連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第35回
前回のコラムに引き続き、バンダイの話をもう少し。2000年10月にバンダイからPS1向けソフトとして発売された『北斗の拳 世紀末救世主伝説』をプロデュースしたのが内山大輔で、その売れ行きがよかったからか、上司の鵜之澤から「次は『ドラゴンボール』をやってみるか」と提案された。
『ドラゴンボール』の家庭用ゲーム機、携帯ゲーム機向けのゲームは、ファミコン初期の『ドラゴンボール 神龍の謎』(1986年、150万本販売)以来、毎年のように機種を変えたりしつつ発売されてきたが、マンガ連載はもとより(1995年に終了)、アニメ放送も終了(1997年に『ドラゴンボールGT』終了)していたから、このころは終わったIPのような扱いだった。2024年現在の人気ぶりを考えると、若い人にはそんな扱いは想像できないかもしれない。
言い換えれば超絶人気を誇ったキャラクターとして“復活”の頃合いであったかもしれない。2000年からフランスでジャパンエキスポが始まり、『ドラゴンボール』は人気だった記憶があるし、アメリカでは1998年からcartoon networkでアニメ放送が始まり人気が再燃していたから、グローバルでの販売が期待できるという思惑もあったのだろう。PS2向けソフトは開発費が5億円以上かかるからグローバルで売れればそれだけ採算分岐を超える可能性が高まる。
PS2向け『ドラゴンボールZ』は予定より1年遅れ2003年、『ドラゴンボールZ2』は2004年、『ドラゴンボールZ3』は2005年に発売された。国内で150万本、海外で750万本のメガヒットとなった。
2019年にゲームエンジンUnityの開発者向けイベント(Unite Tokyo 2019)が東京で開催され、電ファミニコゲーマー編集長の平信一が司会をし、バンダイから鵜之澤伸とプロデューサーを担当した内山大輔、元『少年ジャンプ』編集長で鳥山明を見出した鳥嶋和彦による座談会があって、そこでその開発秘話が披露された。
このシリーズの発売に当たっては、鳥嶋から作り直しに近い‟監修“があって発売が遅れたが、しかしそのかいあってかクオリティも上がり、集英社、東映アニメとのコラボレーションも実現した。というのも、2002年12月から集英社がA5判のコミックス『DRAGON BALL 完全版』(全34巻)を発売開始し、翌2月にPS2向けゲーム『ドラゴンボールZ』が発売され、3月にポニーキャニオンの『DRAGON BALL Z DVD BOX DRAGON BOX VOL.1』が発売とタイミングが重なったことでキャンペーンがかみ合い、相乗効果を発揮することができたという。
後日譚として、『ドラゴンボール』のカードゲームについても鳥嶋から厳しい注文があったことが明かされた。ちょうど『遊☆戯☆王』のカードゲームが人気沸騰中で、鳥嶋は『ドラゴンボール』のカードゲームにも高いゲーム性を、ライセンシーであるバンダイに求めた。
バンダイ側からは、その要求にこたえるためには開発の時間的猶予が必要なので、その間TVアニメ『ドラゴンボールZ』をリニューアルして再放送し、コラボしようという逆提案があったという。その結果『ドラゴンボール改』(1期2009年~、2期2014年~)のテレビ放送と、2010年にスタートしたカードゲーム『ドラゴンボールヒーローズ』シリーズが、高い相乗効果を発揮した、というエピソードが語られている。
その後は劇場映画版『ドラゴンボールZ 神と神』(2013年)、『ドラゴンボールZ復活の「F」』(2015年)、TVアニメは『ドラゴンボール超』(2015年~2018年)と続いた。これらがみな成功し、2015年に始まるスマートフォン向けゲーム『ドラゴンボールZ ドッカンバトル』の途方もない成功につながっていく。
キャラクターが時代時代にあわせて息を吹き込まれ、何世代にわたっても愛される例がここにある。ディズニー以来のキャラクターマーチャンダイズの成功例に、『ドラゴンボール』も加わった。それは単独の力ではなく、集英社、バンダイ、バンダイの抱えるデベロッパー、東映動画、フジテレビによるコラボレーションによって実現したものだ。
