連載コラム“おもちゃとゲームの100年史 創業者たちのエウレカと創業の地と時の謎”第19回
さて、1983年1月のラスベガスのCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)は、前年に比べても一層きらびやかだった(と思う)。『VCS』に加え、1980年にはマテルが『インテレビジョン』を、1982年にはコレコが『コレコビジョン』といった次世代のカートリッジ式家庭用ゲーム機をリリースし、展示会では新しいソフトとともににぎにぎしくアピールしていた。
アタリも高性能の『アタリ5200』を市場に投入し(これに合わせて『VCS』は『アタリ2600』と名前を変えた)CESに展示したが、『アタリ2600』とのソフトの互換性がないため、他機との優位性はアピールできなかった。
アタリのブースで覚えているのは『アタリ2600』で遊べる『E.T. ジ・エクストラ・テレストリアル(E.T. The Extra-Terrestrial)』。言わずと知れたスティーブン・スピルバーグ監督の映画『E.T.』のゲーム化だ。映画は1982年の6月に全米で公開(日本は同年12月)され、7月には親会社のワーナーの号令でゲーム化の権利を取得し、そしてその年末には400万本を出荷した。
このゲームの実質的な開発期間は5週間だったとされ、膨大(ぼうだい)に売れ残ったゲームカートリッジは土地の埋め立てに使われたという伝説の●●ゲーだ(ぼくは下品な言葉を好まない)。
ぼくはアタリブースで誰かが試遊機で遊んでいるところを見ていたのだと思うが、ぼてっとして動きの乏しいE.T.のキャラクターがなんの目的で動いているのか見ただけではわからず、なにをするゲームなのか把握できなかった。
コレコのブースでは、『コレコビジョン』の横スクロール『スマーフ』などの新作が軽快に動いていたし、マテルのブースでは『インテレビジョン』で遊べる『D&D』のTVゲームなどに新鮮味を感じた。しかし、アタリブースは明らかに新鮮味に欠けていた。
さらに目立ったのは、いわゆるサードパーティの存在だった。『アタリ2600』に向けて、アクティビジョンのような大手のソフトハウスだけではなく、インディー系のソフトハウスがかなり出展していた。サードパーティの嚆矢(こうし)はアクティビジョンで、1979年にアタリを辞めた連中が創業し、『テニス』や『ホッケー』などのゲームを開発し1980年には大きな成功を収めた。
アタリの許可なくソフトを発売していたため、アタリはアクティビジョンに対して訴訟を起こしたが1982年にはロイヤルティーの支払いを条件に許諾するということで和解した。アタリは労せずしてロイヤルティーが入ってくる仕組みを作ったことになる。
以降アタリを辞めた連中や既存のエンタメ業界の新規参入者が、サードパーティとしてゲームを制作するようになった。アタリはなんの審査もせずに無制限で許諾し、その結果●●ゲーがあふれ返った。
“CES”の会場は広大で、そのなかにはアダルト系のビデオやゲームを展示するスペースがあって、ぼくは取材だから(仕方なく)その辺りも見て回ったが、とあるブースで『アタリ2600』向けの『パックマン』のパクリゲームを見たときは目を覆いたくなった。迷路のなかを女性を思わせるアイコンが逃げ惑う。それを男性を思わせるアイコンが追いかけ、その男性のアイコンをハサミが追いかけるという、なんとも言えない代物だった。
『パックマン』といえば、アタリがナムコから許諾を受けて発売した『アタリ2600』向けのものが、前年の春にはリリースされていた(この年の展示会に出ていたかどうかは記憶にない)。YouTubeで検索するとそれを見ることができるが、『パックマン』のいいところがひとつも生かされていないひどい移植だ。
これについて『「アタリ社の失敗」を読む』(スコット・コーエン、ダイヤモンド社、1985年)は、『スペースインベーダー』、『アステロイド』と並べてヒット・カートリッジと紹介している。そう、よく売れたのだ。
あのアーケードのヒットゲームが家庭で遊べる! と期待したユーザーがこぞって買った。いま思うと『パックマン』が家で遊べると期待に胸をふくらませてカートリッジを差し込み、電源を入れたユーザーの怒り顔(それとも泣き顔?)が目に見えるようだ。
1982年の12月7日までは、証券アナリストはアタリの親会社であるワーナーの今年度売り上げは前年度の50%アップ、というワーナー側の発表を真に受けていた。ところがその翌日にワーナーは、アタリの売り上げ下降を理由に、ワーナーの第4四半期(1982年の10月~12月)の利益は発表数字の10%、せいぜい15%と公表しアナリストを激怒させ、ワーナーの株価は暴落した。これがいわゆる“アタリショック”だ。
かくして1982年のクリスマスのTVゲーム機商戦は惨憺(さんたん)たるものとなった。
『「アタリ社の失敗」を読む』がダイヤモンド社から翻訳出版されたのは、ワーナーがアタリを耐えきれずに他に売却する翌年の1985年6月だったから、ビジネス界でも話題の本として受け入れられた。アタリは登場も退場も派手なうえ、失礼ながらブッシュネルはどこかしらうさん臭さもあったから、物語としてもおもしろかった。
しかし日本のおもちゃ業界と、立ち上がったばかりのゲーム業界の人々は、熱心にこの本を読んだはずだ。ぼくは一時期この本を何冊か買い込んで、押しつけがましく知り合いの業界人に贈った記憶がある。
アタリの失敗があまりに劇的だったせいか、アメリカのゲーム市場はパソコンが主戦場となった。『アップルⅡ』向けにブローダーバンドやアクティビジョン、エレクトロニック・アーツなどが、その波に乗った。
