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【追悼文】近藤社長に引き継がれた“加藤イズム”が良質のゲームを生む。元コンプティーク編集長・佐藤辰男氏が“日本ファルコム”というメーカーの在り方を語る

文:電撃オンライン

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 昨年に逝去された日本ファルコム会長・加藤正幸氏。元コンプティーク編集長・佐藤辰男氏による、加藤氏へ向けた追悼の言葉を掲載します。

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創業以来“グッドカンパニー”であり続けた“日本ファルコム”というメーカー


 日本ファルコムの会長だった加藤正幸さんが、昨年(2024年)12月15日に逝去されました。加藤さんは1946年生まれのいわゆる団塊世代で、享年78歳でした。

 加藤さんは1981年に日本ファルコムを創業しました。自動車メーカーのシステムエンジニアだった加藤さんは、とある展示会で発売されて間もないAppleIIを見て衝撃を受け、脱サラをしてApple社の販売代理店からスタートし、翌年からPC向けゲームソフトの開発販売を始めました。

 『ドラゴンスレイヤー』(1984年)、『ザナドゥ』(1985年)、『イース』(1987年)、『ソーサリアン』(1987年)といったPC向けゲームタイトルは常に売上ランキングの上位を占め、シリーズ化され長く愛されました。

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 そのころぼくは、1983年に角川書店からパソコン雑誌“コンプティーク”を創刊しました。すでに『ASCII』『マイコン』『I/O』『マイコンBASICマガジン』など50誌を超える先行する雑誌があって創刊当初は苦戦しましたが、編集方針をゲーム攻略法に絞り、人気のあったファルコムゲームを分厚く紹介することで部数を次第に伸ばしていきました。

 加藤さんは話好きで、立川に伺うと必ず数時間話し込むことになりました。それだけに加藤さんから吸収することがたくさんありました。加藤さんは、ゲームタイトルのマンガ化、小説化、アニメ化に熱心で、それらの組手として専らぼくたち“コンプティーク”を選んでくれました。

 そんなことから“コンプティーク”は、ゲーム攻略雑誌からゲームメディア総合誌となって、いつの間にか類誌一番誌に成長していきました。加藤さんは、ゲームがIPの起点となって様々に楽しまれる今のトレンドの先駆けだったのだと思います。また音楽もとても大事にし社内にバンドを持っていましたから、一緒にコンサートを開催し恒例の人気イベントに育てました。

 日本のゲーム業界の勃興期であるこの時期には、3つの潮流がありました。先行したのはタイトー、ナムコなどのアミューズメント業界(業務用ゲーム機)と、任天堂、バンダイなどのおもちゃ業界(家庭用テレビゲーム機)でしたが、少し遅れて日本各地に誕生したのが、個人レベルの小さな資本のPC系のソフトハウス(と当時は言われた)でした。

 この人たちは、AppleIIや、これに刺激されて日本でも発売された シャープ『MZ80C』、NEC『PC-8001』(いずれも1979年)などのPCカルチャーに触発されてゲーム開発を始めたベンチャーで、日本ファルコムを筆頭にスクウェア、エニックス、光栄、ハドソン、システムソフトといった会社がありました。パソコン雑誌からプログラミング言語の知識を学び、そこに掲載されているベーシックや機械語のリストを打ちこんでゲームを楽しむ、あるいはカセットに入ったプログラムで遊ぶことが潮流となりました。

 小学校中学年ぐらいになった団塊ジュニアが“マイコン少年”と言われ、30代に達した団塊世代以下が、実用系、ビジネス系、そしてゲームを楽しみ、やがてその関係が受け手と送り手の関係となってソフトハウスが次々に誕生する、その時代の先頭に加藤さんがいたのです。

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 加藤さんが先駆けたこの時代は、PCゲームにファミコン、ロールプレイングゲームやカードゲーム、あるいはアニメやマンガなどの新しいカルチャーが、一挙に爆発的に拡大した時代でした。

