連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第36回
7-6 タカラトミーの合併という転換
2005年5月2日にバンダイとナムコの経営統合の発表会があったその直後の5月13日、バンダイとはおもちゃの業界でライバルであったタカラとトミーの合併が発表され、業界人を驚かせた。発表から1年後の2006年3月1日に株式会社タカラトミーが誕生した。代表取締役社長にはトミー社長の富山幹太郎が、代表取締役副社長にはタカラ会長の佐藤慶太が就任した。
タカラトミーのIRライブラリーには、2005年から2006年にかけて3度開かれた“合併基本方針説明会資料”が収録されており、そこには合併への両社の気負いと、業界内外の必ずしも好意的だけでない空気感が伝わってくる。
第1回の2005年8月の説明会では“今までのタカラ・トミーの破壊と融合”、“玩具業界の再生”といった強い調子の決意表明があって、タカラトミーは、国内コア玩具No.1のシェアになります、と宣言している。バンダイがナムコとの合併によっておもちゃも“ワンオフゼム”とする新業態に乗り出すことを機に、タカラトミーは(あえて強い言葉を使えば)自分たちの“体たらく”から、低成長にあえぐおもちゃ業界の危機を、合併によって克服しようという使命感があったのではと、勝手に推察する。
まさに合併の時に当たる2006年3月の説明会資料では、業界内外の大方の見方が、「トミーによるタカラの“救済合併”であり、統合の効果に疑問が呈されている、また再生及び内部統合に時間がかかるという懸念を持たれている、成長シナリオが見えないという疑問が呈され、今回の合併は“弱者”と“弱者”の結合で共倒れとなるのではないか、高収益化はもとより来期黒字化にも懸念を示されている」と、身もふたもないほど率直に記されている。
しかし、その業界内外の見方は、自らに起因するとはいえ“誤解”であって、合併は、両社の強みを生かし弱みを克服するもので、合併による成長シナリオなるものを、スライド1枚にまとめて見せた。
このスライドの内容の率直さと明晰さにぼくは感心した。旧タカラ、旧トミーの弱み強みを図示し、共通課題を“キャラクター・コンテンツのマルチユースによる回収力強化”とし、まとめとして“安定・定番商品とヒット商品による中核事業の玩具事業強化とコンテンツ創造”、“グループ力による周辺事業・グローバル展開の拡大・高収益化を構築”を実現するとうたっている。
両社の合併は、その後まさにそのように進んだ。このあと、前章の続きから、両社合併までの歩みを振り返るが、そこから合併直前期の両社の追い詰められた状況が鮮明になるとともに、合併を成功させて、いまのタカラトミーがあることも明らかになる。
ここからは、合併に至るまでのタカラを振り返る。
1994年4月に始まる佐藤安太会長、長男佐藤博久社長体制がうまく機能せずタカラは業績不振に陥る。これまで再三言及してきた国内消費不況の影響も当然大きかったろう。1999年7月にはその責任を取って博久が退任し、佐藤安太代表取締役会長兼社長の時代となるも、覆水が盆に返る状態ではなかった。1996年にタカラを退社して、独自におもちゃ会社ドリームズ・カム・トゥルーを成功させていた次男の慶太を安太が呼び戻し、99年11月に顧問に据えた。
2000年3月期の決算が赤字になることがすでにその時点で明らかであったから、慶太をトップとする再建委員会が組成され、予定では社員の四分の一に当たる100人を対象とするリストラ(結果は91人だったと『「タカラ」の山 老舗玩具メーカー復活の軌跡』 (竹森健太郎、朝日新聞社、2002年)にある)が、わずか4カ月(期をまたがずに終えたいということから2000年3月まで)の間に断行されることになった。
2000年2月、コナミが第三者割当増資を引き受けてコナミグループの傘下となると同時に、慶太は社長に就任、会長兼社長の安太が顧問に退き、博久も、銀行出身の副社長も退任、トップ3が変わった。不採算事業からの撤退、組織のスリム化も行われ、劇的に会社が変わった。
タカラトミーのIRライブラリーには、2005年から2006年にかけて3度開かれた“合併基本方針説明会資料”が収録されており、そこには合併への両社の気負いと、業界内外の必ずしも好意的だけでない空気感が伝わってくる。