ちょうどこのころ『アップルⅡ』で遊べたサーテックソフトウェアインクの『ウィザードリィ』、Origin Systems(オリジン・システムズ)の『ウルティマ』、そしてテーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などが、日本にも上陸しRPGブームをけん引した。
アタリも高性能の『アタリ5200』を市場に投入し(これに合わせて『VCS』は『アタリ2600』と名前を変えた)CESに展示したが、『アタリ2600』とのソフトの互換性がないため、他機との優位性はアピールできなかった。
アタリのブースで覚えているのは『アタリ2600』で遊べる『E.T. ジ・エクストラ・テレストリアル(E.T. The Extra-Terrestrial)』。言わずと知れたスティーブン・スピルバーグ監督の映画『E.T.』のゲーム化だ。映画は1982年の6月に全米で公開(日本は同年12月)され、7月には親会社のワーナーの号令でゲーム化の権利を取得し、そしてその年末には400万本を出荷した。
このゲームの実質的な開発期間は5週間だったとされ、膨大(ぼうだい)に売れ残ったゲームカートリッジは土地の埋め立てに使われたという伝説の●●ゲーだ(ぼくは下品な言葉を好まない)。
ぼくはアタリブースで誰かが試遊機で遊んでいるところを見ていたのだと思うが、ぼてっとして動きの乏しいE.T.のキャラクターがなんの目的で動いているのか見ただけではわからず、なにをするゲームなのか把握できなかった。
コレコのブースでは、『コレコビジョン』の横スクロール『スマーフ』などの新作が軽快に動いていたし、マテルのブースでは『インテレビジョン』で遊べる『D&D』のTVゲームなどに新鮮味を感じた。しかし、アタリブースは明らかに新鮮味に欠けていた。
さらに目立ったのは、いわゆるサードパーティの存在だった。『アタリ2600』に向けて、アクティビジョンのような大手のソフトハウスだけではなく、インディー系のソフトハウスがかなり出展していた。サードパーティの嚆矢(こうし)はアクティビジョンで、1979年にアタリを辞めた連中が創業し、『テニス』や『ホッケー』などのゲームを開発し1980年には大きな成功を収めた。
アタリの許可なくソフトを発売していたため、アタリはアクティビジョンに対して訴訟を起こしたが1982年にはロイヤルティーの支払いを条件に許諾するということで和解した。アタリは労せずしてロイヤルティーが入ってくる仕組みを作ったことになる。
以降アタリを辞めた連中や既存のエンタメ業界の新規参入者が、サードパーティとしてゲームを制作するようになった。アタリはなんの審査もせずに無制限で許諾し、その結果●●ゲーがあふれ返った。
“CES”の会場は広大で、そのなかにはアダルト系のビデオやゲームを展示するスペースがあって、ぼくは取材だから(仕方なく)その辺りも見て回ったが、とあるブースで『アタリ2600』向けの『パックマン』のパクリゲームを見たときは目を覆いたくなった。迷路のなかを女性を思わせるアイコンが逃げ惑う。それを男性を思わせるアイコンが追いかけ、その男性のアイコンをハサミが追いかけるという、なんとも言えない代物だった。
『パックマン』といえば、アタリがナムコから許諾を受けて発売した『アタリ2600』向けのものが、前年の春にはリリースされていた(この年の展示会に出ていたかどうかは記憶にない)。YouTubeで検索するとそれを見ることができるが、『パックマン』のいいところがひとつも生かされていないひどい移植だ。
これについて『「アタリ社の失敗」を読む』(スコット・コーエン、ダイヤモンド社、1985年)は、『スペースインベーダー』、『アステロイド』と並べてヒット・カートリッジと紹介している。そう、よく売れたのだ。
あのアーケードのヒットゲームが家庭で遊べる! と期待したユーザーがこぞって買った。いま思うと『パックマン』が家で遊べると期待に胸をふくらませてカートリッジを差し込み、電源を入れたユーザーの怒り顔(それとも泣き顔?)が目に見えるようだ。
1982年の12月7日までは、証券アナリストはアタリの親会社であるワーナーの今年度売り上げは前年度の50%アップ、というワーナー側の発表を真に受けていた。ところがその翌日にワーナーは、アタリの売り上げ下降を理由に、ワーナーの第4四半期(1982年の10月~12月)の利益は発表数字の10%、せいぜい15%と公表しアナリストを激怒させ、ワーナーの株価は暴落した。これがいわゆる“アタリショック”だ。
かくして1982年のクリスマスのTVゲーム機商戦は惨憺(さんたん)たるものとなった。
『「アタリ社の失敗」を読む』がダイヤモンド社から翻訳出版されたのは、ワーナーがアタリを耐えきれずに他に売却する翌年の1985年6月だったから、ビジネス界でも話題の本として受け入れられた。アタリは登場も退場も派手なうえ、失礼ながらブッシュネルはどこかしらうさん臭さもあったから、物語としてもおもしろかった。
しかし日本のおもちゃ業界と、立ち上がったばかりのゲーム業界の人々は、熱心にこの本を読んだはずだ。ぼくは一時期この本を何冊か買い込んで、押しつけがましく知り合いの業界人に贈った記憶がある。
アタリの失敗があまりに劇的だったせいか、アメリカのゲーム市場はパソコンが主戦場となった。『アップルⅡ』向けにブローダーバンドやアクティビジョン、エレクトロニック・アーツなどが、その波に乗った。
ちょうどこのころ『アップルⅡ』で遊べたサーテックソフトウェアインクの『ウィザードリィ』、Origin Systems(オリジン・システムズ)の『ウルティマ』、そしてテーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などが、日本にも上陸しRPGブームをけん引した。