“PlayStation”制作の立ち上げからの初期メンバーであり生き証人である、ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)吉田修平氏が2025年に退職。SIEを離れることとなる。
インタビュー前編に続き、吉田氏のPlayStationへの思い、ゲームへの思いを聞かせていただいた。ここでは電撃オンライン独占インタビューの後編をお届けする。
インタビュー前編に続き、吉田氏のPlayStationへの思い、ゲームへの思いを聞かせていただいた。ここでは電撃オンライン独占インタビューの後編をお届けする。
※インタビュー前編はこちら
聞き手:電撃ゲームメディア総編集長 西岡美道
いきなりバーンとヒットするのがインディーゲームの面白さ
――アメリカでのゲーム制作はどのくらいの期間されていたのでしょうか?
吉田氏:2000年にアメリカへ行って、2008年にグローバルでゲーム制作の責任者になったので、アメリカのスタジオの責任者としては8年間ですね。その後、SCEAヴァイスプレジデントの時にSCEの社長をされていた平井さんから、私をグローバルのゲーム責任者にすると同時に「日本に戻ってきてくれ」とまた声がかかりました。
日本のハードのチームとゲーム制作チームと一緒になって、PS4とPS Vitaのプロジェクトに取り組んでほしいと言われました。そして、2008年に日本に戻りました。
PS3からの学びを活かし、PS4ではゲームを作りやすいハードにすることを目指してハード設計の人たちと仕事を始めるわけですけど、彼らはゲーム制作者の声を聞きたがっているということがわかりました。でもやっぱり新しいハードというのは守秘義務の塊みたいなものなので、誰にどうやって聞いていいかわからなかったんです。
情報漏洩の危険もあり、ずっと自分たちだけで考えていたので、ハードウェア的なイノベーションに突っ走っている状況でした。「ゲーム制作者はついてくればいいんだ」という空気があったので、それを一気に変えて、ゲーム制作者の意見を聞きながらハードの開発を行っていこうという形にしました。
その考えについてハードウェアチームと話をしたら、すごく喜ばれたんですよ。ハードをデザインする時にリソースが限られているし、ある程度の価格で出さなくてはいけないので、将来を見据えていろいろなところで選択をしなければいけない。どこに開発費を投入してどういうものを作るかという選択肢に悩む時に、信頼できるゲーム制作チームの意見を聞きながらやれるというのはありがたいと、すごく喜ばれましたね。
ハードチームにゲーム機や周辺機器のプロトタイプを作ってもらって、それをアイデアのあるゲーム制作チームに渡してゲームのプロトタイプを作ってもらい、意見交換をするというサイクルができました。特に日本のゲーム制作チームは近くにいるのでコラボレーションが密にできました。
だからPS4以降はゲームのクリエイターがゲームを作りやすいハードになっていると思います。PS4のシェアボタンは画期的だったと思いますが、あのアイデアはPlayStation Studios傘下のサンタモニカスタジオのクリエイターから出たんですよ。誰でもボタンひとつで配信者になれるということを実現できたのは、やっぱりハードチームとゲーム制作チームのコラボレーションがあったからですね。
――SCEワールドワイド・スタジオのプレジデントを11年間やっているときに印象に残っている出来事はありますか?
吉田氏:すごく嬉しかったのはSIEA時代にPlayStation Studios傘下のサンタモニカスタジオから出した『ゴッド・オブ・ウォー』(2005年)がゲーム・オブ・ザ・イヤーを受賞したことですね。その後、2010年に発売した 『風ノ旅ビト』は3時間ぐらいで遊べるゲームでしたが、いろいろな賞でアワードを総なめして本当に光栄でした。
吉田氏:すごく嬉しかったのはSIEA時代にPlayStation Studios傘下のサンタモニカスタジオから出した『ゴッド・オブ・ウォー』(2005年)がゲーム・オブ・ザ・イヤーを受賞したことですね。その後、2010年に発売した 『風ノ旅ビト』は3時間ぐらいで遊べるゲームでしたが、いろいろな賞でアワードを総なめして本当に光栄でした。
毎年各国のゲームアワードに参加するというのはすごく楽しみでしたね。自社スタジオから何らかのゲームがノミネートされていましたし、それでユーザーさんや業界からの評価を受けてクリエイターの人たちと一緒にそれを喜ぶというのがすごく楽しいことでした。
ゲーム・オブ・ザ・イヤーは格別で、それをやっぱり最初に受賞したことと、業界的に今でいうインディーゲームのような『風ノ旅ビト』が一番大きな賞を取ったことが印象に残っています。
『風ノ旅ビト』は人生みたいなゲームじゃないですか。それでこう、最後に涙を流す人が多かったんですね。ゲームが人の心を打つという過去にあんまりなかったことを、この小さなゲームがやったっていうのはすごく大きかったと思います。