第1回の2005年8月の説明会では“今までのタカラ・トミーの破壊と融合”、“玩具業界の再生”といった強い調子の決意表明があって、タカラトミーは、国内コア玩具No.1のシェアになります、と宣言している。バンダイがナムコとの合併によっておもちゃも“ワンオフゼム”とする新業態に乗り出すことを機に、タカラトミーは(あえて強い言葉を使えば)自分たちの“体たらく”から、低成長にあえぐおもちゃ業界の危機を、合併によって克服しようという使命感があったのではと、勝手に推察する。
まさに合併の時に当たる2006年3月の説明会資料では、業界内外の大方の見方が、「トミーによるタカラの“救済合併”であり、統合の効果に疑問が呈されている、また再生及び内部統合に時間がかかるという懸念を持たれている、成長シナリオが見えないという疑問が呈され、今回の合併は“弱者”と“弱者”の結合で共倒れとなるのではないか、高収益化はもとより来期黒字化にも懸念を示されている」と、身もふたもないほど率直に記されている。
しかし、その業界内外の見方は、自らに起因するとはいえ“誤解”であって、合併は、両社の強みを生かし弱みを克服するもので、合併による成長シナリオなるものを、スライド1枚にまとめて見せた。
このスライドの内容の率直さと明晰さにぼくは感心した。旧タカラ、旧トミーの弱み強みを図示し、共通課題を“キャラクター・コンテンツのマルチユースによる回収力強化”とし、まとめとして“安定・定番商品とヒット商品による中核事業の玩具事業強化とコンテンツ創造”、“グループ力による周辺事業・グローバル展開の拡大・高収益化を構築”を実現するとうたっている。
両社の合併は、その後まさにそのように進んだ。このあと、前章の続きから、両社合併までの歩みを振り返るが、そこから合併直前期の両社の追い詰められた状況が鮮明になるとともに、合併を成功させて、いまのタカラトミーがあることも明らかになる。
ここからは、合併に至るまでのタカラを振り返る。
1994年4月に始まる佐藤安太会長、長男佐藤博久社長体制がうまく機能せずタカラは業績不振に陥る。これまで再三言及してきた国内消費不況の影響も当然大きかったろう。1999年7月にはその責任を取って博久が退任し、佐藤安太代表取締役会長兼社長の時代となるも、覆水が盆に返る状態ではなかった。1996年にタカラを退社して、独自におもちゃ会社ドリームズ・カム・トゥルーを成功させていた次男の慶太を安太が呼び戻し、99年11月に顧問に据えた。
2000年3月期の決算が赤字になることがすでにその時点で明らかであったから、慶太をトップとする再建委員会が組成され、予定では社員の四分の一に当たる100人を対象とするリストラ(結果は91人だったと『「タカラ」の山 老舗玩具メーカー復活の軌跡』 (竹森健太郎、朝日新聞社、2002年)にある)が、わずか4カ月(期をまたがずに終えたいということから2000年3月まで)の間に断行されることになった。
2000年2月、コナミが第三者割当増資を引き受けてコナミグループの傘下となると同時に、慶太は社長に就任、会長兼社長の安太が顧問に退き、博久も、銀行出身の副社長も退任、トップ3が変わった。不採算事業からの撤退、組織のスリム化も行われ、劇的に会社が変わった。
上の表のように、その後の黒字転換と短期的な成長は見事だった。この成長を支えたのは……
➀『リカちゃん』、『チョロQ』、『トランスフォーマー』などの定番商品の堅調
➁『デュエル・マスターズ』『ベイブレード』のようないまにつながるヒット商品がこの時代に誕生したこと
➂家庭用ビールサーバー『レッツビアー』『e-kara』『バウリンガル』『そんなバナナ』のような、“ライフエンタテインメント”や“なんちゃってシリーズ”と言われた一連の脱玩具商品群のヒット
➃事業提携や買収により事業規模を拡大したこと、などが貢献した。
この成長要因のうち、➁の、いまにつながるヒット商品についてこれから先で掘り下げてみよう。『デュエル・マスターズ』はトレーディングカードゲーム(TCG)『マジック:ザ・ギャザリング』から派生した。
『マジック:ザ・ギャザリング』は、90年代からいまに至る日本のおもちゃとゲーム業界に多大な影響を与えた。次回は、TCG全般にも触れながら話を進める。