話を少し変える。
2004年4月に台東区駒形にバンダイの新社屋が完成し、その披露の会があった。そこに招かれた当時ナムコの会長だった中村雅哉と、高須武男とは響き合うものがあったようだ。『私が選んだ後継者』(松崎隆司、すばる舎、2007年)は、その年の12月24日、高須が中村の誕生日にバースデイケーキを持って訪ね、合併の口約束をする様子を描いている。
家庭用TVゲームならびに業務用ゲームの業界では、2000年代に入ると合併が相次いだ。消費不況、ゲームの高度化による開発費の高騰、グローバル市場における日本勢の相対的劣位などが、企業統合を促した。
2003年のスクウェアとエニックス、2004年のセガとサミーが先行例だ。ナムコは1999年ぐらいから経営不振が目立ち始め、中村の高齢もあって2000年代に入ると合併の相手先を探る動きが始まった。一方高須は、社長就任後に見事にV字回復を実現して見せたが、2000年代に入って本業の玩具市場は下降傾向だったから、デジタルの世界での躍進が全体の成長に欠かせないと思えたのだろう。
合併前のバンダイの事業セグメントの内容を見るとトイホビー事業の売上は1,469億円で全体の54%に上り、伸長著しかったゲーム事業はまだ385億円、期待のネットワーク事業(モバイルコンテンツ事業と映像オンデマンド配信事業)も106億円だった。だから、少子化の中でこれらデジタル事業の成長を期するのは当然だった。その際、ナムコの内製に強い開発力を頼るだけであればその後の成長はなく、バンダイの商社的機動力が支配的であったこと、キャラクターマーチャンダイジングの能力が、成長のカギだったことを強調したい。
バンダイナムコグループは2005年9月にバンダイナムコホールディングスを設立した。統合後の事業区分は
- トイホビー事業
- アミューズメント施設事業
- ゲームコンテンツ事業
- ネットワーク事業
- 映像音楽コンテンツ事業
- その他
となった。このうち経営統合で両社が一体となったのは、ホールディングスとしての管理部門と両者のゲーム部門を統合したバンダイナムコゲームスだ。この事業を統括したのはナムコ出身の石川祝男とバンダイ出身の鵜之澤伸で、ゲーム部門は両社融合の象徴となった。
合併を経ていっとき赤字に陥ったこともあったが、バンダイナムコは順調に成長した。2017年6月のバンダイナムコの投資家向け情報のインタビューで、バンダイナムコエンターテインメント(バンダイナムコゲームスが母体)社長の大下聡は、『ドラゴンボールZ ドッカンバトル』や『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』などのスマホゲームが急成長していること、『DARK SOULS Ⅲ』(※海外版はバンダイナムコエンターテインメントが販売)、『ドラゴンボール ゼノバース2』といった家庭用ゲーム機タイトルが特に欧米で好調に推移したことに言及している。
大下がインタビューに答えたその年(2018年3月期)の売上6,783億円のうち、トイホビー事業は2,224億円であるのに対し、ネットワークエンタテインメント事業(ネットワークコンテンツ、家庭用ゲーム、業務用ゲーム、アミューズメント施設を含む)は4,059億円にのぼった。バンダイナムコはIPを軸にさまざまなサービスと商品をグローバルに提供する世界でも稀有な企業体となったが、1990年代に山科誠が抱いたデジタルエンタテインメント企業の夢が、ようやく実ったという見方もできるだろう。
面白いもので、やっぱり社風というのがあって、おもちゃの業界では“バンダイは狩猟民族、トミーとタカラは農耕民族”という表現があった。これまでこの連載を読んでくださった皆さまならピンとくるだろう。
ブーム商品に果敢に挑戦してきたバンダイと、定番商品を育成してきたタカラにトミー。これに加えてぼくは、バンダイの人材が若手、中堅、経営層と順当に入れ替わっていくその風通しのよさに注目してきた。先代オーナーの直治が早い時期から社員に株を持たせ、責任を持たせた分社化、あるいは買収を繰り返してきたことに源があるのだろうか。いまだにこの企業風土の秘密がぼくには解明できていない。