吉田氏:私がこれまでにゲームで涙を流したタイトルが2つあるんです。『風ノ旅ビト』と、2023年に発売された『Before Your Eyes』というゲームです。
これも2時間ぐらいでプレイできるものですが、ある少年の一生を振り返るというゲームで、少年の視点で遊ぶことができるんです。PlayStation VR2版も出ていて、VRだとその少年の頭の部分に自分の頭が来るので、少年が見ているような形でシーンを見ることができます。しかもアイトラッキングを利用して瞬きで次のシーンに移るので、没入感がすさまじいんです。
これも2時間ぐらいでプレイできるものですが、ある少年の一生を振り返るというゲームで、少年の視点で遊ぶことができるんです。PlayStation VR2版も出ていて、VRだとその少年の頭の部分に自分の頭が来るので、少年が見ているような形でシーンを見ることができます。しかもアイトラッキングを利用して瞬きで次のシーンに移るので、没入感がすさまじいんです。
――ワールドワイド・スタジオのプレジデントを退任されてから、インディーズ イニシアチブ代表になったわけですね。
吉田氏:そうですね。ご存知の通りスタジオのプレジデントをやっていた時から、もうずっとインディーゲームが好きで、イベントではインディーゲームエリアへ行って、面白いゲームがあったら写真を撮ってポストしたりというようなことをずっとやっていました。
SIE JAPANスタジオのYouTube番組で勝手にインディーゲームのコーナーをやらせてもらったりもしましたね(笑)。もうある意味、趣味でやっていたことが仕事になったという感じです。
「なんだこれは」と驚くようなゲームは、今はインディーゲームから多く出るんですよ。大手メーカーが作るゲームは、角が取れていくこともあるんですよね。いろいろな人に遊んでもらいたいですし、お金をたくさんかけて、たくさん売らなきゃいけないところもある。
でも、インディーゲームは突き刺さるような角しかないので面白いんです! エンタテインメントとして、ゲームが映画や音楽と違うのは、映画のインディーや音楽のインディーがいきなりアカデミー賞を取ったりとかしないところ、ゲームはいきなり1000万本売れたりするし、ゲーム・オブ・ザ・イヤーを取ったりします。しかも、たった1人で作ったものもありますし。近年でも『スイカゲーム』や『8番出口』もヒットしましたよね。そうやって、いきなりバーンとヒットするのがインディーゲームで、そこが面白いです。
吉田氏:そうですね。ご存知の通りスタジオのプレジデントをやっていた時から、もうずっとインディーゲームが好きで、イベントではインディーゲームエリアへ行って、面白いゲームがあったら写真を撮ってポストしたりというようなことをずっとやっていました。
SIE JAPANスタジオのYouTube番組で勝手にインディーゲームのコーナーをやらせてもらったりもしましたね(笑)。もうある意味、趣味でやっていたことが仕事になったという感じです。
「なんだこれは」と驚くようなゲームは、今はインディーゲームから多く出るんですよ。大手メーカーが作るゲームは、角が取れていくこともあるんですよね。いろいろな人に遊んでもらいたいですし、お金をたくさんかけて、たくさん売らなきゃいけないところもある。
でも、インディーゲームは突き刺さるような角しかないので面白いんです! エンタテインメントとして、ゲームが映画や音楽と違うのは、映画のインディーや音楽のインディーがいきなりアカデミー賞を取ったりとかしないところ、ゲームはいきなり1000万本売れたりするし、ゲーム・オブ・ザ・イヤーを取ったりします。しかも、たった1人で作ったものもありますし。近年でも『スイカゲーム』や『8番出口』もヒットしましたよね。そうやって、いきなりバーンとヒットするのがインディーゲームで、そこが面白いです。
吉田氏:私がゲーム業界で一番好きな言葉があるんですよ。「You are only as good as your last game」というもので、ゲームクリエイターがどんなにいいものを作ってもずっと偉そうにはできないよ、もっといいゲームはいずれ出てくる。だからいいゲームを作り続けなくちゃいけないよという意味なんですけど、大好きな言葉ですね。
ゲーム制作をやっていると何も隠すものがありません。ユーザーさんに評価されますし、ゲームひとつひとつがビジネスみたいなものですから、儲かったか儲からなかったかも明らかになります。内容的にもビジネス的にも最終的には評価されるので、何も隠せないので、すごく正直になりますね。
PlayStationは未来でも存在意義を持ち続ける
――Steamのアーリーアクセスが登場したり、Metacritic (メタクリティック)などでユーザーさんの評価に触れる機会が多くなったと思いますが、そういうものが登場したことでゲーム制作では何か変わった部分はありますか?
