“PlayStation”制作の立ち上げからの初期メンバーであり生き証人である、ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)の吉田修平氏。
現在はインディーズ イニシアチブ代表として世界中のインディーゲーム、クリエイターの発掘とその訴求を行っているが、1993年の立ち上げのときからPlayStationに関わる、今や数少ないレジェンドだ。
これまでの経歴を見ても、PlayStationのゲーム制作のトップを任されてきており、重要なイベントでは壇上に立つことも多く、今でも世界中に氏のファンは多い。
そんな吉田修平氏が、2025年の年明けに退職となりSIEを離れる。思えばこれまでに吉田氏が歩んで来た、誰にも真似のできない道のりについてのお話をあまり聞いたことがない。退職を前に、吉田氏のPlayStationへの思い、ゲームへの思いを聞かせていただいた。
●吉田修平氏の経歴●
- 1986年4月 ソニー株式会社入社
- 1993年11月 株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント 業務部
- 1996年4月 制作部 プロデューサー
- 1997年10月 制作本部 制作部 エグゼクティブプロデューサー
- 2000年4月 ソニー・コンピュータエンタテインメントアメリカ ヴァイスプレジデント
- 2007年2月 SCEワールドワイド・スタジオ USスタジオ シニア・ヴァイスプレジデント
- 2008年5月 SCEワールドワイド・スタジオ プレジデント
- 2016年4月 ソニー・インタラクティブエンタテインメント ワールドワイド・スタジオ プレジデント
- 2019年11月 ソニー・インタラクティブエンタテインメント インディーズ イニシアチブ 代表
聞き手:電撃ゲームメディア総編集長 西岡美道
新しいイノベーションが生まれるのはインディーのコミュニティから
――2025年にSIEをご退職されるということですが、ちょっと驚きました。
吉田氏:そうですね、いよいよという感じです。1月15日が最後の日ですね。
今年はPlayStationの30周年ですけど、私のSIEでの所属が去年で30年を迎え、そろそろかなと思っていたところ、ジム・ライアンさん(元SIE社長兼CEO)が先に引退して。
それまでは初代PlayStationから関わる我々の世代の経営陣中心に率いてきましたが、ここで次の世代に移り変わりました。しかも、すごくいい形で私のとても尊敬する人たちがSIEをリードしていくということが見えたので、自分も良いタイミングかなと。
1993年11月にSCE(ソニー・コンピュータエンタテインメント、現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が設立されたんですが、その年の2月に久夛良木(久夛良木健氏。PlayStation生みの親でSCE代表取締役、ソニー(株)副社長などを歴任)さんのチームに入っていたので、2023年の2月が個人的にはちょうど30周年だったんです。私の世代の人がSIEを卒業していく中、そろそろ自分もという感じは持っていました。
これまでやってきた仕事は本当に楽しかったです。今、自分が一緒に仕事しているインディーのチームは若い人が多いので、私がメンターのような感じでやっていて、それも良かったですし、もちろんデベロッパーさんとの関わりもすごく楽しかったです。
インディーズ イニシアチブとしての仕事は5年間やってきました。自分的に一番長かったのはゲーム制作なんですけど、その自分のSIEでの最後の仕事としての「インディーゲームをもっと盛り上げる」、「PlayStationはインディーゲームをサポートします」というメッセージを広めていくことをやってきて、自分としても満足できる結果になったんです。
もちろんできることはまだたくさんあるのですが、今所属しているインディーゲームサポートチームもすごくいいチームになっていますし、もう自分の役割がある程度達成できたかなという気持ちになりました。
――吉田さんの後継者のような方はいらっしゃるのでしょうか?
吉田氏:1人でというよりはチームですね。もう私よりもゲームに詳しかったり業界での繋がりが深かったりするメンバーも多いです。本当に尊敬できる人たちがPlayStationのインディーゲームをリードしていくだろうというのがはっきり見えているので、すごく安心しています。
――吉田さんがインディーゲームのサポートチームに入ってから、どんな変化がありましたか?