 カルチャーというのは一挙に爆発することがあります。ぼくは、19世紀のフランスに印象派の画家が次々に生まれたように、1950年代、60年代のニューヨークやシカゴが、天才的なジャズミュージシャンを次々に輩出したように、1980年代の日本ではゲームの世界(とアニメ、マンガ)でそういうことが起こったのだと思います。宮本茂さん、堀井雄二さん、坂口博信さん、シブサワコウさん、中村光一さん、中本伸一さんなどの才能が生まれました。

 日本ファルコムも才能の梁山泊で、天才プログラマー木屋善夫さん、作曲家の古代祐三さん、アニメーション監督の新海誠さん、ゲームクリエイターの高橋哲哉さんなどの才能を輩出しました。パソコンショップやソフトハウス、ゲーム雑誌の編集部などが才能の溜まり場となるパターンはこの時代あちらこちらで見られた現象で、“コンプティーク”の編集部からも、ライトノベルやマンガの新しい才能が育った時代です。そういう時代の先頭に加藤さんがいました。

 あれから長い時間が流れて、日本のゲーム業界は巨大化し、バンダイナムコは任天堂と並ぶ一兆円企業となったし、ソニーはもう家電のイメージはなくてゲームを中核とするエンタメ企業に変身しました。スクウェア・エニックスもコナミもカプコンも巨大なIP企業に成長しました。

 そういうとき、日本ファルコムの行き方は違いました。規模の拡大を求めずに高収益企業への道を歩みました。これは至難の業です。創業以来グッドカンパニーであり続けた。

 加藤さんはスタイリッシュな人でした。凝り性でゲームの完成度を高めることにはとことん拘りました。セリフやストーリーを大事にするゲームつくり、原点のような会社、周りが慌ただしく成長を求めるなかで他にとんちゃくせずわが道を歩きました。

 加藤イズムはいま社長の近藤季洋さんが引き継ぎ、良質のゲームを送り続けています。かつて才能の梁山泊だったファルコムは今も健在です。もしあなたがゲームクリエイターとして修業したいなら日本ファルコムに就職することを、勝手に(笑)お薦めします。

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 わたしごとですが、1992年に角川書店の子会社の役員だったぼくは、当時角川書店の副社長だった角川歴彦とともに職を辞し、新しいメディアワークスという会社を設立するという経験をしました。逆風のなかの船出で、角川書店と敵対的でしたから、当然周囲は様子見だったと思います。

 そんなときにあの出不精の加藤さんが、お土産を持って新しい事務所を訪ねてくれて、おおいに励ましてくれました。そのときの写真を、加藤さんは大事にとっておいてくれたのですね、お別れの会のオープニング映像にそれが流れたとき、ぼくは思わず涙ぐみました。加藤さんを囲んで角川さんもぼくもメディアワークスの役員たちもいい顔で笑ってる写真です。

 ぼくは思わず「加藤さんありがとう」とつぶやいていました。清々しい青春時代の一ページ(と言ってもぼくはもう40歳でしたが)のような懐かしい写真でした。

 加藤さんの晩年は長いあいだ病気と闘いでしたね。本当にお疲れさまでした。

 でも、あなたの撒いた種はしっかり育っていますよ。どうか安らかにお眠りください。加藤正幸さん、数々の素敵な思い出をありがとうございました。

 2025年3月17日/佐藤辰男

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『コンプティーク』元編集長・佐藤辰男氏がコラムに記した日本ファルコムとの関係について


 この国のおもちゃ・ゲームの100年の歩みを振り返る佐藤辰男氏のコラム『おもちゃとゲームの100年史』。このコラムの第23回では、日本ファルコムと『コンプティーク』の関係について記した回もありました。

 この回では、1980年代なかばの業界において日本ファルコムがどういう立ち位置だったのかを、佐藤辰男氏の視点を通してうかがい知ることができます。まだご覧になっていない人はこの機会にぜひご一読ください。

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