吉田氏:そうですね、ユーザーさんと直接コミュニケーションが取れるので、そこはだいぶん変わりましたよね。ゲームの作り方も変わってきました。発売後にどんどん改良していったり、追加コンテンツを増やしたり。デジタルストア販売の良いところは、売り切れでなくなるということがないことです。
セールもあるので売り上げもずっと落ちていくだけではなく、上がったり下がったりしながら長く売れ続けるんですよ。時間が経つと、ユーザーさんの意見を取り入れ、追加コンテンツを出すことで売り上げも稼げるし、長く売れて、その次に繋がって行くのはすごくいい面ではあると思います。
――こういった環境になったことで大胆なゲームを出しにくくなった、というようなことはないのでしょうか?
吉田氏:ゲームクリエイターの数やデベロッパーの数は年々増えていて、世界中にいるので何かが減るということはないと思います。どこかで誰かが新しく尖ったものを作っているはずです。
技術的にはこれまでもできたはずのに、これまでこのアイディアを誰もやらなかったようなものが今出てくるというのはすごいこと。『8番出口』なんかはそういったゲームですよね。ツールもエンジンもどんどん良くなっていますから、1人で作ったゲームでもすごくクオリティが高いものが出てきています。
――日本の「ゲーム」はここから先どうなっていくと考えていますか? 世界中を回ってさまざまな人と話をしている吉田さんから見て、日本の「ゲーム」の現在地と数年先までの見通しを聞かせてください。
吉田氏:何か技術革新があると真っ先にゲームが作られますよね。面白いものをみんな作りたがるので技術の進化が止まらない限りはやっぱり新しい体験というのは生まれていくと思いますし、雛形があるようなゲームでもやっぱり技術がどんどん進化していくことで、クオリティはただただ上がっていきます。
ハードの性能というのは基本的には上がる一方なので、その性能を使って面白いものを、きっと誰か作ってくれるだろうと私は思っています。
――Steamが台頭してきて、ゲーム専用機の在り方というのも変化してきたように思いますが、そのあたりについて考えることはありますか?
吉田氏:今後もたくさんのゲームがいろいろなハードで出されていくとは思います。ゲーム専用機のいいところは、安心して購入できるとか、安心して遊べるとか、リビングルームで遊ぶには一番適しているとか、そういうところがあるのでゲーム専用機は存在意義を持ち続けると考えています。
――これもあまりお聞きしたことがなかったのですが、吉田さんにとってゲーム業界での盟友と呼べるような方はいらっしゃるのでしょうか?
吉田氏:一緒にやってきた、同志みたいな方がたくさんいます。 PlayStation Studiosサンタモニカスタジオの立ち上げやSIE JAPANスタジオのヘッドをしていたAllan Beckerさん、Foster City StudioとサンマテオスタジオのヘッドのConnie Boothさん、サンディエゴスタジオのヘッドを務めた後にSIEAのゲーム開発責任者を務めたScott Rohdeさん、CTOのRichard Leeさん、SIEEゲーム開発責任者のMichael Dennyさん、SCE時代の業務部の立ち上げパートナーで元SIE JAPANスタジオのヘッドの小林康秀さん。この人たちがスタジオでの戦友ですね。
あとは、Mark Cernyさん、インディーゲームの担当になったときからずっと一緒に頑張ってきたGreg Riceさん、Shawne Bensonさん、John Vegaさんですね(※当時の肩書も含む)。
――電撃ゲームメディアとしても、電撃PlayStation時代から現在まで、吉田さんといろいろなことをやらせていただきました。そちらでも思い出に残っているようなことはございますか?
吉田氏:本当に一緒にいろいろやらせていただいて、電撃PlayStationでのコラム連載とか電撃オンラインでの連載もありましたけど、一番楽しかったのは電撃PlayStationプレミアムイベントですね! 本当に毎回楽しみにしていました。ここから先もまた何かあったらぜひ呼んでください。
※電撃PlayStationプレミアムイベント:PlayStation専門誌の電撃PlayStationが定期的に実施した、ゲームファンを招待してのイベント。発売前のゲームの試遊や、ステージイベントなどで盛り上がった。
――最後にプレイステーションに30年以上関わってきて、深く思い出として残っている出来事にはどんなものがありますか?
吉田氏:うーん、たくさんあって難しいですね(笑)。ただ、ひとつだけ選ぶとしたら、やっぱり、初代のPlayStationの発売日ですね。みんなで頑張ってきて、苦労して、発売日を迎えて。あの頃は一番楽しかったし一番働いた時期でもあります。
ハードの発売日は、関係者は秋葉原だったり新宿だったり、販売店に見に行くのが恒例で。ユーザーさんがPlayStationを買って嬉しそうに持って帰っていただく姿を見たときは、本当に幸せでした。それがやっぱり一番かなと思います。
自分にとっての原点みたいな感じですね。今でもゲームのイベントがいいのは、自分の作ったゲームをユーザーさんが遊んでいるのを後ろから見て、すごくドキドキしたりハラハラしたりするんですけど、フィードバックをもらうことができるっていうのが嬉しいですよね。
――吉田さん、長い間お疲れ様でした。PlayStationをありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
吉田氏:ありがとうございました! 引き続きよろしくお願いしますね。
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