吉田氏:私がジム・ライアンさんから「インディーゲームの仕事をしてくれないか?」と言われた時は、PlayStationはインディーズへのサポートについてあまり知られていなかったと思います。
内部的にはずっとインディーゲームのサポートをやっていたつもりなんですけど、その頃は「PS4発売の時期は頑張ってやっていたのに、最近はなんかAAA(トリプルエータイトル。莫大な開発費を投じて作られるたゲーム)とかファーストパーティータイトルばっかり推しているよね」という風に言われていて。
そのタイミングでいろんなところから新しい人たちが入ってきて“PlayStationはこれまで、クリエイターを大事にして新しいコンテンツ、新しいゲームジャンルを作ってもらうことをすごく大切にやってきた”ということを知らない人たちもいたので、私がエバンジェリスト(自社の想いや技術を正しく伝える役割)のようなことをしていました。
インディークリエイターサポートというのは、このビジネスをやっていく上で大事なことなんです。最近だとAAAタイトルはビジネスのドライバーでありますけど、あまりにも規模が大きくなっているので、新しいことに挑戦しづらい側面もありますよね。新しいジャンルを作ったり、イノベーションが生まれるのはインディーコミュニティだからこそですよね。
ですから、業界の中でのメジャープレイヤーの1社であるPlayStationとしてサポートするっていうのは本当に大事なことなんですよ。その想いをいろいろな人に伝えることが大事だと思っていましたし、社内外で「我々はこんなにインディーゲームのサポートをしていますよ」とか「このタイトルが面白いですよ」っていうのをずっとPRして、私自身もいろいろなイベントに行って関係者とお話をしたりといった活動を続けていました。
パートナーさんやデベロッパーさんと直接やり取りしているチームと深く仕事をしていく中で、持っていた問題意識は共通のものがあることがわかりました。そこでユーザーさんの多いソーシャルチャンネルとかでゲームをフィーチャーしていこうとか、PS Storeを改善して新しく面白いインディーゲームがユーザーさんの目に触れやすいようにしていこうとか、そういうことをコツコツとやってきたっていうのがこの5年間でしたね。
――最近ではインディーゲームの扱いが変わってきた印象です。
吉田氏:ありがとうございます! そういう風に思っていただけるように徐々になってきましたね。
インディーゲームは基本的にはマルチプラットフォームで発売されることが多いのですが、発売した時にPlayStationではどれくらい売れているのかとか、インディーセールではどれくらい売れているのかを見ると、PlayStationのストアの売り上げがインディーパブリッシャーやデベロッパーさんにとってより重要な位置を締めるようになってきたということも、データとして見ることができました。
――吉田さんは海外のイベントや日本のイベントで会場を歩いていると、クリエイターさんが寄ってきますよね。
吉田氏:そうなんです! そういうことはすごく大事なことだと思っています。イベントへ行くと、クリエイターさんがそのゲームを展示しているんですよね。
「これってどうやって作っているんですか?」とかすぐに話ができるのが本当に楽しいですし、その場で写真も撮ってSNSでポストして宣伝したりしていますね。そういう形でゲームのサポートしつつ、PlayStationで出せるような誘致活動みたいなことをずっとやってきています。
去年は海外のイベント、日本のイベントも含めて21のイベントに行きましたし、今年も20回ぐらいにはなりそうですね。ですから月2回ずつ、ほぼ毎月違う国に行っているような感じでした。1年の半分ぐらいは時差ボケしていましたね(笑)。
――イベントなどに実際に足を運んで新しいゲームを見つけるのでしょうか。
吉田氏:小さいデベロッパーさんはお金もないし、海外のイベントに参加するとなると移動に時間もかかるので、自分たちがいる地域のイベントに出展するんです。なので、やっぱり行ってみないといいタイトルが見つからないということがありますね!
あとは大手のインディーパブリッシャーさんとは、同じイベントに行くことが多いので定期的に会うことができるんです。そうすると彼らが今開発している未発表のラインナップを見せていただけたりするので、そこで新しいゲームを発見したりしていますね。
2022年にリアルでのイベントが復活した年は特に盛り上がりましたね。皆さんやっと自分のゲームをイベントで見せることができるようになったということで。
――イベントやSNSなどを通じて、世界中に吉田修平さんのファンがいると思いますが、今回のひと区切りとして、そういう方たちにも何かメッセージはありますか?
吉田氏:もう本当に皆さんにはお礼を言いたいですね。私はやっぱりSNSのフォロワーさんも多いですし(Xでは約40万フォロワー)、SIEの中の人として一番知られているメンバーの一人でもあったので、弊社に言いたいことがあると必ず私のところに「いいぞ、よくやった」とか、私が全然関係ないようなことでもSNSなどで言ってくれるので、すごく楽しい人生を歩ませてもらっています(笑)
そういったやりとりを毎日毎日やっていたので、それはもう本当に楽しかったです。私はSIEを離れますが業界からいなくなるつもりはないので、今後もSNSを続けていきたいですね。
――やはり気になるところですが、今後はどういった活動をされるのでしょうか。
吉田氏:次は何をするというのは実はまだ全然決めていないのですが、インディーゲームが好きですし、この5年間でものすごくいろんなデベロッパーさんと知り合いになって仲良くなったりしたので、何らかの形でそういった方々をお助けできることをしていきたいなと思っています。
PlayStationと歩んできた31年
――ここからはこれまでにあまり吉田さんにお聞きしていないことを聞いてみたいと思っています。PlayStationに初代の立ち上げから前線で関わってきたわけですが、SIEでのこれまでの歩みを最初から教えていただけますか。
吉田氏:SIEとともに歩んできたなという感じで、本当にお世話になりました。昔からとにかくゲーム好きだったので、ゲームに関わりたいと思っていたんです。1986年にソニーに入社しましたが、なぜか、ソニーはそのうちゲーム機を作るだろうと思っていたんですよね。
そういった背景としては、8ビットパソコンとかMSXはソニーもやっていましたし、ゲーム機を作るのであればそこに入りたいなと思っていたんですよ。周りにもそういうことを言っていました。それをいろんな人に覚えてもらっていて、PlayStationのチームに入ることができたんです!
