカラトミーの『ダイアクロン』のキットがいかにすごいかを切々と語るものだから、翌日隣町の模型店で『ゲイルヴァーサルター<ラヴェイジャーユニット>』を買ってしまった。9,689円もした。確かに組み立てる満足感、組み立て上がったフォルムやギミックはぼくが子どものころのプラモとは別格だ。“キダルト”という新しい概念を実感した瞬間だった。


 幼い栄市郎の感動に思いを寄せたい。ニュルンベルクのおもちゃは、中世のころから貴族のおとなに愛用されていたとすれば“キダルト”であったと言えるし、近代社会で教育性の高い玩具として認められていたのなら、それはいまの”定番商品”の走りと言える。

 大正時代に少年だった栄市郎を通して、ニュルンベルクのおもちゃの精神が、令和の“いま”につながっていると想像するのは、楽しくありませんか?

 日本のエンタメ業界に起きるイノベーションの数々が、またわたしたちに新しい風を吹き込んでくれることを期待して、筆を置くことにする。

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