吉田氏:私はそのときパソコン事業の部署にいたのですが、あるとき上司から久夛良木さんを紹介されたんです。久夛良木さんは当時1,000万円以上もするCGをレンダリングするワークステーションと同じ性能のゲーム機を作っていて、それを5万円で出すと言ったんですよ。「すごいですね」と言いながら「この人嘘をついてる!」って思いましたね(笑)。上司にもその報告をしたのですが、その上司というのが徳中暉久さん(SCE二代目社長)です。
それから2週間後に、徳中さんが久夛良木さんのいる部署に異動して久夛良木さんの上司になったんです! 自分が行くから、自分の知っている使えそうなやつを集めていたんだなと思いましたね。それで私も入れてもらえたんだなと。とても、ラッキーでしたね。
その頃、社内では「ゲーム機なんかやるべきじゃない。ソニーブランドに合わない」という役員の方々もいらっしゃいました。まず最初の仕事はソニーの役員会みたいなところで、なぜソニーはPlayStationをやるべきか、というプレゼン資料を作りました。
開発が進んでデモ映像を見せられる段階になってからは、業務部として日本全国、北から南まで50か所以上のメーカーさん、デベロッパーさんのところに行きました。それはとても楽しかったのですけど「すごくいいですね」って言ってくださるところよりも「何それ、3Dなんてゲームに使えないよ」という反応の方が多かったんです。
電機メーカーはそれまでにもゲーム機に参入して失敗していたので「ゲーム業界ってそんなに簡単じゃないよ」と厳しいことも言われましたね。でもそういう状況でも、個人的な目標としては、「何とかこのPlayStationをチームで成功に導いて、長くこの仕事がしたい!」と思っていました。
その頃の我々は指摘されたとおり、本当に素人集団ではありました。ゲームのビジネスは普及台数が重要で、台数が出ていないとソフトメーカーさんはゲームを作ってくれないということを学んで、ゲームビジネスとしてはすごく謙虚にやっていきました。
PlayStationが立ち上がってからも最初の2年は大きなチャレンジでしたが、最初は『リッジレーサー』のおかげでうまくいきました。1996年の年始には『FINAL FANTASY VII』がPlayStation向けに制作開始のCMを出したことでさらに評価され、その後、3月に『バイオハザード』が出たりして勢いを続けることができました。
当時「全てのゲームは、ここに集まる」というキャッチフレーズをCMに入れて掲げていました。ゲームメーカーさんに乗っかってほしいと。あのキャッチはこうなってほしいという願いでした。当時業務部にいた私の仕事はまさにそういう仕事でしたから、大手メーカーさんが乗ってくれて、なんかこう目標が達せられたような気がしていました。
それから2週間後に、徳中さんが久夛良木さんのいる部署に異動して久夛良木さんの上司になったんです! 自分が行くから、自分の知っている使えそうなやつを集めていたんだなと思いましたね。それで私も入れてもらえたんだなと。とても、ラッキーでしたね。
その頃、社内では「ゲーム機なんかやるべきじゃない。ソニーブランドに合わない」という役員の方々もいらっしゃいました。まず最初の仕事はソニーの役員会みたいなところで、なぜソニーはPlayStationをやるべきか、というプレゼン資料を作りました。
開発が進んでデモ映像を見せられる段階になってからは、業務部として日本全国、北から南まで50か所以上のメーカーさん、デベロッパーさんのところに行きました。それはとても楽しかったのですけど「すごくいいですね」って言ってくださるところよりも「何それ、3Dなんてゲームに使えないよ」という反応の方が多かったんです。
電機メーカーはそれまでにもゲーム機に参入して失敗していたので「ゲーム業界ってそんなに簡単じゃないよ」と厳しいことも言われましたね。でもそういう状況でも、個人的な目標としては、「何とかこのPlayStationをチームで成功に導いて、長くこの仕事がしたい!」と思っていました。
その頃の我々は指摘されたとおり、本当に素人集団ではありました。ゲームのビジネスは普及台数が重要で、台数が出ていないとソフトメーカーさんはゲームを作ってくれないということを学んで、ゲームビジネスとしてはすごく謙虚にやっていきました。
PlayStationが立ち上がってからも最初の2年は大きなチャレンジでしたが、最初は『リッジレーサー』のおかげでうまくいきました。1996年の年始には『FINAL FANTASY VII』がPlayStation向けに制作開始のCMを出したことでさらに評価され、その後、3月に『バイオハザード』が出たりして勢いを続けることができました。
当時「全てのゲームは、ここに集まる」というキャッチフレーズをCMに入れて掲げていました。ゲームメーカーさんに乗っかってほしいと。あのキャッチはこうなってほしいという願いでした。当時業務部にいた私の仕事はまさにそういう仕事でしたから、大手メーカーさんが乗ってくれて、なんかこう目標が達せられたような気がしていました。
吉田氏:そんな時に『クラッシュ・バンディクー』のプロデューサーをやらないかという話をもらったんです。これまた運が良い話で、『クラッシュ・バンディクー』というゲームがよさそうだから、そのパブリッシングの権利を取ったものの、英語のできるプロデューサーがいないから、それなら業務部に英語のできる吉田がいるじゃないか、と声をかけてくれたみたいです。それで「やりたいです」と答えました。
『クラッシュ・バンディクー』1タイトルに加えて内部制作も担当してほしいと言われて。当時は内部制作タイトルは、その後に『グランツーリスモ』を作る山内一典さんが作った『モータートゥーン・グランプリ』のチームしかなかったんですよ。
そのチームを引き継いで、あとはいろんな人に制作チームに入ってもらって、『サルゲッチュ』とか『レジェンド ・オブ・ドラグーン』のチームを作っていきました。
『クラッシュ・バンディクー』1タイトルに加えて内部制作も担当してほしいと言われて。当時は内部制作タイトルは、その後に『グランツーリスモ』を作る山内一典さんが作った『モータートゥーン・グランプリ』のチームしかなかったんですよ。
そのチームを引き継いで、あとはいろんな人に制作チームに入ってもらって、『サルゲッチュ』とか『レジェンド ・オブ・ドラグーン』のチームを作っていきました。
海外のゲームのローカライズをやりながら、内部制作チームで『グランツーリスモ』なんかも作っていったというのが初代PlayStationの時代ですね。あのときはもうめちゃくちゃ楽しかったですね。
ゲーム制作をやったことがない人間ではあったんですが、運がいいことに才能のあるクリエイターが入ってくれて、彼らに頼りながら作っていきました。
当時の日本は日本中の人がゲームをやっていたような感じがありました。日常会話の中でPlayStationのゲームの話題が出てくるみたいな感じでしたね。
吉田氏:思えばその頃からやっていた人が今、ゲームクリエイターとして凄く育っていますよね。若い時から1から制作を任せられたりとか、少人数で何作も担当していたりとかの経験をしていたので、すごくクリエイターが育つ時代でもありました。
その後は、2000年にPlayStation 2が発売されるというのは、社内だから当然わかっていたのですが、素人だったのでプラットフォームの移り変わりの経験というものもなかったわけですよ。
PS2の発売まで9ヶ月もないぐらいのときに、まだPS2のゲームを作っていませんでした(笑)。「どうしよう」とチームをいくつかに分けて試作を始めて、その中のチームのひとつが『FANTAVISION』を作ってくれました。少人数でPS2のローンチに間に合わせてくれたんです。結構売れましたし、PS2の機能的な特徴を駆使していたので、一応最低限の役割は果たせたのかなと思いました。
同時期にSCEアメリカの社長をやっていた平井(一夫氏。元ソニーグループCEO)さんからアメリカに来てくれないかと誘われました。 SCEアメリカのゲーム制作の責任者になってくれないかと言われて「喜んでいきます」と返事をしました。考えてみると自分から「これやりたい」と言ったことがあまりないんですよ。何かやっていると、これをやってみないかと言われることが多かったですね(笑)。
こうしてアメリカへ行って、アメリカのスタジオの責任者になりました。しかも、『クラッシュ・バンディクー』シリーズなどでずっと一緒に仕事をしていたMark Cerny(サーニーゲームズ。PS4、PS5リード・システムアーキテクト)さんとの仕事のつながりをそのまま続けてPS2の新作を作ってもらって、Naughty DogをSCEアメリカが買収するといったことをやることになりました。なので、PS2のローンチは日本とアメリカの両方で立ち会っていますね(アメリカでのPS2の発売日は2000年11月25日)。
※インタビュー後編はこちら